私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花

私には事あるごとに眺めてしまうTwitterのアカウントがある。

もう更新はされていないし、ツイートなども非公開になっているのだが、なぜか私がいいねしているものだけは非公開になっている今でも見る事が出来る。

それはいわゆる裏垢というやつで、援助交際をしている成人女性のアカウント。

 

別に私が援助交際をする目的でその人のツイートにいいねをしたわけではない。

その人は金目で援助交際をしていたのではなく、その目的は自傷だった。

傷付いていく自分を感じるのが好きというか、その感覚を味わいたいとよく書いていた。

 

後悔をするためにセックスをしたいそうだ。

自分自身が空虚で何者でもないというその実感が生まれた時、彼女は異性を求めるらしい。

そのツイートが私から見ると一種の詩のようにすら感じられ、今でも寝る前に見返してしまう事が多い。

 

私はどことなく彼女の気持ちが分かる。

もちろん、援助交際などした事はないけれど、後悔をするために異性を求めるというのは以前の私そのものだ。

どうせ後悔しかしないと分かっていても、私は自分の人生に少しでも泥を塗りたくなって異性を求めていた。

自分が禄でもない人間なのだと確かめたい気持ちがあったのだ。

 

最近ブログ上で肉体関係の話が多過ぎるのは、私の周りでそうした出来事がよく起きているからだ。

男は30を越えるとモテるというが、女性は単に年上が好きなだけなのではないだろうか。

小学生が中学生に恋をするように、高校生が大学生と付き合って自慢げになるように、いつまでも男は女のアクセサリーでないのかもしれない。

 

私は貞操観念が普通とは異なっていると自覚しているけれど、誰彼構わず受け入れるわけではない。

特に駆け引きをしてくるタイプには辟易としてしまう。

これみよがしに性的な話題をチラつかせたり、ヌードモデルをやっても良いと言い出す。

私がヌードモデルを募集しようと企んでいたのは何年も前の話だし、結局のところ勇気が出ずに募集すらかけられなかった。

 

 

結局のところ誘われるのを待っているのだろうけれど、誘ったとしたらしたで面倒なやり取りが待っているに違いない。

そもそも私から誘う場合には大前提として面白いと思っている相手でなければならない。

その面白さは服装だったり、好みが奇抜という事ではないのだ。

生きざまと言えば大げさに過ぎるけれど、真剣に生きているのにどこか滑稽さがあるような雰囲気を出している人でなければならない。

チャップリンが言うところの人生はショートシーンで見れば悲劇、ロングシーンで見れば喜劇という、そういう雰囲気が人の面白みなのだ。

奇抜さを演出しなくても拭いきれない異質さがあれば、私の心は打ち震えるけれど、ただ裸体やらを見せて良いと言われても面白さの欠片もない。

 

 

今日は苛立っているから日記の内容もどことか刺々しい。

しかし、私はあまり感情を表に出さないタイプなので、こういう日は貴重なのだ。

残しておいて、後で見返したら面白いかもしれないと思って、過剰に怒りを出している節がある。

 

私は奇抜なものが嫌いで、ロリータファッションが嫌いで、音痴が嫌いで、都心が嫌いなのに今日はその全てが揃ってしまったからしょうがない。

最初の3時間くらいはまだ我慢が出来たけれど、夕方を越えてきた当たりで不機嫌丸出しになってしまった。

歌もじっくりと聞いていたいし、じっくりと歌いたいからただ奇抜なだけの歌や、ピロピロと電子音姦しい曲は大変に苦手なのだ。

それなのに余裕ある大人ぶって聞き流していた当たり、思い出すと自分が痛々しい。

 

ああ、こんな日記にするつもりではなかったけれど、八つ当たりのような文章になってしまった。

たまにはこんな日があっても良いのかもしれない。

いつもはただ世界を傍観しているような雰囲気を出しているのに、今日は俗世にどっぷりと浸かっている雰囲気がある。

世俗の塊のような渋谷に何時間もいたせいだと思う事にする。