私の愛する稀代の作詞家、吉野弘は虹が空中に大きな弧を描き、そして地面にその光を降ろしている様子を見た事があるらしい。
その七色の光は小さな村を包み込んだ。
しかし、村の人間は誰一人として家から出てこようとはせず、虹に包まれている事すら気付かないままだった。
幸福も同じようなものなのかもしれない、と吉野弘は考えた。
気付かないところに幸福の神髄があるとするのならば、人の人生というのはいかに空しいものなのだろう。
誰もが幸福になりたいと願いながら、幸福に気付ける人はいない。
幸福であるのに、それに気付かない。
幸福になりたいと願うその瞬間こそが何よりの贈り物なのだと、そう思える人間はいないのだ。
こんなことを考えているのは今日ボランティアの関係で知り合った人と会って来たからだ。
彼はPTSDだとカウンセラーに言われたらしい。
生きる意味とは何なのだろう。
水火の苦しみに耐え忍び、それでも自分以外の人間のために生きようとするその有様は、人生の素晴らしさではなく人の世のおぞましさを感じさせる。
苦しみながらも生きる意味とは何だろう?
私は今、とても穏やかな毎日を送っているから、苦しみを背負っている人独特の重量感を受け止める準備が出来ていなかった。
生や死と直面する毎日は人を研ぎ澄ませる。
彼自身は疲れ果てているのだろう。
それは分かった。
しかし、あの鋭い何か、私の方向ではなく彼の方向に向いている切っ先には迫力があった。
「気が付いたらこの年齢になっていた、人生って短い」
そんな言葉を聞くたびに私は自分とは全く異なる世界で生きている人なのだと感じる。
確かに私も28歳くらいからは人生があっという間に感じるようになった。
吉野弘が言うところの虹に包まれている状態なのだろう。
しかし、28歳までの人生があまりにも長かった。
精神だけは老人のように感じるのに、体は生命力を爆発させているのが嫌だった。
人生が短いと感じられるのはその道程につまずいた事はあっても、立ち上がれないと思った事がないという意味だ。
全力で走っている時の1秒と、スマホをいじっている時の1秒が同じ時間に感じられないのと同様なのだろう。
全力で100m走らされた直後に、今度は400mを走れと言われ断る事が出来ない事態に連続して遭遇すれば人は簡単に壊れていく。
もう立ち上がれないと思っても、休みが必要だと感じても、状況や環境がそれを許してくれない。
やがて枯渇した生命力はもう生きる事が出来ないと自らに訴える。
そして、あのロープが近付いてくるのだ。
あのロープは私や彼が、そして私たちと同じような世界にいる人間が首を差し出す瞬間を待っている。
そう思うと首を吊るための道具でしかないロープが、何となくいとおしいもののようにも感じられるのだ。
苦しむだけ苦しみ、もう希望が何もないと感じた人間が最後に触れるのは愛してくれる家族や友人、恋人ではなく毛羽立った武骨なロープ。
ロープは黙ってその苦しみを肉体から解放してくれる。
別に私は今、何か気に病んでいるわけでもなければ、落ち込んでいるわけでもない。
ただ文字を打っているだけなのに、おそらくこれを読んだ人の脳裏には病んだ人間が薄暗い部屋で文章を作っているように感じられるのだろう。
見えた映像を言葉にしているだけなのだ。
人と話している時や文章を書いている時、私には風景が脳裏に浮かぶ。
それを文章にすれば不思議と読めるようになっているのだ。
久しぶりの更新だからあちこちへと意識が飛んで、支離滅裂な文章になっているけれど。
暗い世界には暗い世界の良さがある。
淫靡なものにも明るいものにもうるさいものにも小さなものにも、何もかもに良さがある。
世界は美しいもので満たされているのに、私の関心を引くものは煮え切らないものばかり。
白とも黒とも赤とも青とも言えない、あらゆる色が混ざり合っているけれど汚いとは言い切れない不思議なものが、私の関心を引くのだ。
やっぱり私は人が好きなのだろう。
この煮え切らなさは誰もが持っている本性だと思う。
良い人でも悪い人でもない、清潔でも不潔でもない、大きくも小さくもない、何とも形容しがたい何か。
それが私であり、あなたなのだろう。