私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

個人と社会と秩序と自由と雑談

最近顕著になっているように感じる個性や自由を重視する考えの根底にあるのは、個人の尊重だといって良いのではないでしょうか?

 

個人の自由、個性の承認、こうしたものが不可侵の聖域のようにしたがっている人を見ると、私はそれもそうだと思うと同時に、それならば社会はどうなるのかという疑問が出てきます。

 

個人と社会というのは対立する「概念」であり、どちらかにバランスが崩れた時に必ず個人も社会も磨り潰されてしまいます。

 

個人の自由、個性の承認などが果たされる前提こそが社会の安定です。

 

例えば赤信号では車が止まると分かっているから人は横断歩道を渡れます。

 

帰る場所があるから旅をしたくなるし、後で水が飲めると分かっているから運動が出来る。

 

海の上には家が建たないのと同様に、どれほど自由や個性を大切にしようと思っても、どれほど装飾や工夫を凝らした家であっても、強固な土地の上でなければその機能を果たしません。

 

個人の自由を尊重したいのであれば、社会についても同様の熱量で考え、悩まなければならない。

 

個人の自由を謳歌すれば必ずその流れは無秩序へと傾いていくのです。

 

なぜなら、個人の感性は百花繚乱しており、ありとあらゆる方向に向いているからです。

 

しかし、その状態が続けば目の前にいる人に対して話せる言葉がなくなるでしょう。

 

何が相手を傷付け、何が相手を励ますのかという「大まかな基準」が損なわれてしまいます。

 

大まかな基準、有体に言えば常識という事になりますが、これは習慣、慣習など必ず歴史や時間を背負っているからです。

 

自由を礼賛する人々が往々にして歴史や伝統に対して関心が薄いのは、そこを考えてしまうと好みのイデオロギーにとって都合が悪いからなのかもしれません。

 

私としては個人が最高の能力を発揮するためにも、社会の安定や秩序の形成についてより深く考える必要があると思っています。

 

自由は自由を求める気持ちによって成立するのではなく、自由と秩序の均衡の中で生まれるものです。

 

日本をどのような国、社会にしたいのか? という面に目を伏せたままでは、日本の中に生まれるのは自由ではなく、ただ自分の嗜癖や欲望にどこまでも翻弄され続ける人の群れでしかないと思います。

 

欲望と自由の概念は本当に相性が良いのです。

 

そこにビジネスチャンスもあります。

 

資本主義国ならば、欲望をどうしても是としなければならない。

 

そこで手を変え品を変え、欲望を触発するような情報や刺激が氾濫する事になるのでしょう。

 

だからこそ、清貧を貫こうという意見に傾いていく人がいるのも分かる気がします。

 

気持ちは分かるのですが、そうなると結果はどこで算定されるのか? という疑問も出てきます。

 

頑張った気になっただけで良いのかどうか、良い事をしているから結果を出さなくても良いのかどうか。

 

個人的にそういう人を応援したくなりますが、自分の身の事として考えてみると結果が出ないのであれば認められたくありません。

 

この話は脱線が酷くなるので止めておきます。

 

私のような世間から見ると異質な人間が生きていける余地があるのは、自由に生きれる社会があるからだと言えます。

 

そうなると社会だの秩序だのを重要だと考えている私こそ、自由の恩恵を受けている人間なのかもしれません。

 

好みの思想としては社会や秩序の形成なのですが、実際には自由さのお陰で生かされているのですから本当に人間というのも矛盾していると感じますね。

気品とは何か?

気品とは何かについて最近よく考えるのです。

 

ようやく夏が終わり、祭りに忙殺される日々から解放されました。

 

毎年五月からの九月に入るまでは祭りの事ばかりが頭を過ぎります。

 

15歳の頃から踊りの先生をしているので、それなりの数の子供を見てきたのですが、その中で一人一人が異なる性質や才能を見せてくれるのが楽しくて仕方ありません。

 

その中でも上品な踊りが出来る子供が稀にいるのです。

 

ちなみに祭り囃子でするような踊りというのは、性格がそのまま出ます。

 

大人になっても性格がそのまま表現されるので、普段強がっているような人であっても踊ってみるとどういう人なのかがよく分かるのです。

 

ですから、上品な踊りが出来るという事は、生来持っているものが気品あるものなのでしょう。

 

じっとその子供を観察をしてみると、上品さというのは綺麗に型にはまる事のようにも思えるのです。

 

型にはまるというのは現代社会では忌避されがちなものでもあります。

 

自由や個性の重要性は声高に叫ばれますが、型にはまるというのは自分の人生を生きていないかのようにすら言われるのです。

 

