私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

中央線のホームにて

特別お題「心温まるマナーの話」by JR西日本
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/jrwest

 

祖父が死んだと、そう聞かされた時には駅のホームにいた。

 

20歳の秋口、大学の友人と遊んで最寄り駅に着いた時になった携帯に耳を当てると、叔母の悲しげな声がそう告げたのだ。

 

おじいちゃん、だめだった、と。

 

発車する電車の音よりも、なぜか叔母の声がはっきりと聞こえた。

 

私の凍っていく気持ちを汲んでくれたのか、秋雨は少しずつ結晶を作り、雪に変わっていった。

 

駅の一番端にあるベンチに腰を下ろし、私はうなだれながら祖父の事を思い出していた。

 

私の祖父は中国で戦争をしていて、目の前で親友が撃たれて戦死したらしい。

 

小学四年生の夏、夏休みの課題で何気なく訊いた戦争の話なのに、いつも優しくて笑顔以外見た事のない祖父が、目を真っ赤にして話してくれた親友の話。

 

友達を大切にしなさい。

 

助けられる人がいたら、どんなに嫌いな人でも助けなさい。

 

助けなかった後悔、助けられなかった未練は一生続くのだから、お前のために助けなさい。

 

それまで私に一度も命令口調を使わなかった祖父が、強い口調でそう言った。

 

きっと、祖父は親友の事を悔いているに違いないと、十歳の私は痛感せざるを得なかった。

 

定年後には写真を撮るために全国を駆け回り、いくつも受賞してカレンダーに祖父の写真が使われる事もあった。

 

祖父はそのたび、嬉しそうにこの写真はどこで撮ったんだ、あの写真を撮るまでに何か月もかかったんだ、と教えてくれた。

 

父方、母方共に親戚同士が険悪で、私は祖父や祖母やごく一部の好きな親戚を会う機会を何度も手放した。

 

好きな人よりも、嫌いな人が多いからという理由で。

 

何と愚かな事をしてきたのだろうか。

 

話せなくなってから会いたいと思うなんて。

 

私は幼稚な自分を呪い、足元に涙が何度も落ちた。

 

祖父はもっと私と話したかったかもしれない。

 

祖父はもっと私の話を聞きたかったかもしれない。

 

そう思えば思うほど、己の愚かさ、幼稚さを呪わずにはいられなかった。

 

よく小説で足元が崩れ落ちていく感覚、と書かれているけれど、そんなものはないと確信していた。

 

誇張するにもほどがあると、鼻で笑っていたのに、その時の私は間違いなくその感覚に襲われていたのだ。

 

後悔するような事をしないようにと、祖父が教えてくれたのに、私はその教えに背き祖父が守ろうとしてくれていた後悔の渦に翻弄された。

 

私は祖父から何も学んでいなかったのだ。

 

あの優しい祖父が涙ながらに話してくれた親友の話を、その最も重要な部分を、ずっと理解しないまま20歳になっていた。

 

消えてしまいたい、いなくなってしまいたい。

 

そう思った時、私の膝に温かい何かが触れた。

 

顔を上げると、そこには70代ほどに見える淑女が笑顔で立っていて、私の膝にコーンポタージュの缶を置いていた。

 

綺麗に染まっている長い白髪を右から肩の前に乗せ、胸の中間で結び髪の先端は微かに腰骨に触れていた。

 

身長が170㎝ほどあるせいなのか、外国人かと思うような目鼻立ちのせいなのか、美しい人というのはこういう人の事を言うのだろう、と思った。

 

ゆっくりとした美しく見える所作で老女が隣に腰を下ろすと、私の頭を撫でたのだ。

 

 

 

「こんなに寒い日に、一人で泣くなんて、寂し過ぎるわ。

こんなおばあさんで良かったら、付き合いましょうか?」

 

 

 

 

私が老女に何を言ったのか、あまり覚えていない。

 

ただ泣きながら、経緯をそのままに説明をしたと思う。

 

彼女は私の話を聞きながら、手を握ったり背中をさすったり、頭を撫でてくれた。

 

私は感情的になり過ぎて、思わず「死にたい、死んで祖父に直接謝りたい」と口走った。

 

彼女は優しい、シャボン玉のようなふんわりとした口調で「バカを言うものじゃありません」と口にした。

 

 

 

 

「あなたはとっても後悔してるけれどね、おじいさん、そういう事も分かっていたはずよ。

あなたが後悔するだろう、って。

たくさん後悔なさい。

たくさん未練を持って、それでも生きていなさい。

そのたびに、きっとあなたはおじいさんを思い出す。

おじいさんが心の中にいて、これから先あなたが後悔した時にはほーら、言っただろう? って笑ってる様子を想像してごらん?

あなたとおじいさんがいつでも一緒にいる事を、そうやって思い出してごらん。

あなたとおじいさんの思い出は、生きてるか死んでるかに関係がないの。

心は目の前からなくなったものを大切に守るためにあるのよ。

あなたとおじいさんの思い出も、大切な物の一つね、きっと」

 

 

 

 

 

老女はそう言った後、私の頭をもう一度ゆっくりと撫でて、席を立った。

 

彼女が背を向けた瞬間、どうしてコーンポタージュをくれたのか訊いてみた。

 

理由なんて分かり切っていたけれど、もう少しだけ話していたかったのだ。

 

老女はそんな私の心を見透かすかのように顔を少しだけ振り向かせ、微笑んだ。

 

 

 

 

「去年、死んだ夫がとても好きな物だったから。

きっとあなたにも元気をくれるはずよ」

 

 

 

老女の背中が見えなくなってしばらくしてから、ベンチから腰を上げると膝の関節がギギギと音を立てた。