明日から仕事で何万文字も文章を作らなければならないので、指のリハビリのためにブログを更新していきたいと思います。
さて、今日は少し暗い雰囲気のお話です。
個人的には暗いとは思わないのですが、今からする系統の話は暗い話として受け止められやすいのです。
それはさておき、最近私がよく考えているのはやりたい事が出来る人生は幸福なのかどうなのか? という事。
やりたい事に当てはまるものは何でも良いのです、人それぞれですから。
お金持ちになりたい、綺麗になりたい、強くなりたい、有名になりたい、というようなものが当てはまりやすいですね。
しかし、やりたい事というのは欲望と言い換えられます。
欲望に従って行動し、欲望が満たされる事が幸福なのだと思う人生は本当に自分が納得の出来るものなのかどうなのか、それが気になります。
つまり、それは「私」の人生ではなく「欲望」が私を振り舞わしている状態だと言っても良いからです。
もちろん、欲望が満たされる事に対して不快感はないでしょう。
それと同時にある欲望が満たされると、さらに強い欲望が生まれるというのがよく起きる出来事なのです。
最初は100万円あれば良いと思っていたけれど、100万円を手にしてみると次は1000万が欲しくなるというように。
その際限のない欲望の渦に巻き込まれていく過程の中で、自分の人生はいつしか欲望を満たすための手段に成り下がるかもしれません。
欲望が満たされる事が悪いと言いたいわけではないのです。
私が常に気にしているのはバランスであり、欲望もある程度は満たされる必要があるけれど、欲望を満たすのはあくまでも手段だと忘れたくありません。
欲望に流されやすくなっている時というのは、気持ちの移り変わりがとても激しくなっています。
物事の皮相ばかりが気になって、その真相について無頓着になるのです。
忍耐力がなくなっている状態と言い換えても良いでしょう。
流行に対してとても敏感になり、あれやこれやと目移りをしてしまう。
なぜかと言えば、欲望そのものが安定しているものではないからなのです。
次々へと新しいものが生み出され、広告され、放縦放埓な潮流が生み出されるのは欲望がそのような性質を持っているからなのでしょう。
ですから、私としては自分が流行を気にしだした時には一端止まるようにしています。
私の場合はそういう時に限って、大切なものを蔑ろにしている事が多いからです。
私はただ穏やかに毎日を過ごせるだけで無上の喜びを覚えられます。
もちろん、それ以上の幸福を拒絶したいというわけではありません。
しかし、今以上の幸福がなければ、今以上に欲望が満たされなければ不十分だと考えたくはないのです。
世の中では欲望が満たされる事それ自体が善である、幸福であるという論調が古来より語り継がれています。
欲望が満たされる事が幸福に繋がるという発想は、今の自分が幸福ではないという前提になっているのです。
欲望を追いかけ快楽を追求するという行動は幸福へと向かっているようで、実は永劫満たされる事のない渇きを覚えているようなものなのかもしれませんね。
我が愛する昭和のポエマー吉野弘が言ったように「落下しているのに、飛翔していると信じて」いる状態にも近いのでしょう。
私は私の欲望が何を欲しているのか? ではなく、私自身が何を求めているのか? を気にして過ごしたいと思っています。