私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

いくたびか筆をとれども……

いくたびか筆をとれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢既に八十路を越えたり。

 

 

こんな文章から始まる八十歳を超えた翁の日記を読んだ。

 

この翁は陸軍大将という日本軍の頂点に立った会津藩の生き残りで、世界中から拍手喝采を受けた偉人だった。

 

戦争という非日常に身を置き、質実剛健な人物が老年になっても涙が先立ち、この日記を書くまで語る事すら出来なかった話は、私が想像しているより遥かに凄絶なものだった。

 

会津藩滅亡から維新後の狂乱と薩長の腐敗を目の当たりにしながらも、それでも軍人として凛として生きた人だからこそ、ここまで人の胸を打つのだろうと思う。

 

幕末というと遠く昔の話のように感じるけれど、案外遡ってみるとそれほど昔ではないようにも思える。

 

私たちの生活は明らかに幕末の名残を残しているし、江戸や鎌倉、平安の匂いすら漂っているのだ。

 

たとえば私が長年続けている伝統芸能はちょうど幕末から始まったものだし、空手なんていつ伝わったのかすら定かではないほど昔から日本文化の中に組み込まれている。

 

私の部屋に飾ってある面は室町時代からあるもので、使っている薬膳の知識は優に2000年の歴史を越えている。

 

そんなものと同じ空間にパソコンが置かれキーボードがカチャカチャと音を立て、モニターが光っている。

 

日本というのは本当に不思議なところで、こうしたものが特に衝突をするのではなく溶けあっているような雰囲気がある。

 

しかし、その穏やかで丸みのある混淆が起きる前にはそのどれもが刺々しく切り立った角を持ち、何かに衝突するたびに何かが壊れ、血を流し、その結果として角が削られていったのだろう。

 

こうした角を持つものとぶつかり、血を流した人間の一人が八十路の翁であり、過渡期が人をどれほど痛めつけ、傷付けるのかを教えてくれたような気がしている。

 

私にとって過渡期を乗り越え、艱難辛苦を味わった翁の話は他人事ではないのだ。

 

なぜなら、今の時代はまさに過渡期であり、今まさに世界が混流の中にある。

 

池を底から搔き乱したかのように、本来沈殿しているはずのものが浮上し、本来上澄みとなるはずの美しいものが汚濁に塗れている。

 

たとえば人は何の為に生きているのだろう? という事。

 

生まれ、命を保ち、死ぬ。

 

その不文律の中で知性を持つ人間として生きるというのはどういう事なのか。

 

八十路になっても涙を禁じ得ない痛みを抱えながら、それでも生きるというのは何の意味があっての事なのか。

 

この為なら死んでも構わない、という自分以上の何かの価値を見付ける事で、おそらく人は生きる事が出来るのだと思う。

 

例えば愛する人でも良いだろうし、家を守るという事でも良い。

 

何でも良いのだ、自分より価値のあるもののために、自己をどれほど犠牲にしても良いと思えるならば。

 

おそらく、自分を最上の価値にした生き方はグロテスクで唯物的で、周りの人間から見ればそんな人物は視界に入るだけ目障りな存在に違いない。

 

そんな風に生きたいと誰もが思っているのかもしれないけれど、人は死ぬ。

 

いつか必ず死ぬのに後生大事に己を保護としている様は、燃え盛る炎に対して手で水を汲み掛けて消そうとしているような虚しさがある。

 

そんな事をしても無駄だよ、と誰もが思っているのだろう。

 

こんな偉そうな事を書いている割に、私は結構自分を大切にしている。

 

毎日運動をしているしストレッチも欠かさない。

 

夕食には毎回とろろ昆布のお吸い物を作り、自家製ヨーグルトを食べ、寝る前には薬膳茶を必ず飲む。

 

一見すると私は確かに普通以上に己を大切にしているのだけれど、本当の意味はそうではないのだ。

 

私は私の感覚が鈍ってしまうと、本当に呼吸すら辛くなってしまう。

 

不眠症が続くこの体では、普通の人以上に死が傍にある。

 

コンビニへ行くような軽さで、私は生死の境を飛び越えてしまうかもしれないのだ。

 

それで何がいけないんだ、という気もするが、私にはまだいくらかやる事が残っている。

 

ある程度の金を残したいし、死ぬなら死ぬで憂いは消しておきたい。

 

私は自分の感覚がしっかりと機能している状態であれば、人生がそれほど嫌なものに思えない。

 

逆に言えば私は己の感性だけを命綱にしている。

 

命綱なのだから私にとって感性は何よりも大切で、だからこそ体を労わらなければならない。

 

この為だったら死ねると思えるものの為に死ねるタイミングが来た時、私が迷わず死ぬためにも感性は不可欠なのだ。

 

つまり、死ぬ時に死ぬ為に私は自分を大切にしているという矛盾がここに浮かび上がってくる。

 

ここからまた一万文字くらい話を続けたいのだけれど、ジョギングの時間が来たのでやめにしておく。