私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

不倶戴天

スマホから更新をするのは三回目だ。

ボランティアで知り合った二人と居酒屋と喫茶店を梯子した帰りの電車内でこの文章を書いている。

スマホだと文章を作る速度が遅すぎて書く意欲が損なわれるけれど仕方ない。

 

私は初対面の人を相手にするとマウントを取ろうとするらしい。

 

その後、勢いをつけて否定した事からも分かるように全くの図星なのだと思う。

しかし、これには条件がある。

私の前で知識をこれみよがしに披露してきた相手に対してだけ、そうなってしまうのだ。

空手や伝統芸能という縦社会で生きてきた事が仇になっているのかもしれない。

私は相手から威嚇されたり見下されたとに感じると、攻撃的になる傾向があるのだ。

 

空手や伝統芸能の世界は縦社会で、私よりも知識が技量が劣るような人間でも年齢が上だという理由だけで上に立つことができる。

そして、立場が下の人間には何をしても許される。

暴力もいじめも肯定されてしまうのだ。

辛酸を何度も舐めながら私が強い大人になった時には必ず復讐してやると誓った。

私は幼い頃から実力だけでは負けたくないと思い普通以上に努力をしたように記憶している。

それは立場の上下しか見ていない人間を地獄に落とすたに必要な努力であり、だからこそ無理もした。

 

今でも私にとって年長者や立場が上の人間は駆逐する対象であり、敬うものではないのだ。

 

内容の充実している人ならば立場や年齢の上下は気にせず尊重する。

立場や年齢という日本人ならば暗黙の了解で尊重しなければならないものが、私からはがらくたにしか見えないのだ。

 

私が初対面の人なら誰であってもマウントを取っているわけではない。

必ず見下す何かを相手が出しているのだ。

それに対抗しようと試みているのだがむしろ、そんな自分を臆病で愚かだと思う。

それでも私は反骨心を捨てられずにいる。

 

私は今でも幼い頃に受けた理不尽な仕打ちを覚えていて、それに振り回されているのだ。

愚かとしか形容しようのない顛末に、私はただただ嘆息を吐くしかない。

 

私は30才を越えた今でも、9才の頃の痛みに怯え心を緊張させている。

 

果たす相手のいない復讐心が、炭火のようにゆっくりと私を焼いていくのだ。

そんな事実に気付かせてくれた8才も年下の友人に感謝するしかない。

救われるべき、癒すべき私はまだいるのだ。

復讐心に焼かれ塵芥になる前に、私は私を見付けることができた。

 

家が好きなのに外に出たがる理由

私は家の中が好きだ。

家の中でも自室は最も好きな場所で、何時間いても飽きない。

自室では好きな本に囲まれて、好きな音楽を聴きながら、こうして文章をひたすら作る事が出来る。

 

仕事で一日万単位で文字を書いているくせに、こうやって趣味のブログを更新しているあたり、私は本当に文章を書くのが好きなのだろう。

ちなみにボールペンや筆ペンで文字を書くのも好きなので、タイピングだけ好きというわけではない。

 

しかし、私は家の中が好きなくせに外へ出たがる傾向がある。

もちろん、ただ買い物へ行ったり、所用を済ませるために都心へ出る事が好きなわけではない。

私は定期的に地元へ帰り、伝統芸能の習い事をしている。

最寄り駅が徒歩1時間という辺鄙な場所なので、私はビッグスクーターに乗って通っているのだ。

 

行きは時間帯的にも混雑していてげんなりとしてしまう事が少なくない。

けれども、帰りは道が空いているし、多摩ニュータウンというバブルがちょうど終わる直前に出来た新興住宅街を抜ける道を通る。

 

一本道を15㎞くらい走る事になるのだが、私は帰りの多摩ニュータウン通りが好きで好きでたまらない。

 

道は広く、綺麗な住宅街がよく見える。

好きな音楽を聴きながら走っていると、あまりも綺麗なので泣きたくなるような気持ちにすらなる。

視界から入って来る光景自体が涙を誘うほど美しいわけではないのだ。

むしろ、それほどでもない景色に見える人が多いだろう。

 

私はあの住宅街にこれ以上ないほどの親近感を持っている。

 

バブルが終わる前に整備され、バブルが崩壊した後に人がわんさかと入ってきた地域。

バブル熱が高まっていた頃にはもっと大きな町になり、23区にも引けを取らない魅力ある街になるはずだったのだろう。

しかし、バブルは弾けてしまった。

街は期待されているほど育たなかった。

 

