最近顕著になっているように感じる個性や自由を重視する考えの根底にあるのは、個人の尊重だといって良いのではないでしょうか?
個人の自由、個性の承認、こうしたものが不可侵の聖域のようにしたがっている人を見ると、私はそれもそうだと思うと同時に、それならば社会はどうなるのかという疑問が出てきます。
個人と社会というのは対立する「概念」であり、どちらかにバランスが崩れた時に必ず個人も社会も磨り潰されてしまいます。
個人の自由、個性の承認などが果たされる前提こそが社会の安定です。
例えば赤信号では車が止まると分かっているから人は横断歩道を渡れます。
帰る場所があるから旅をしたくなるし、後で水が飲めると分かっているから運動が出来る。
海の上には家が建たないのと同様に、どれほど自由や個性を大切にしようと思っても、どれほど装飾や工夫を凝らした家であっても、強固な土地の上でなければその機能を果たしません。
個人の自由を尊重したいのであれば、社会についても同様の熱量で考え、悩まなければならない。
個人の自由を謳歌すれば必ずその流れは無秩序へと傾いていくのです。
なぜなら、個人の感性は百花繚乱しており、ありとあらゆる方向に向いているからです。
しかし、その状態が続けば目の前にいる人に対して話せる言葉がなくなるでしょう。
何が相手を傷付け、何が相手を励ますのかという「大まかな基準」が損なわれてしまいます。
大まかな基準、有体に言えば常識という事になりますが、これは習慣、慣習など必ず歴史や時間を背負っているからです。
自由を礼賛する人々が往々にして歴史や伝統に対して関心が薄いのは、そこを考えてしまうと好みのイデオロギーにとって都合が悪いからなのかもしれません。
私としては個人が最高の能力を発揮するためにも、社会の安定や秩序の形成についてより深く考える必要があると思っています。
自由は自由を求める気持ちによって成立するのではなく、自由と秩序の均衡の中で生まれるものです。
日本をどのような国、社会にしたいのか? という面に目を伏せたままでは、日本の中に生まれるのは自由ではなく、ただ自分の嗜癖や欲望にどこまでも翻弄され続ける人の群れでしかないと思います。
欲望と自由の概念は本当に相性が良いのです。
そこにビジネスチャンスもあります。
資本主義国ならば、欲望をどうしても是としなければならない。
そこで手を変え品を変え、欲望を触発するような情報や刺激が氾濫する事になるのでしょう。
だからこそ、清貧を貫こうという意見に傾いていく人がいるのも分かる気がします。
気持ちは分かるのですが、そうなると結果はどこで算定されるのか? という疑問も出てきます。
頑張った気になっただけで良いのかどうか、良い事をしているから結果を出さなくても良いのかどうか。
個人的にそういう人を応援したくなりますが、自分の身の事として考えてみると結果が出ないのであれば認められたくありません。
この話は脱線が酷くなるので止めておきます。
私のような世間から見ると異質な人間が生きていける余地があるのは、自由に生きれる社会があるからだと言えます。
そうなると社会だの秩序だのを重要だと考えている私こそ、自由の恩恵を受けている人間なのかもしれません。
好みの思想としては社会や秩序の形成なのですが、実際には自由さのお陰で生かされているのですから本当に人間というのも矛盾していると感じますね。