出来れば今日はこの動画をループ再生しながら読んでもらえると嬉しい。
きっと、この歌に合っている雰囲気の文章だと思うから。
https://www.youtube.com/watch?v=ga94wVeFBac
私の人生を振り返ってみるとその有様に惨憺たる思いがしてくる。
年末、私の地元で同窓会のようなものが開かれた。
私たちの代は仲が悪く、これまで一度も同窓会など開かれた事がなかった。
私は何気なしにそこへ参加したのだが、やはりあの地域で育った人間は地獄を生きたのだと痛感した。
貧困も殺人も傷害も薬物も何もかもが揃っていた地域。
弱い人間は搾取されるしかなかった場所。
世間を騒がせる凶悪事件がまだ起きている所。
そんな中で私たちの育った家庭は崩壊するのは当然だったのかもしれない。
そして、そのような場所で育った人間が世間からズレていくのも自然の摂理なのだろう。
貞操観念も金銭感覚も道徳心も自制心も、何もかもが空気に溶けてしまって、私たちはただ空虚な肉の器として生きていた。
私は耐えがたいと常に思いながら生きていたように思う。
このまま淪落し続ける自分の有様に、私はどうしても耐えられなかった。
初めて自殺未遂をしたのは10歳の時だった。
私は生まれた事を後悔し続け、今の今まで生き永らえた。
そして、おそらくあの同窓会に集まった中の何人かは、私と同じような世界を見て生きたのだと思う。
何人かは半グレに落ちぶれ、何人かは刑務所へ入ったらしい。
私には私の地獄があった。
彼らには彼らの地獄があったのだろう。
私は犯罪者になった人間を恨むし、その弱さを許せない。
それはいつ私が彼らのようになっていたかも分からないという、同族嫌悪に近い情緒なのだろう。
私は私が『私』であるというただそれだけの理由で、生死の境界線を越えたくなる。
そして、きっとそれだけが死に値する理由なのだ。
生まれてから死ぬその時まで人間は孤独。
誰に理解される必要があろうか。
幼い頃に感じた人間そのものに対する抑えきれない嫌悪感、憎悪が私の中にはまだ根付いている。
それは私も含めた人間全般が堕落をする事でしか生きられない事に由来しているのだ。
人として誠実に生きようとしても、どれほど人やものを労わろうとしても、私たちが触れた場所から全てのものが腐食していく。
大切なものであればあるほど触れられない事に気付いた時、私たちは何も所有などできない事を悟る。
私にとって触れられないほど大切で、繊細で、美しいものが誰かの手によって荒々しく握りつぶされていく有様を何度見た事だろう?
助けを呼ぶ事すら諦めていた時期、私はそのような光景を何度も網膜に焼き付けた。
そして、成人した今、暴君だったはずの人間たちがいかに臆病で愚鈍だったのかを知ると、私の幼少期はいったい何だったのかと思わざるを得ない。
幼い頃から鬱積した憎悪はこうして色を濃くしていく。
私の世界がまた一つ暗く、濁っていく。
ただ静かに、ただ何も感じず、ただ生きる事ができたなら。
憎しみを捨て、恨みを溶かし、悲しみを蒸発させ、苦しみを洗い流す事ができたなら。
私の人生は……。
醜く歪んだこの人生は、きっと人様に開陳する事も出来たのだろう。
しかし、そんな夢物語は実現などしない。
私はいつまでも人を避け、世間を曲解し続けるしかない。
だから、私は苔になりたいのだ。
誰にも見られず、存在は認識されても『私』が際立って目立つ事はない苔に。
それでも誰かを求めるのはなぜだろう?
私はきっと、この地獄を一緒に見てくれる人を探している。
人生が、世界がいかにグロテスクで歪なものなのか認識してくれる誰かを。
助けなど呼んでも来ない事を知っている誰かを。
産声は生まれた事を全身で拒絶する赤子の虚しい抵抗だと覚えている誰かを。
誰か。