多摩ニュータウンは期待外れの街なのだ。

 

私が帰り道にトンネルを抜けてすぐ大きな坂を下る場所がある。

その時、正面には多摩ニュータウンの中心部が見える。

そこから見える住宅街の明かりがもの悲しく見えるのだ。

期待に応えられなかった住宅街が、それでも懸命に穏やかさな灯りを点けているように見えてならない。

 

道は広く美しい。

街路樹は大きく育ち、街は十分な緑に包まれている。

マンションは深夜という事もあって穏やかで、ただ静かに慎ましく灯っている。

 

期待外れであっても、多摩ニュータウンは生きているのだ。

 

私は今の場所に引っ越してきて本当に良かったと思う。

こんなに綺麗で、寂しい風景を日常的に見れるのだから。

世界には美しいものがたくさんある。

出不精な私はそれを知らない。

世界遺産の風景などもきれいなのだとは思うけれど、私にとって多摩ニュータウンを越える場所は見つかりそうもない。

 

今日もあの景色を見て来たから、私の心はとても潤っている。

恨み言

二月に講演をしてみないか? というお誘いをもらって講師を務める事になった。

私としては人前で話すような大人物ではないと思っていたし、そもそも人前に立つのが極端に苦手なのでどうしようかと迷ったけれど引き受ける事にした。

機能不全家庭で育った私が闘病を経て、支援をする側へ移動したその経緯は話す価値があるという事らしい。

 

私は今でもボランティアを続けている。

先日もなぜか怒りの矛先を向けられ性犯罪被害者に対する理解が足りないと詰問されてしまった。

私としてはまだまだ若輩だし、精神の領域について知らない事が多すぎるので人前で話す資格があるかどうか判然としない。

けれども、大人になってから案外適当な人がプロとして働いている事実を知ったので、私でも別にいいのかな? くらいには思える。

 

商売は本当に苦手だ。

私から見てガラクタであっても、それに価値があると誰かが感じたのならば10万で購入する事はおかしな話ではない。

そうやって価値のないものにしか見えない何かが、言葉や雰囲気に装飾されて世に出ていく。

私としてはそんな金稼ぎに奔走している人たちの様子を見て、反吐が出そうになる事が今でもある。

 

商売が苦手なのではなく、商売人が苦手なのだろう。

あれやこれやと大げさに装飾をしながら話を膨らませていくその様は本当に下劣だ。

人生経験も人との触れ合いも何もかもが、一つの儲かるストーリーに繋がっている。

こんなに辛い事があった、でもこんな風に立ち直る事が出来た。

あんなに苦しい事があった、でもこれのお陰で成長できた。

 

そんな話を聞くたびに、私の精神が凍っていくのが分かる。

心が凍ると相手からのどのようなアクションであっても、私には全く無意味なものにしか感じられない。

称賛も罵倒も何もかもが鳥の鳴き声のように、駅の中で聞こえる人の足音のように、手を洗う時の水の音のように、何の意味も持たない音へと変わる。

 

金や酒、女(男)が好きな人間の顔には特徴がある。

こういうものが好きな顔付をしている人たちに対して、大抵私は嫌悪感を抱く。

女(男)が好きなだけなら良い、酒が好きなだけでもまあ許容範囲だ、しかしそこに金が好きという要素が加わると一気に顔付きが腐っていく。

狒々のように顔が緩みつつ、鮮魚店のような生臭さがその顔付から漂っている。

そのくせ当人たちは人からの目を気にして装飾品や髪型、服装にやけに金を掛けているのだ。

汚物を装飾したところで、豪華な汚物にしかならないという事実を彼らは知らないのだろうか?

それとも自分の顔付きが何を物語っているのか気付いていないだけなのだろうか。

何にせよ、私から見れば裸の王様にしか見えない。

 

私としては出来るだけ穏やかに、金の心配をしない程度の稼ぎの中で生きていきたい。

金を思い切り稼ごうとすれば、私も腐るしかない。

そんな風になっては生まれた意味すら見失ってしまいそうだ。

 

私は欲に塗れるには神経質過ぎる、潔癖過ぎる。

私自身の中にも欲があるにもかかわらず、私はそれを肯定できない。

昨夜見た「三度目の殺人」という素晴らしい映画の中では、贖罪や裁きがテーマになっていた。

私は私の中にもある欲望を許せないからこそ、欲望をあからさまに肯定している商売人たちを裁こうとしているのかもしれない。

 

人は必ず死ぬ。

生まれた時に何も持っていないように、死ぬ時には生きている中で得た全てを捨てていくのだ。

友人も愛する人も趣味も体も、もちろん金も捨てて旅立つしかないのだ。

いつか捨てると分かっているのに、それでも得ようとしているのはなぜなのだろう?

