結局のところ、私たちは私たちの聞きたいものを聞き、見たいものを見て、無自覚のうちに自己にとって心地良い解釈の中で生きるしかない。
例えば私が今、誰かに向かって話しているとすれば、それは私が自発的に話をしているという面がある。
しかし、その時には私が話したいことを話したいように話すわけにはいかない事情がある。
相手に向かって話しているのだから、相手との話に合うような切り口で話す必要があるのだ。
つまり、自発的に話しているはずなのに、相手がいるという事情によって話を「させられている」という面もあるという意味になる。
1つの物事には必ず正反対の側面が生まれてしまうのだ。
私は今、呼吸をしているけれど体が強制的に私に呼吸を「させている」という面があるように、全ての物事には必ず正反対のものが付きまとう。
私は生きているけれど、生かされているし、文章を作るために画面を見ているけれど見「させられ」ている。
ありとあらゆるものが正反対の側面を持ち、それなのに1つのもの事や1人の人間として評価を下されるのだ。
ある人から見れば鬼のような人物であっても、ある人から見れば聖人君子のようにも映るのは何故なのか?
そこで最初の結論に戻る事になる。
つまり、人は見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、考えたいように考えているのだ。
そうやって生きるしか、人には選択肢が残されていない。
自分自身の解釈の中で生きているから、同じ人に対する評価が正反対になる事がある。
それは人が持つ複雑さが顕現しているからと言うよりも、人それぞれが世界観を持っているからこそ良し悪しがはっきりとしてしまうだけなのだろう。
愛にしても死にしても、仕事にしても家族にしても、人はありとあらゆる対象に評価を下す。
そして、その評価は明らかに自己が作り上げたものであり対象の本質を映し出しているわけではないにもかかわらず、その対象の本質として認識する事になる。
アイツは良い奴だ悪い奴だ、アレは良いものだ悪いものだ、というように。
つまりは解釈次第という事になるのだけれど、この話が行き着く先は善悪の境界線がない世界なのだ。
何をしても解釈次第なのだからOKという世界の中で起きるのは、単純に力が強いものが這い上がり何をしても許されるのだという世界がやって来る。
それを防ぐためにホッブズはリヴァイアサンの中で自然状態の悪辣さを指摘し、ソクラテスは善について説き、キルケゴールは絶望からの救いを訴えた。
何をしてもOKではない世界を作るために、社会という概念が生まれ、そこには国家という機能が配置されたのだ。
結局、社会というのはどこにも存在しない概念のものなのだ。
社会を指差して示す事が出来ないのは概念だからであり、存在するものではないという事情による。
国家も同じくそうだ。
愛も死も生も堕落も、何一つとして指差して示す事が出来ない概念上のものであり、人はそれが概念だと気付かず、当然存在するものとして考える。
全てはフィクションなのだ。
私たちが生きる世界の中に「真実」なるものは何一つとして存在しない。
あるものは解釈、ただそれだけ。
つまり、私の考える世界というものは「私たちが感じ取れる範囲内」の事であり、私が死ねば世界は終わる。
私の感じられない世界が、どうして私の世界の中に存在する事が出来るだろうか?
世界とはつまり私の事なのだ。
私が盲目になれば世界から光は失せるし、私の聴覚が機能しなくなれば無音の世界が広がる。
そして、そのような私の世界を1人1人が持っているのだ。
他者との理解がいかに難しいのかを考える時、世界と世界が衝突しているのだと思えばその理由が判然とする。
最近は両極端に振れる考えに振り回される事が多くなっているけれど、まずはこうした前提をしっかりと自分自身で押さえておきたい。