正反対のものから正反対のものが生まれるという話は、古代ギリシャ哲学の中でもよく言われていたものです。
寝ているから起きる事が出来る、動いているから止まる事が出来る、話しているから黙る事が出来る。
正反対のものから正反対のものが生まれるというのは、具体的にはこうした話になるのです。
そこで先程考えていたのですが、愛情からは何が生まれるのでしょうか?
愛憎という言葉があるように憎しみが正反対のもののようにも思ったのですが、相手に対する執着の良い面が愛であり、悪い面が憎しみなのだと考えれば両者は同じ幹から伸びる別の枝という話になります。
マザーテレサの言葉を借りれば愛情の正反対には無関心があると考えて良いでしょう。
相手に対する執着心の良い面が愛情なのですから、無関心が正反対というのはとてもしっくりと来る回答です。
さて、それでは愛情から無関心が生まれるというのはどういうことなのか?
例えば人間には必ず限界がありますから、与えられる愛情にも限界があると考えて良いでしょう。
仮にAさんが他者に与えられる愛情の上限を100だとすれば、これを誰かに割り振るという事になります。
Aさんが4人の人に対して均等に愛情を与えるのであれば、それぞれに対して25ずつの配分となりますが、例えば特定の誰かに50与えたとなれば残りの50で愛せるのは2人だけとなり、結果的にそれまで愛情を与えていた残りの2人を愛せなくなるのです。
なるほど、確かに無関心が生まれているわけですね。
では、誰かを熱烈に愛するという行為には必ず代償が付きまとうと考えて良いでしょう。
誰かを愛するのなら、誰かを愛さなくなるという話になるからです。
本当に愛情深い人は目の前にいる人たちをとても大切にしているというイメージがあります。
目の前の人たちに100の愛情を注げるという強い姿勢を感じるのです。
自分の愛する人たちが一堂に会するという場面は、全くないと断言して良いでしょう。
つまり、愛している人たちの一部が私の目の前にいるという状況ばかりだと言えます。
愛している人の全員が目の前にいるのならば確かにそこに無関心が生まれてしまうようにも思えますが、一部しかいないのなら目の前にいる人に対して100の愛情を注げば、結果的に愛する人たち全員を大切にする事が出来るのかもしれません。
この説明で伝わって欲しいと思うのですが、文章だけだと厳しいでしょうか。
ここで気になるのは目の前にいない人に対して愛情を持つ事が出来るのかどうかという点です。
もちろん出来ます。
昔飼っていた猫や犬でも良いでしょうし、死別した親類、友人などでも愛情を向ける対象になります。
そして、私の個人的な感覚だけで言えば”今いない人”に対する愛情を持っている人は非常に穏やかな人が多いのです。
器が大きいというか泰然自若としているというか、イメージとしては山や海を彷彿とさせる何かがあります。
先程の話に絡めて言えば、目の前にいる人たち以外にも愛情を注ぐ対象があるからこそ、良い意味で目の前にいる人だけに執着をしていないのでしょう。
少し脱線しますが、この話で思い出すのは死者の民主主義という考え方です。
死者の民主主義をざっくりと説明すると
・現在の状態は過去の人たちによって作られて来たものである
・だからこそ、現在を生きる人間だけの損得勘定だけで投票する事は不敬である
・よって、先達に顔向けが出来る発想を持ち、その国の国柄や伝統を傷付けないように国家運営を考え、投票行動を取るべき
という話なのです。
目の前にいる人たちは過去から連なる人々の先頭にいるだけであり、時が来れば目の前にいる人も過去から連なる人々に入るのです。
目に見えるものだけを信じない、その背景まで包含して考えるという姿勢からは寒気がするような落ち着きを感じます。
なるほど、目の前にいる人だけを愛さない、今は亡き誰かや何かを愛する人たちが泰然としているのはこうした理由からなのかもしれませんね。
そう考えると人というのは本当に不思議な生き物です。
今を生きているのに過去や未来を含んだ形で生きているのですから。