生きるというのは誠に業が深いものなのだ。

 

堕落していく事でしか生きていけない人間の一人である自分を、切なく思うしかない。

原罪

今日は千葉にいる友人の下を訪ねてしばらく話をしてから整体をしてあげた。

新宿経由で千葉へ行く途中の風景の変わりようが、私にはいつも気になってしまう。

というのも、最寄り駅から新宿を頂点にして人の顔付きが変わっていくからなのだ。

新宿へ近付くにつれて人の顔付きが険しくなっていく。

新宿から離れるにつれて人の顔付きが緩んでいく。

あそこは地獄の釜の底なのかもしれない。

それなのに私は新宿へ行く機会が多いし、自分から待ち合わせ場所を新宿に指定する事も少なくない。

怖いもの見たさというには大げさに過ぎるけれど、私はああいう混沌としている場所が嫌いではないのだ。

住むには辛い場所だとは思う。

私が以前、渋谷区に住んでいた時には一刻も早く都心から離れたいと願っていた。

 

しかし、私のような人間の生きる場所は、あのように混沌としている場所か人里離れた本当に静かな場所にしかない事を知っている。

 

東京は確かに人の神経をすり減らす地獄のような場所でもあるけれど、東京だからこそ世間的に「異質」だと烙印を押された人にも居場所を用意しているのも事実なのだ。

育った場所や小さな村社会にどうしても居場所を見出せなかった人間が、それでも自分をごまかさず「異質さ」を堅持し続けられる余地が東京にはある。

私は元々、自然をこよなく愛している人間なのだけれど、年齢を重ねるごとに東京の中に居場所があると感じるようになった。

大嫌いな都心には私を受け入れてくれる余地がある、人の幅がある。

住むには辛い場所なのに、そこにしか居場所を見出せないというのは何という矛盾なのだろうか。

 

大好きだった育った地元が年々小さく感じられ、霞が掛かったように見えてしまう。

 

年々、私の中で朧になっていく地元に対する意識、価値観。

しかし、気が付いてみると私が好きだった人たちは東京の中心部へと出て行ってしまった。

皆、形こそ違えど耐えられなかったのだと思う、あの小さな範囲で生きていく事が。

これは田舎に限らず、会社やあらゆる団体に言える事なのだが、勤勉さは村社会では出る杭として打たれる。

誠実に生きていこうとしても、その裏をかく事が世渡りなのだと胸を張る人々がいる。

人を大切にしようとしても、その思いは無残な形で裏切られてしまうのが常なのだ。

私は人の世が本当におぞましいものだと思っているけれど、そんなおぞましさを自分自身が包含している事も知っている。

誰かのせいに出来れば楽なのだろうけれど、誰かから見れば私もその地獄絵図を作っている人間の一人なのだ。

人込みに揉まれている人は多いけれど、自分が人込みの一部として誰かを揉んでいるのだという自覚がないのと同様に、私は無自覚に人を傷付けている。

そして、傷付けた自覚を持たないまま、傷付けられた自覚ばかりが膨張していくのだ。

 

私はキリスト教徒ではないが、原罪はあるのだと思ってしまう時がある。

 

人は人として生まれ落ちたその時から堕落を続けていくしかない。

その堕落を止めようとしても、決して止まる事はない。

何とか落ちていくその崖の壁に爪を突き立てて、落下の速度を緩める程度の抵抗しかできないものなのだ。

そんな時でさえ人間は底抜けに明るく考えるように出来ている。

吉野弘が言ったように落下しているのに飛翔していると信じて。

 

人は罪深いもので、私だってその人間の一人。

 

そんな人間が生きていく道は紆余曲折し、歩んだ軌跡を振り返るとそこかしこに転んだ自分の血が滲んでいる。

道とすら言えないような、微かな足跡がそこに見える。

まともな人生ではないし、褒められたようなものでもありはしない私の人生の中で、ただ一つだけ胸を張れる事があるとするのなら。

それは私はこの無残な失敗を積み重ねた上でもなお、誠実に生きたいと願っている事だ。

自分をごまかさずに生きようとしている事だ。

 

