私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

時間と空間

木曜日から仕事になりますので、今の内に指の体操をしてタイピングの速度を落とさないようにしておきたいと思います。

 

少し気を抜くとあっという間に更新期間が空いてしまいますね。

 

今日は先日友人から勧められたキリンサプリの快眠を誘うやーつーを先程飲んで、早くも睡魔に襲われつつある中でなぜか文章を作っている次第です。

 

文章書くのが好きなんですよね。

 

さて、どうでも良い話はさて置き、夏も終わりに差し掛かっています。

 

これから季節が秋から冬へと変わり、最悪な花粉症の季節を越えてまた夏がやってくるのですが、年齢を重ねるほど時間の流れが早くなっていくように感じられますね。

 

一年が短く感じられる理由は、まさしく加齢にあります。

 

年齢を分母にして分子は1年の1のままだとすれば、1歳の赤ん坊にとって1年は人生の全ての期間になりますが、20歳の人にとっては20分の1の長さです。

 

30,40と年齢を重ねるうちに少しずつ1年の割合が小さくなっていきます。

 

そこで感じられる時間の長さにも変化が出てくるのでしょう。

 

時間は流動性をつかさどり、空間は硬直性を司ると言われる事があります。

 

この二つの要素が同じ場所に併存する事によって「変化」が起きるのです。

 

このままでいようとする空間、それを薙ぎ倒そうとする時間の相克がまさしく「今」という事になります。

 

時間だけが存在すれば変化は起きません。

 

変化が起きるためにはその主体となるものが必要になります。

 

たとえば「私」が年齢を重ねる事によって変化する場合、「私」がいなければなりません。

 

その「私」を存在させる絶対条件こそが空間になのです。

 

もちろん、空間だけでも当然変化が起きません。

 

瞬間冷凍されたように、全てのものはそのままの状態で保存されるしかないからです。

 

硬直性、流動性が併存するからこそ、私は年齢を取るし、あなたは成長も退化もしていきます。

 

それが悲しいというか、虚しく感じられます。

 

全てのものは諸行無常、今この瞬間にだけ存在する火花のようなものなのですから。

 

その人生の中で人は懊悩し、奮闘し、疲弊し、歓喜しているのです。

 

ただこの瞬間を輝こうとするその力を出さんがために、人はありとあらゆる艱難辛苦を乗り越え、喜びを味わおうと必死になります。

 

次の瞬間に尽き果てるとどこかで分かっているのに、その努力を惜しもうとしません。

 

私たちの人生とは一体何なのでしょうね。

 

何のためにあるものなのでしょうか。

 

それが気になります。

最近、また良い洋画の俳優を見付けてしまった。

 

トム・ハーディというイギリスの俳優だ。

 

リーアム・ニーソンもそうだけれど、暗い内面が隠しきれない人が好きなのだ。

 

トム・ハーディはいつでも憂愁を漂わせる役柄を演じているし、どこか報われない雰囲気が強く出ている。

 

これは絶対演技だけではないと思い調べてみると、過去にアルコールとコカイン中毒になっていたようだ。

 

二十歳を過ぎれば内面が顔立ちに表れるとはよく言ったもので、やはりその人の過去は顔付きになって出てくるのだろう。

 

そう思うと私は自分の顔を見るのが嫌になる。

 

今の私は昔と比較すれば非常に健康的で、不自由な思いをする事も少なくなってきた。

 

しかし、私の過去はそうではない。

 

私の顔付きはそうではないのだ。

 

ちゃんと人の顔を見て話す人が見れば、私の内面にも気付くだろう。

 

私は自分の顔を見るたびに嘆息を吐いてしまう。

 

私の顔には苦渋が染み込んでいる、目はいつも光を鈍く反射させているのだ。

 

不思議な事にカウンセラーの養成講座に集まっている人の中には、家庭環境が壮絶だった人が多い。

 

私の家に似ている環境で育った人が2人もいる。

 

その2人の顔付きを見ていると、やはりそうかと言いたくなるのだ。

 

幸福を拒絶しているあの表情、ふとした時に見せるニーチェが言った深淵を覗いているかのような目付き。

 

