私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

ゲシュタルトの祈り

自然体で生きていくというのは本当に可能なのだろうか?

 

老子は『無為自然』という思想を推奨していた。

 

意識的に何か成すのではなく必要な事を、必要な時に、何のてらいもなく、ただ自然に行い生きる事。

 

動物のように素直で、自然で、嫌味のない生き方こそが理想的な姿なのだという事らしい。

 

これは良い考えだ、よし、これから『無為自然』で過ごしていくぞ、などと意気込もうものならば、その時点で既に『無為自然』ではない。

 

自然体で生きるという意志が働いている時点で、それは自然体ではないのだ。

 

言うなれば『自然体に見える過ごし方』を狙っている生き様であり、自然体とは正反対の場所にある。

 

そう考えると無為自然な生き方など人間には到底不可能である。

 

人間は、特に社会という概念が出来上がってからの人間には常に欲望がある、狙いや算段があり自然体で生きようなどとしている人間は社会には居ないのだ。

 

だから現代社会は云々、資本主義が、社会主義が、共産主義がと高邁なお話をしてみたところでつまらない。

 

如何なる社会であろうが、人間が作っているのであればそこには必ず欲望がある、どんな理想的に見える社会であっても、一皮剥けば汚濁に塗れているものなのだ。

 

日々、やるべき事に追われ、時間を無為に過ごす中で私たちの人生は儚く散っていく。

 

そう考えるといつも中原中也の詩が頭に浮かぶのだ。

 

 

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自らも悲しい。

 

 

もし、この詩が真実なのであれば幸福な人間のいかに少ない事か。

 

頑なの心を持つ人のいかに多い事か。

 

人間は苦しむために生きるのかもしれない、という夏目漱石の言葉がいよいよ真実味を帯びて来る。

 

ちなみに夏目漱石は科学が不安の源泉だと思っていたらしい。

 

 人間の不安は科学の発展から来る。

進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない

 

近代主義との相克を生きた文豪だからこその感慨なのかもしれない。

 

 

 

では、私たちはどんな時代を生きているのかと言えば、もはや人は人でなくなりつつある。

 

実は最近、私はSNSのほとんどを消してしまった。

 

私が外界と繋がっているのはTwitterの1つのアカウント、そしてブログだけ。

 

Facebookも一番よく更新していたTwitterのアカウントも何もかもを捨てた。

 

すると、私の元に殺到する連絡の嵐。

 

何があったのか、どうしてSNSを消したのか、どうやって連絡を取れば良いのか、寂しいからまた再開して欲しい等々。

 

異なる状況だとは思わないのだろうか?

 

私は間違いなく生きている、連絡だって簡単に取れる。

 

SNSのアカウントがなくなっただけという話であるにもかかわらず、この騒ぎよう。

 

まるで私が死んだかのような反応が待っていたのだ。

 

そう思うと、何となく合点してしまった。

 

そうなのだ、現代社会における私は1人ではない。

 

私を媒介として『私に見える何か』を人は見ている。

 

もちろん、私本人も私であり、SNSのアカウントも私として認識されているのだ。

 

つまり、私の一部というか、複数いる内の私が死んだことには違いがない。

 

そういう時代に、私は生きている。

 

私はここにしかいないのに、私が増えていき、自己が散り散りに引き裂かれる事が当然と言う世界に、私は生きている。

 

インスタグラムでの私、Twitterでの私、ブログでの私、ティックトックでの私、youtubeでの私、という形で私は私を媒介にして私を量産していく。

 

何というありきたりな文章だろう、と今振り返ってみて絶望感に浸っている。

 

私としてはこの先の展開が憂鬱なのだ。

 

こうして自分というものが散り散りになっていった先に待っているのは、強烈な凝集力である。

 

自分が何か最早分からないと考える人間の集合が生まれると、必ず誰かに自分が何か指示して欲しくなるのだ。

 

人間はどこまでも他力本願な存在であり、自分が何者かという一大事でさえ誰かの手に委ねたくなる。

 

そこで生まれるのが極端な話、ナチスのように強力なリーダーシップと実行力を持つ存在。

 

以前は小説のネタになっていた国民総監視社会はスマホSNSの発達によって実現した。

 

誰もがメディアになれる、誰もが暴君へと変わる可能性を持っている。

 

それを上手に取りまとめる事が出来る集団が現れたら、きっと人気はそこへと集中していく。

 

一種、宗教のようにすらなるだろう。

 

そんな時、今と同じように私の心にはゲシュタルトの祈りが響くに違いない。

 

最後にゲシュタルトの祈りを引用して、今日はおしまいにする。

 

わたしはわたし、あなたはあなた。

わたしはわたしのことをやり、

あなたはあなたのことをやる。

わたしはあなたの期待に応えるためにこの世にいきているわけではない。

あなたはわたしの期待に応えるためにこの世にいきているわけではない。

あなたはあなた、わたしはわたし。

もし、二人が出会えれば、それはすばらしいこと。

出会わなければ、それはそれでしかたがないこと。