これからも積み重なっていく失敗にそれでも耐えられると思えるのは、これまでしてきたようにこれからも自分が人生の苦難に際して、きっとある程度は自分に対して胸を張れるように生きるだろう、と想像できるからなのだ。

それだけが私を支えてくれる唯一のものだといって良い。

求愛行動

昔のブログの記事を読んでいると、当時の記憶までよみがえって来てしまう。

私には人と異なる記憶力があるらしい。

覚えている記憶に関してはその匂いや雰囲気、音や人の表情、光の当たり方に至るまで克明に残っているのだ。

そして、私はこの記憶を良いものだと思った事がない。

きっと私が人生のどの時期にも戻りたくないと思っているのも、異様な記憶力のせいなのだろう。

 

人生のどの時期にも苦しみがあり、微かに覚えのある楽しさと引き換えに当時に戻りたいなどとは思えないのだ。

 

私は人の顔をよく見て生きて来たように思う。

だから、人の顔付きで性格が分かる事がある。

こう言うと特別な能力を持っているかのように聞こえるかもしれないけれど、代替の人たちはみんな顔を見れば人の事が分かるのだ。

例えばあいつはスケベオヤジだ、という顔付きは大体想像が出来るように。

 

たまに、本当にたまにだけれど人の顔を見て吐き気がする時がある。

 

嘘を吐いた、たまにではない。

電車に乗っていると大抵一度はある。

それくらい悪い顔付きをしている人は掃いて捨てるほどいる。

30歳になった今でも私は9歳の頃と変わらず脆く、傷付きやすく、回復するのに時間が掛かる過剰な感受性を持っているらしい。

 

殴られて育った子供は大人になった時、自分の子供を殴りはするけれど蹴りはしない事が多い。

 

された事を人は誰かに連鎖させてしまうのだ。

そう思うと、あんな顔付きになってしまった人たちは自ら好んでそうなったのではなく、誰かに蹂躙された過去を持っているのかもしれない。

自分がされた消したいと思うような過去が、今彼らの顔付きをおぞましい相貌にしているのかもしれない。

そう思うと吐き気がすると同時に、切ない存在のようにも見えるのだ。

彼らの中にも癒されるべき何某かがいるのだ、おそらくは。

そして、癒されない悲痛な思いは彼らを地獄に落としたのだろう。

 

やはり天国も地獄も今、私たちの目の前に広がっているのだ。

 

今いるこの場所は天国にも地獄にもなり得る。

諸行無常と言えば有体だけれども、私は外に出るたびにそう感じてしまうのだ。

この世に定まったものなど何もありはしないと。

 

私が外に出るたびにこのような感受性を全開に出来るのは、普段の仕事のせいでほとんど外に出ないからなのだろう。

家の外に出るのは大抵日が暮れてからだし、私にとって人が集まる場所というのは非日常なのだ。

私の日常は私だけで成り立っている。

すれ違う人もいない、ただ静かに一切が過ぎていく。

孤独が辛いという人もいるけれど、私にはこんなに落ち着く環境はないのだ。

日常的に誰かと接する事は私にとってあまりにも負担が大きい。

病院へ行けば何かしらの病名でも付けられるのだろうけれど、私はそれでも私なのだ。

病名や名誉をどれほど与えられても、私は私であり続けるしかない。

 

私は人間がとことん嫌いで、心の底から侮蔑しているくせにそれでも人と関わりたいという歪んだ心性を持っている。

 

芸術家は厭世的な人が多く、私のようなタイプも少なくはない。

私が生きていくためにはやはり他者を必要とする。

それでいながら、私は自らを直接に人と関わる事を苦痛だと思うのだ。

創作活動はこの世に対する求愛行為なのだと、どこかで聞いたことがある。

私は、私にとっての執筆とはまさにそうなのだろうと思う。

私は生身の姿で人と接するには、あまりにも神経質なのだ。

しかし、こうして私が書いた文章が読まれる事によって、私以外の人にも何かしらの良い影響があって欲しいと願っている。

それは同族を見つけた安心感なのかもしれないし、こんな厄介な人物が傍にいなくて良かったという憐憫かもしれない。

何でも良い、何でも良いから私は私の腹の内を切り開き見せる事でしか、この世に対して愛してもらう術を知らないのだ。

 

執筆が異様に好きなのは、単純に好きだというだけではなく、そこに私が愛される可能性を感じているからだろう。

 

