人は人と人の間で生きるから「人間」なのだと哲学者の和辻哲郎が言った。
私がいるところに「私」がいるのではなく、私と他者がいて初めて私を生む空間ができるのだ。
全てのものは相対的であって絶対的ではない。
ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、と鴨長明が書いたように、ものも人も全て移り行く。
もちろん、私も固定されたものではなく刻一刻と変化を続ける。
私という概念だけが固定され、実際の私は日々老いて変化を続ける。
そうして濁流のような変化の波が実は日々やってきては、私たちを根こそぎ押し流そうとしているのだ。
それでも私たちは確固たる「私」が存在し、私の気持ちを慰め、理解し、満たすものを探す。
人の間に「私」がいるのなら、私の中を探しても答えなど見つかるはずもないのに。
もの悲しい気持ちがいつも消えないのは、人間が愛おしくもありつつも、ありもしないまほろばを求めていつも人がさまよっているから。
もちろん、私もその一人。
私の安息はどこにあるのだろう?
歩き疲れたなら休もうと偉人は言うけれど、こんな時代で立ち止まったら首を括るしかない。
どこにも救いがないと悟った時、芸術家になれるのだとどこかの小説家が言っていたっけ。