まるで私を見ているような気持ちにさせられる。

 

決して幸福に対して激しい抵抗をしているわけではない。

 

幸福などこの世にないのだと何度も繰り返し味わってきた力のない絶望感、諦念がその表情に、目付きに表れているのだ。

 

2人のそうした表情を見るたびに「そうか……」と思う。

 

そうか、と。

 

これ以上ないほどに絶望してきた人を前にして、私はいつも「そうか」と思う。

 

この人の人生はこの表情を生み出すほどの艱難辛苦に満ちていたのか……と。

 

あの2人はそれほど匂わせないけれど、きっと何度も死にたくなった事があるのだろう。

 

あの表情には覆い隠せない絶望感が漂っている。

 

あの表情には受け止めきれない悲しみが滲んでいる。

 

私はあの2人をとても好きなのだけれど、会うたびに胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。

 

人生とは何だろうか?

 

命とは何だろう?

 

生は間違いなく暴力と同じ構造で私たちに降り掛かる不幸のようなものだ。

 

生まれたいと誰も言っていないのに、拒否する事も出来ないままに生まれさせられる。

 

生きる環境など全く選べないまま、家庭に恵まれなかった人たちはその後の人生を懸けて致命的な欠損を補おうとするしかない。

 

埋まらないと分かっているその欠如を、誰もが持っているはずの欠如であっても許せなくなってしまう。

 

私も彼女たちも、自分を許せないのだ、だからあの表情をしている。

 

自慢になるけれど私の能力はおそらく高い。

 

そして、彼女たちの能力も間違いなく高い。

 

きっと人は私を、そして彼女たちを認めてくれるだろう。

 

高い能力を努力によって身に着けた人物として、相応の評価を受けられるはずなのだ。

 

しかし、私はそれに満足出来ない。

 

おそらく彼女たちもそうなのだ。

 

松明が奈落へと落ちていくように、私に与えられた評価もすぐにその光を失ってしまう。

 

私の眼前に広がるのは奈落であり、ただただ呆然とこれまでの人生を続けるのだ。

 

しかし、そこには救いがある。

 

一点の光もない場所だからこそ、そこには希望があるのだ。

 

人生は無であり、私も無であり、何もかもが灰塵へと帰すものなのだという救いが。

 

私はどこにも存在しない。

 

私の体は私ではなく、私の意識が私を象っているだけ。

 

その私の意識すら私ではない。

 

あるのは言葉にならない「存在」としか言いようのないものなのだけれど、それはすでに私ではない。

 

私はやはり無なのだ。

 

主語である私が無なのだから、その主語から始まるあらゆる言葉が無にならざるを得ない。

 

私の〇〇は全て陰影、虚構でしかない。

 

だから、無の中で起きたいかなる出来事も、取るに足らない小事という話なのだ。

 

それが救いになる。

 

私にとっても、彼女たちにとっても無の意識はこれからも大切になるのだろう。

重い過去は言葉にし始めた時から過去へと変わり始める

しばらくぶりの更新になってしまったけれど、実生活での忙しさが落ち着いたので今のタイミングで記事を書くのはとても気分が良い。

 

夏は毎年大変な思いをしてしまう。

 

というのは、地元で伝統芸能に関わっている影響で、七月は毎年忙殺されてしまうのだ。

 

七月が一年で最も忙しい月かもしれない。

 

何はともあれ、祭りが終わったので一安心をしているところだ。

 

さて、ここからが本題になるのだけれど、四月から通っているカウンセラーの養成講座がようやく今月で終わりを迎える。

 

ここまで来るのに本当に大変な思いをした。

 

私は今年で30歳になるけれど、今の今まで過去を清算出来ていなかったとは思いもしていなかったのだ。

 

私はめったに怒らないタイプの人間なのだけれど、一度怒り出すと必ず酷い状況になってしまう。

 

止まらない怒りを持っている時には、刺し違えてでも相手にダメージを与えようとしてしまうのだ。

 

もちろん、そのような態度では私の方も無傷では済まないのだけれど、それでも捨身で相手に噛み付いていくという行動が止められない時があった。

 

私は養成講座に通うまで気付かなかった事がある。

 