読み返してみるとあまりにもナイーブな日記になってしまったが、腹の内を見せるという意味でもこのまま公開する事に決めた。

山路をのぼりながら、こう考えた

昨日は久しぶりに椿屋珈琲へ行き、偉く高いセットを頼んでしまった。

しかし、一人の時には行く店ではないし、たまにはこういう成金気取りも悪くないと思う。

友人とあれやこれやと話していたのだが、ああいう時間が私にとっては非常に大切なのだ。

どうしたって本当に自分の人生を生きようと思えば、必ず懊悩に遭遇してしまう。

とりわけ、私や彼女のように一般的に「異質」だと思われやすい人間にとって、この世は本当に生きるのが辛い。

私は二十代後半まで絶望の底を彷徨っていたような気分で過ごしていた。

どこにいても居場所はなく、誰と話しても理解されず、何を言っても私の言葉は誰にも受け止められる事はなく、ただ中空を少し舞ってから窒息死していく。

 

そんなものだと思いながら過ごしてきた時間の中で、私は相当に命を擦り減らしてしまった。

 

体や内臓、筋肉や骨も人一倍酷使したせいで二十代にもかかわらず多くの怪我と病に襲われてしまったのだ。

私の場合は生まれ持ったものが異質で、さらに成育歴がその異質さに磨きを掛けたのだろう。

好んで手に入れたものではない以上、好んで手放すことは出来ない「異質」さに振り回されてきた人生だと言っても良い。

それでも私は私が「異質」な人間だと思った事はないし、話せば大抵の場合は「そうだよね」と言われる事しか考えていない、話していないと思っている。

私は、私のようないわゆる「異質」な人間が生まれた事について何度も呪ったし、生まれた以上は七転八倒しながら生きるしかないのだと諦めていた。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありなのだ。

私は文芸によって救われた、文芸に触れ合う事ではなく自ら書くという道によって。

何度も反芻した夏目漱石草枕の冒頭は、まさにこの事なのだと痛感したのだ。

少し長いけれど引用するのでぜひ見て欲しい。

 

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい
住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い

 

私は自分自身を尊いとは思わないが、私は私という人間の個性を拒絶しようとは思わない。

芸術の世界で生きていこうと思った事はなく、むしろ陰気で卑屈な変人だけが関わるものだと思っていた。

私は世界の広さを知らなかったのだ。

世の中にはありとあらゆる方向へ伸びている枝がある、道がある。

その枝の数は人の数だけあり、道の広さは通る人数によって決まる。

大きな道は大勢が通るいわば五街道のようなもの。

だからこそ、あの道はこうだ、あそこには何々があり、誰某がいると世間話が出来るのだ。

 

しかし、私や昨日会った彼女や薬学部の学生をしている筋肉好きの少年は、ほとんど人が通らない道しか目の前に広がっていない。

 

いわば獣道を歩くしかない、私たちは私たちの道を信じて、歩む方向が正しいかどうかすらも分からないところでそれでも自分を労わり、信用しなければいけない。

その分だけ、私たちはおそらく他の人よりも自分の世界が広くなっていく。

周りの意見に流されない、いや流されようと思っても流れる事が出来ない重量が、私たちの世界を広げ、獣道を歩く安定感を生むのかもしれない。

 

人と異なっている事は確かに不愉快な摩擦を私に与えるし、そんな風に生まれついた自分を今でも呪う時がある。

しかし、私にしか手を差し伸べられない人がいると感じる事もあるのだ。

大通りで困っている人を助ければ、多くの人から称賛されるだろうし、今の時代ならツイッターやインスタなどで取り上げられて一躍時の人になるかもしれない。

幸い私には己の善行を評価されたいという欲がない。

獣道で誰にも見えず、ただ静かに絶望している人に対して「異質」な私だからこそ、気付ける時がある。

これは私に限った話ではない。

世間から異質だという烙印を押された人間は、特に私と関わってくれるような人たちは往々にして人一倍に優しい。

世間で称賛されるような善行をアピールしてみたり、これ見よがしに善人を気取る事はなく、自分の内にある汚濁についても理解をしている。

自分が善人でも悪人でもどちらにでもすぐ転ぶという、人間そのものが持っている弱さを自覚しているからこそ、優しくなれるのかもしれない。

 

さて、何はともあれ私が考えている事はこのようなものなのだ。

これ以上脱線する前にやめておこう。