目が増えてから鑑定力が上がった。
知りたくないことまでわかる。
虐待児のケアがあまりにも辛すぎて、あの業界から離れたのに。
私はまた人の心の襞に入り込むような真似をしている。
幼稚園児の頃から人の心が何か知りたかった。
今でもその熱意が変わることはなく、私はまだ人の心が何か知りたがっている。
知りたい、なんて言葉では生温い。
園児の頃から喉の乾きに苦しめられているような、潤いを求める激しい渇望。
人は、人って何なのだろう。
傷付いたはずの心は存在すらせず、それなのに私たちは心の痛みを引きずって生きている。
自己顕示欲、臆病、卑劣、狡猾、放縦、放埒、色欲、物欲。
私たちの心は垢まみれで、そのくせ御祓を嫌う。
とことん汚れているはずなのに、存在しない心とは何か。
心理学も哲学も占いも東洋医学も武道も伝統芸能も何もかもが心の片鱗しか見せてくれなかった。
心が存在しないことに気が付くことが悟りで、存在しないからこそ傷付くこともない。
そんなの嘘だ。
私たちは日々傷付いて、人のあまりの醜悪さに辟易としているじゃないか。
蠢く垢まみれの人で満たされた空蝉に吐き気を誘われているじゃないか。
これが心ではないなら、何を心と言うのか。
価値観や感覚の総体を私たちは都合よく心と名付けている。
感覚が鈍く、価値観が不明瞭ならば心も朧になるだけ。
しかし、心が明瞭になると垢まみれで、無理解な人の群れから数の力で磨り潰される。
誰が産まれたいというのか、こんな場所に。
何の希望がある、ここに。
私は嘆息しか吐けない。
異形の世に堕とされ、人間もどきとして生きていくしかないこの人生に。
それなのに私は人に誰よりも関心がある。
心が気になるとは、そういうことだ。