今日は講演の練習をした後に家事をやり、ただただのんびりと過ごしていた。
夕方頃から具合が悪くなったのは低気圧の影響があったからだろう。
低気圧の影響をとても受けやすい私としては、漠然とした体調不良によって振り回されるとまではいかない、水中にいるような手足や体の重みを感じる時間がとても嫌なのだ。
気合で乗り越えられない事はないけれど、そうする必要もないという状況ではただ時間を無為にしてしまう。
しかし、それの何がいけないと思っているのだろうか?
ただ時間を無為にすると言うけれど、それで何が問題なのだろう?
私は時間を埋め尽くす事に慣れている。
次にこれをして、その次はこれをする。
3ヶ月後にはこうなっていて、1年後にはこうなっている予定というように、私は時間をみっちりと埋めてしまい、生きている時間を味わう事なく過ごしている。
私が尊敬している夏目漱石は芸術家というのは「ものと自分の関係を味わう人」だと言った。
商人は「ものと自分の関係を改造する人」、学者は「ものと自分の関係を明らかにする人」なのだそうだ。
その3つの分類でいえば、私は間違いなく芸術家に当てはまり、ものと自分の関係を味わえない時、生きている実感そのものを喪失してしまう。
ただ無為に過ごしているような時間が、私のような人間にはどうしても必要なのだ。
しかし、それを捨てて商人のようにあれこれと時間や不安に追われ、ただただ急き立てられる日々の中で私の個性や直感が埋没していく。
そんな時間の中でいくら儲けを得ようが、いくら真実らしきものが見えてこようが、私は満足出来ないのだろう。
昨日日記に書いたような、川辺でただ昔を思い出し、冬の余韻のような寒さを感じながら満月の下で電車が走っていく様子を眺めている時間が、あの瞬間こそが私の人生なのだ。
私の毎日はあまりにも慌ただしい。
私の過ごし方はあまりにも自分を蔑ろにしている。
分かっていても止められないのは、私が人生から受ける圧力が強いのか、それとも自傷行為が形を変えているだけなのか。
どちらとも言えない、判然としないこの感覚。
しかし、このように私の感覚を言葉にしていると直感が戻って来る。
長旅を終えて最寄り駅に着いた時のような、幼い頃によく遊んだ場所を訪れた時のような、ああここだ、という感覚がやって来る。
やはり私には文章を書くという行動がどうしても必要なのだろう。
そうしなければ私は雪崩のようにやって来る目に見えない時間の流れによって、直感がどんどんと削られていき、どんな刺激もスルリと受け流す人間もどきになってしまう。
こんな穏やかな毎日、こうしていつでも直感を取り戻せる状態が続けばどんなにか幸せだろう。
しかし、私の毎日はそうならない。
私は能力を磨くために、収入を増やすために、他を圧倒するためにこれからも努力を続けていくのだ。
そうして何物でもないはずの自分が何者かに成長したような錯覚を覚え続ける。
瞑目する時、人は現世で得た全てのものを手放していくのに、そうだと分かっているのに私は何かに、どこかに爪痕を残そうとしている。
私という人間が生きたのだという証を残そうとしているのかもしれない。
少し遠くから見ると私は切なくも愛しい存在のようにも思える。
人間らしさをこれでもかと振り撒いているのだから。
しかし、その本人として生きているのだから、それほど穏やかな視線を送れない。
必死に生きるしかない。
そして、真剣に生きる誰もが短く見ると悲劇、長く見ると喜劇を演じているのが人生なのだ。
やはり人生は面白いし、だからこそ切ない。