私がそのような怒りを向ける相手には、決まった条件が合ったのだ。

 

私よりも立場が上で、年長で、負うべき責任がある人にしか私は攻撃をしない。

 

裏を返せば、私は私の上に立つ人や立とうとしている人に対して、激烈な怒りを向けやすい。

 

私よりも知力、体力、経験が高い人間以外に私の上に立つ事を一切許そうとしないのだ。

 

この年齢になれば、私よりも愚かな年長者に出会う事がザラにある。

 

私よりも経験不足な年長者にしても同じだ。

 

体力に関しては年齢などもあるから現段階だけではなく、相手の過去なども考慮する。

 

私よりも真剣に体を動かしてきた過去を持つ人間以外に、私の上に立つ資格はないと考えてしまうのだ。

 

なぜ年長者や自分の上に立つ人間に、私はここまで厳しい視線を向けているのだろうか?

 

もちろん、これまで自分を納得させる理由はいくつも考えだしてきた。

 

責任が自分よりあるのなら、それを負い全うするためには自分以上の能力があってしかるべきだから、という理由だ。

 

しかし、養成講座に通うようになって、私はようやくその本当の理由を見付ける事が出来た。

 

私は父や兄を相手に投影してきたのだ。

 

元から許せない相手の影を見ているからこそ、少しの欠点が許せない。

 

一度でもミスをしようものなら、そこを理由にしていくらでも詰問して良いし、指弾しても構わないというスイッチが入る。

 

私が許していないのは年長者ではなく、私に対して暴力によって地位を誇示する当時の父であり、当時の兄なのだ。

 

私は今でも年長者を許せない事がある。

 

それでもこうしたものが私の中にまだあるのだと気付いただけでも、怒り狂う回数が目に見えて減って来た。

 

心の傷や負担は言葉にし始めた時から過去になり始める、というのが私の崇拝する哲学者キルケゴールの言葉の中にある。

 

嘘や虚飾してある部分をいくら言葉にしても意味がない。

 

たとえば、先ほどの下らない理由がそれにあたる。

 

年長者であり私よりも重い責任を全うする人間は、私よりも高い能力を持っているべきだから、それが果たされていない時には怒る、というのは虚飾だ。

 

本当の理由はそうではなく、当時の父や兄を許していないからなのだ。

 

その部分、虚飾をしていない本当の部分、理由を言葉にし始めた時から、私の心は過去の重荷を下ろし始めたのかもしれない。

 

それが怒る回数が減ったという現象に繋がっているのだろう。

 

ここまで来るのに時間も労力も掛かったけれど、ようやく肩の荷が下りた気がして何となく心地良い。

束縛

思っていることをそのまま出すと、あまりにも暗すぎるから普段は言わないだけで、思っていることなんて大して変わっていない。

 

口に出す回数が少なくなれば元気そうだと言われ、多くなれば心配だと言われるけれど、私はいつでも私のままだし、昨日と今日で大差ない。

 

不眠症で自殺願望はないにしてもそれほど生に執着はなく、いつでも厭世的なのが私なのだ。

 

明るい世界に連れていってあげるとか、支えになれない自分が嫌だと言われても、私にはどうすれば良いのか分からない。

 

明るい世界は暗い世界より上等なのだろうか?

 

支えになっている実感があれば、それが仮初でも良いのだろうか?

 

支えになりたいと泣かれる事が、支えを出来るだけ排除してきた私にとっては苦痛になる時がある。

 

自力で障害を乗り越えてきた自負がある私には、支えられる状態が依存していたり、甘えているように感じられるからだ。

 

もちろん、そんなことはない。

 

支えられる事は、誰かの力を借りる事は、実は私の力とも言える。

 

助けてくれる人がいる私の人望だと言えるし、助けられる価値があると相手方が判断した証でもある。

 

だから、支えられる事には価値がある、それは分かっているのだ。

 

しかし、私には支えると言っている相手が支えたという理由で、自分の期待を押し付けてくる展開がよく見える。

 

結局のところ、自分の願望を遠回しに実現するために支えると口にしているだけなのだ。

 

もちろん、全員がそうではない。

 

