最初に自殺したいと思ったのは、いつの頃だっただろう?
それは覚えていない。
幼稚園児の頃ではなかった。
あの頃、苦しい時には死という手段が用意されている事すら知らなかった。
だから、早く死にたいと思いつつ、何枚も何枚もお墓の絵を描いていたのを覚えている。
ひたすら幼稚園で墓の絵を描いていたせいで、先生たちは心配をしていたらしい。
そんな話を聞いた事がある。
少し脱線したけれど、幼稚園の頃には既に死に魅了されていたのだ。
父親が帰宅し、玄関にある鉄製のドアノブが捻られた時の軋んだ重苦しい音。
あの音を聞く事が何よりも嫌いだった。
牢屋の扉が閉まるような絶望感を、子供の頃は毎日感じながら育ったせいで、日常から逃げ出したいという思いはいつしか、私にとっての唯一の逃走手段に変わっていた。
解離し始めた頃も記憶にないほど昔の話。
逃げたいと思うと、本当に逃げられるのだ。
体だけをこの世に残して、精神だけを飛ばせるようになる。
そういう人の事を世間で廃人と呼ぶのだと知ったのは、高校生の頃だったように思う。
小学生の頃、大人の話を聞かなければいけない時には、毎回必ずと言って良いほど解離していた。
だから、人の話を聞かないダメな子供として扱われるしかなかった。
太鼓でも空手でも学校でも、大人の声は全て私の心を撫でもせず、ただひたすらに音として流されて行った。
死にたいと思い始めた頃の事は覚えていないけれど、低学年の時には確実に、そして四年生の時には初めての未遂をした。
暴力も怒声も何もかも、どれだけ精神を飛ばしても逃げられなくなった時、体ごと消えるしかない衝動に駆られたのだ。
何をしても満たされない日々、致命的な欠損を自己が内包していると痛感する時間だけが残り、世界は苦しみの一色に染まっていた。
星や空、風景のように黙した静かなものを好きになったのは、初めて未遂をした後だった。
私は雑音を嫌ったし、だからグループの中心にいつもいた。
嫌いなものしかないのなら、飛び込んで行っても変化はないだろう、と諦めて。
同級生の言葉は病葉のように響き、私の心に全く響かなかった。
中学生になると空手に打ち込んで、あわよくば死んで見せようとさえ思った。
幸い、道場が厳しい場所だったので、そういう希望を捨てずに済んでいたけれど、常識的に考えて人を殺すような場所であるはずがない。
抑え切れない苛立ちばかり、受け止めきれない苦しみばかり。
もう中学生の頃には呼吸をする事さえ辛かった。
自分を殺したいほど憎んでいたからこそ、自分に負ける奴が許せなかった。
特に空手ではその傾向が強く出てしまった。
体もそれほど強くない、運動神経だって大して良いわけではない。
そんな私に負けるような努力の出来ないクズには、何をしても良いのだと思い込んで自己嫌悪を暴力によって発散していた。
メダルを貰うたびに、私は私に負けた選手たちを見下した。
同期で一番強いと言われていて、大会でも常に優勝争いに絡む幼馴染に勝った時、どこまでも侮蔑したのを覚えている。
私に負けるような程度の低い奴だったのか、と。
そんな歪な自分を憎みもした。
中学生の頃、全てのものは異臭を放ち、全てのものが現実味を失っていた。
それなのに人の目からは感情が横溢し、これでもかと生を感じさせられた。
この世は狂っている。
そう確信したのが中学時代。
死ぬ機会さえあったのなら、迷わず飛びつくべきなのかもしれないと思ったけれど、初恋の相手がいたので、それだけが支えだった。
中学時代についてはまだまだ書き足りない事がある。
これは心の整理のためにも、記しておきたいので、ちょくちょく書き進めていきたい。