今月中に小説を書き終える目標は潰えてしまった。
自分が悪いのだろうけれど、それ以上に低気圧で集中力が削ぎ落されてしまったのが痛い。
私は本能だけで生きているつもりだったのだが、最近はそうでもないのかもしれないと思う事が多くなった。
私はかなりの童顔で、人畜無害な顔をしているらしい。
だから、大抵の人は何の警戒心もなく私に近付いてきては、何の警戒心もなく明け透けに思いを打ち明けてくれる。
それが嬉しい時もあるけれど、私が一切のゴシップに関心を持たない人間なのだと分かると腹黒い人たちは勝手に離れていく。
醜聞や陰口などに関心を寄せるほど暇ではないし、そんなところに精神力を使っている余力が、私にはない。
以前まではむき出しの本能であれやこれやと自分の価値観と相手の価値観をテーブルの上に出し、それについて話す事が多かった。
裏を返せばそれだけ必死であった、という事なのだろう。
何にせよ、今は必死さが薄れていき、緩やかな世間話の中でチラと見える相手の価値観を見付けるのが好きになったのだ。
そうなると話の内容も流れも変わって来る。
誰もが最初は好かれよう、嫌われたくないと思い近付いてくるものだ。
そして、相手が心を開き始めるとその精神が微かに見えて来る。
何を良いと思い、何を悪いと思うのかがおぼろげに炙り出される。
何かに気付いても気付いたとは言わず、ただ知らない振りをして聞いているだけなのだけれど、私は最近人に心を開いてもらい、少しずつ溢れていく価値観を感じるのが好きだ。
以前まではこの腑抜けた女のような顔が嫌いだったが、今は結構便利かもしれないと思える。
人畜無害で決して恐怖や不安を与えない雰囲気、顔立ち。
同性愛者や腑抜けた男が好きな女に好かれる事だけは未だに苛立つけれど。
それでもこの見た目は役に立つ。
押せば何とかなると思っている相手に対して、私がした相手の性格分析を伝えると大抵は引き下がっていく。
人畜無害だという認識は主導権を握っている自覚と言い換えても良い。
主導権を握っているはずの自分が、実は相手に見透かされていたと分かった時、相手は性欲塗れの手で私に触れようとしていた事実に直面する。
そんな自分が恥ずかしくなるのかもしれない。
中学生や高校生のように簡単に手籠めにできるはずの相手が、実は老婆だったような、そんな衝撃に近いのかもしれない。
以前までは罵倒やあからさまな怒りを向けて退治していたけれど、そんな事をする必要はなかったのだ。
抑えきれていない性欲に任せて行動していた事は、最初から知っていましたよと伝えるだけで良い。
相手は自然に、勝手に身を引いてくれる。
こうしたやり方をいつからするようになったのだろう?
気が付くと、個人的にはとても好きだけれど上手な嫌味を言う人ばかりが周りにいるようになった。
私はそれが嫌ではないし、もっと多くの陰鬱な人達と一緒に居たい。
陰鬱だけれど精神が美しい人と。
そんな人と一緒にいる時間だけが、私をこの世につなぎ止めてくれる紐帯。