しかし、私はもう誰かの期待に振り回されるのは疲れてしまったのだ。

 

支えられなくても構わないから、私を人からの期待から解放してほしい。

 

苔のように、無味無臭の存在になりたい。

乱文

結局のところ、人生というのは寸断なく連続する瞬間の事なのだ。

 

明日の自分がどうなるのかという事と、今の自分がどうであるのかという点は、実は繋がっていないのかもしれない。

 

繋がっているように感じるのは、繋がっている点を無意識的に、そして恣意的に繋ぎ合わせて考えているからであって、繋がっていない部分が如何に多いのかという事について、あまり人は考えない。

 

もちろん、私もその事実を念頭に置く事が少ない。

 

一寸先は闇の中に生きるしかない中で、未来に対する希望という名の妄想や単なる憶測に縋るのは弱い証なのだろうか?

 

先の事が分からなければ恐ろしくて足が踏み出せない、何をしたら良いのか分からないというのは、それほど不自然な話ではない。

 

だから、私たちは恐ろしい世界の中にいて、その中で安穏としていられるのはきっと、暗闇の中で目を閉じて明るい世界を思い描くからだ。

 

暗い世界の中であっても、明るい世界であっても、目を閉じれば光は遮断されるのだから、暗闇だろうが何だろうが、あまり関係はないのかもしれない。

 

静まり返る宵闇の中で無数の人が目を閉じて蠢いている姿は、形容しようがないほど恐ろしい。

 

そんな中である人は悟ったと言い、暗闇の中でどのようにして生きたら良いのかを、目を閉じたまま説いている。

 

ある人は個人の妄想によって成り立っているのが世界なのだから、自分の意のままに人生を整形する事が出来ると言う。

 

今の私が誰かを批判できるような立場にはないし、それぞれの信じるところを大切にして欲しいとしか言えない。

 

しかし、私には私の前に広がる闇がある、虚空がある。

 

それは私にとって非常に大切なもので、その中には苦しみも悲しみも含まれていて、私の過去はその暗闇に映写されていく。

 

私はその時、映写機のような役割を果たしていて、私と通過する事によって内面が映し出されるのだ。

 

そうやって私は私の人生を物語として創造し、私が生きた人生ではなく、私が生きたと「思っている」人生を過去と呼ぶようになる。

 

人生は寸断なく連続する瞬間であり、明日と今日が繋がっているわけではない。

 

過去が私を作りあげたのではなく、過去だと「思っているもの」が私を作って来たのだ。

 

そして、いつも自問自答するのは「お前は一体誰なんだ?」という言葉なのだ。

 

どのような説明も及ばない、どのような言葉も残響すら聞こえてこない、奥底にある何かに私の意識が向いていく。

 

私はなるべくしてこのような人物になって来たのだろう。

 

おそらく、悟りや可能性を説く人たちも、なるべくして。

 

最近、私は静かにしかし確実に混乱している。

 

そんな時には答えを知っている風な言葉が、非常に耳障りなのだ。

 

いつもならこんな支離滅裂な文章を人目に晒そうとは思えないけれど、こうでもしない限り全く自己の内面が整理されていかない。

 

「生きる事はまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい」ともののけ姫に出てくる村の長が言っていたのを、いつも思い出してしまう。

 

前段に関しては全く賛成なのだが、それでも生きたい、と私は胸を張って言えるのだろうか?

 

別にそう言わなければいけないわけではない。

 

しかし、そうでなければ私はなぜ今生きているのだろう?

 

私は生きたいと思っている自分を否定しながら、生きているとしか思えない。

 

それを隠すための厭世的な態度なのだろうか?

 

言葉ではなく行動こそが本心を映し出す。

 

それならば私は生きたいと思っているのだ、村の長と同じように。

 

また混乱が酷くなってきたので、少し散歩でもして来よう。

カウンセリングを受けている

私のような育ち方をしてしまったのなら、正義感や誠実さ、真善美を求めるような性質など欲しくはなかった。

 

人を傷つける事にそれほどの罪悪感がなく、誰を利用しても涼しい顔をしていられる人間ならば、きっとこんなことにはなっていないだろう。

 

私は汚濁の中で育ち、無駄に高い道徳心によって引き裂かれるような痛みと共に生きるしかない。

 

詳細は後日書くけれど、私は今かなり弱っているのだと思う。

 

日常生活に支障が出るほど過去に振り回されているわけではないつもりが、少し真面目に過去と向き合うと精神が磨耗し、熱を出したり体が動かなくなる。

 

闘病が終わってすらも、過去は私を手放してはくれない。

 

生まれてからこの方、このような苦労や心痛から逃れられた事がない。

 

きっと私は疲れている、疲れ果てているのだ。

 

昔に戻ったかのように、私の精神が悲鳴をあげている。

 

ともすると、これは過去の断末魔かもしれない。

 

最後の抵抗をしているら可能性もある。

 

人生で初めてまともにカウンセリングを受けているのだから、こうした反応が出るのは当然なのだろう。

 

それほど私の精神は磨耗し、憔悴していたらしい。

 

私は家族を恨む。

 

私は望んで生まれたわけではなく、ただの不運によってあの親の下で、あの兄弟と共に育ったのだ。

 

いつになったら終わるのか分からない苦痛は、しばらくの休眠から覚めたらしい。

 

これが最後の抵抗になることを祈るばかりだ。

 

何度もあるのなら、私の精神が耐えきれない。

 

私は過去から自分を救ってみせるつもりだ。

 

その経験が同じような道を歩む仲間にとって、必ず役立つものになるだろうから。

 

今はただじっと、過去と向き合う時間を持とう。

 

そうするしかない。

性に関する話

普段はあまり書かないけれど、今日は性に関する話をしてみたい。

 

本来は薬膳の勉強を続けなければならないのだけれど、どうしても書きたい事があるとキーボードに触れてしまうらしい。

 

さて、性に関する話。

 

と言っても、世間でされているような下世話な雰囲気の話はできないし、そんな経験はない。

 

私は以前からセックスが相当危険なものなのだろう、という感覚を持っている。

 

心が不安定になれば肉体関係から異様に距離を取るか、異様に近付くかどちらかしかないのだ。

 

異様に距離を取る場合には人との触れ合いそれ自体を拒絶する展開すら待っている。

 

たとえば、同性から抱きしめられたり、手を握られる事にすら抵抗感を覚えてしまう人もいる。

 

若干、脱線するけれど急遽今月からスーパーカウンセラーと慕っている人が、弟子を取ってくれるのだとか。

 

今月から私も弟子入りする事になったのだけれど、その人曰く親からの愛情が不足している場合には、人との接触を避ける傾向が強くなるのだそうだ。

 

肉体関係以上に密接な接触はないのだから、それを避けてしまうのは当然なのかもしれない。

 

若しくは性依存になってしまうような人の場合には、自傷行為の一環として求めている場合が多いように感じる。

 

ある人は男を操作している優越感を得るために、ある人はそうしている間だけは解離せずに済むという安息のために、ある人は自分をどこまでも貶めるために、肉体関係を求めてしまう。

 

もちろん、男性の場合もあるのだろうけれど、その場合には問題視などされず、ただの遊び人と名付けられるだけだ。

 

私は遊び人ではなかったけれど、同じような育ち方をした異性とただ堕落していくためだけに、そうした関係に陥った事がある。

 

一応、付き合っているという体だったので、遊び人ではなく普通の彼氏のように見えていたのかもしれない。

 

同じような傷を持つ人間同士は、きっと距離が必要になるのだろう。

 

おそらく、家庭で深い傷を負った人たちは、何かの濃度が高いのだ。

 

所謂普通の人たちならば気にならない程度の濃さなのに、傷を持っている人間同士が惹かれ合うと、その堕落の速度や深度が急激に増していく。

 

肉体関係は生の象徴であり、常に死が内在している人間同士の場合には行為が逸脱してしまう危険性を孕んでいるし、そうしたいという欲求をおそらくお互いが持っている。

 

自分をとことん破滅へと追いやりたいという衝動が、異様な行動に通じていくのだろう。

 

幸い、私はその泥沼に足を絡めとられる事はなかったけれど、私の周りにはそうした男女がいた。

 

芸術方面の人たちであれば、そうした逸脱も芸術へと昇華させる事が出来るのだろう。

 

しかし、普通の人たちにはそれが出来ないからこそ、泥沼にはまってしまう。

 

異性の体を通じてしか得られないもののために、自らの精神を切り売りしていくのだ。

 

だから、肉体関係は危険なのだ。

 

知らない間に自己の抱える不安に飲み込まれ、翻弄され、気が付けば廃人のようになっている危険性がある。

 

生まれ流れにして備わっている性質や、避ける事が出来なかった不幸によって目を出した性癖などに罪はあるのだろうか?

 

それが気になって仕方ないのだ。

 

結論から言えば、私はそれが罪だと思っていない。

 

しかし、どうしてなのか道徳心の強い人にそうした性質が宿ったり、目を出していたりもする。

 

本来であれば哲学的な思索に耽り、人生や死、世界や心の事を考えていたいのにもかかわらず、気が付けば性的な事ばかり考えてしまうのだ、という話を耳にした事がある。

 

さらにその想像は一般的なものではなく、一見すると色情魔のようにしか見えないものだ。

 

そんな自分が許せず、死にたいという話だった。

 

おそらく、誰であってもあらゆる性癖の萌芽を持っているのだ。

 

性癖だけに限らず、あらゆる可能性を持って人は生まれて来る。

 

偶然と呼ぶしかない出来事や、きっかけによって萌芽が成長してしまう事もあるのだと思う。

 

それが罪だとするならば、それは道徳如きの罪であり、人の罪ではない。

 

道徳心は社会を安定させるために必要であり、倫理観は内なる自己を正しく制御するために必要なものだ。

 

そして、道徳心も倫理観も人間が定めたものである以上、必ず不完全に終わる。

 

自然は人間如きの賢しらを認めない。

 

道徳的に見て罪だとされようが、自然は一顧だにしないのだ。

 

生まれた性質が求める力の前に、人間の道徳心などは雲散霧消するしかない。

 

とりわけ、性欲、食欲に関わる力の強さは群を抜いている。

 

精神的に弱っている状態で肉体関係を持つのは、あまりにも危険なのだ。

 

自分と相手を破壊する力が、そこに生まれる危険性が高いから。

 

それと同時に人は生きたいという欲求と、死にたいという欲求の相克の中でしか生きる術を与えられていない。

 

ともすると、破滅的な肉体関係を持ったというのは、人としてのあるべき姿だったのかもしれない。

 

大勢が向いている生の方向ではなく、死へと突き進むという違いはあるけれど、どちらも人として当然持っているものなのだから。

 

ちなみに、私の周りには変わっていると言われる人たちが大勢いるので、性癖に関しても相当寛容になってしまった。

 

性癖に限定をするから下賤な話に転がるのであって、そういう人たちは大概他にもおかしいと思われるような面を持っている。

 

全体的に見れば性癖が変わっているのではなく、その人はこれで全体が調和しているのだと分かって来る。

 

おかしいところがなければ、辛過ぎて耐えられなかった経験などを持っているのだから、逸脱はむしろ当然なのだ。

 

性の話に限らず、自分がいわゆる普通の人や、社会通念から外れている事を責める必要などどこにもない。

 

人は常に自然に導かれて、たとえ自分の思った通りではなくても、必ず変化や成長を遂げるものなのだ。

 

社会通念や道徳観念などの人工物に遮られて、自分自身の心が曇ってしまうくらいであれば、そんなものは唾棄してしまえば良い。

 

部分的には逸脱していたとしても、全体がそれで調和するのなら必要なものだと言って良いはずなのだから。

 

その逸脱が性に関する部分でも良いだろうし、仕事に関する部分でも構わない。

 

自分と世界を調和させるために必要なものは、自分以外には決して知り得ない。

 

周りの人と同じように、という事が叶わなくても、それはそれで問題など全くないのだ。

 

自分らしさというものが私には分からないけれど、少なくとも逸脱に罪はない事だけは分かる。

 

何が言いたいのか分からない記事になってしまったけれど、これからギャング・オブ・ニューヨークを見てデカプリオに惚れ直すつもりなので、今日はここまでにしたい。