しかし、既にある型にはまろうとする時、ありのままでは必ずその枠の外に飛び出す部分や不足している部分があります。

 

だからこそ、人工的に研磨したり何かを加える事によってその型が綺麗に表現されるように努めるのが稽古の意味です。

 

綺麗に型にはまるためには尋常ならざる努力を要します。

 

それが無意味なはずがありません。

 

ましてや、自分の人生を生きていないというようにすら言われる事が、個人的に悲しいと思っています。

 

なぜその型が生まれたのか? という点を見落としているように感じるからです。

 

伝統芸能や武道などの場合には長年掛けて先人たちが研究し、最も重要な要素のみを残しているものが型となって残っています。

 

つまり、これ以上に洗練されているものはないのです。

 

洗練されているからこそ、無駄もありません。

 

時として、その無駄のなさは冷酷非情にすら感じる事がありますが、人情味などを求めていては必ず無駄が残ります。

 

そうして何百年と掛けて培われてきたものが型なのです。

 

最初から綺麗にはまれるはずがありません。

 

つまり、この場合の気品というのは無駄のなさ、洗練されている様子だと思って良いのでしょう。

 

綺麗に型にはまれるほど自分を鍛え上げたという雰囲気が、そこに気品を生むのかもしれません。

 

個人的には空手でも型の選手をしていましたし、伝統芸能でも踊りのように目立つものをしていますから、型がいかに重要なのか自覚しています。

 

しかし、世間では個性や自由を礼賛する雰囲気が芬々としているのです。

 

私自身が上品な人間ではありませんから、あまりにも気品を大切にしていてもおかしな話ではあります。

 

それでも気品のあるものを見ると心が動かされるのは、ないものねだりなのかもしれません。

考えている事

八月という事で戦争にまつわる話をもう少し進めてみようかと思ったのですが、それは今回やめておく事にしました。

 

最近、私がよく感じている事について書き進めようかと思います。

 

私が最近よく感じるのは目的とは何なのだろうか? という点です。

 

目の前の事に追われ続けていると、どうしてもそれが「何のために?」という目的の部分が朦朧としてきます。

 

遠くにあるものというのはそれだけ視界から外れやすいですから。

 

どうしても目の前にある手段の方へと意識が集中しがちなのです。

 

気持ちはよく分かります。

 

しかし、それが何のための行動、意識なのかという点が朧げになってしまっては、行動や意識そのものの価値が忽せになってしまうのではないでしょうか。

 

まずあるべきなのは状況を踏まえた立ち振る舞いではなく「本来、俺はこうしたいんだ!」という意識だと思います。

 

もちろん、それは最終的に行動を起こす段になれば状況を加味し、本来の理想通りにはならない展開を迎えるでしょう。

 

だからと言って「本来、俺はこうしたい!」という目的や理念の部分を失ってしまっては、風が右なら右を向き、左なら左に阿る風見鶏にしかなりません。

 

状況と理想の間での摩擦の中で戦っているのだと思えばこそ、そこに「その人らしさ」なるものが滲み出てくるはずです。

 

そして、この「その人らしさ」という部分こそが、いわゆる自分探しなどの目的でもあるところの「自分の人生」を生きている証に他なりません。

 

個性を妙に称揚したいわけではないのですが、私が違和感を覚えるのは「自分らしさ」を自分にとって都合の良いもの、受け入れやすいものだとしている風潮です。

 

私が敬愛している哲学者キルケゴールは、絶望している人間は自分の救われたい方法で救われたいのであり、それ以外の方法では救われようとしないのだ、と言いました。

 

これに似たような構図があるのではないでしょうか。

 

個性と呼ばれるものは所与のものですから、自分の都合や好みに合わせて整形出来るものではありません。

 

しかし、人はこれを求めます。

 

自分らしさとは約めれば「自分の欲しいもの」以外の何物でもありません。

 

こんな個性は欲しくなかった、と思うものもあるはずなのですが、それには光が当たらないように無自覚のうちに行動しているのでしょう。

 

その心性の中にあるものは、自己を最上のものとしておく近代的な考え方なのです。

 

選択の自由や権利云々によって汚された精神の瞳に映るものは、自己にとって都合の悪いものを捨象したものばかりになります。

 

自由なるものはどこにもないのだという地点から自分や世界を見つめた時、見えて来る光景は相貌を変えるでしょう。

 

もちろん、その中には受け入れがたいものがありますが、甘美な妄想よりも辛辣な現実の方がおそらく後代のためにもなると思います。

 

さらに言えば辛辣が現実ですら個人に都合よく切り取られたものと言える面がありますから、そうなるとこの世に真理などない、という話になります。

 

この話はどうしても本題と脱線してしまうのですが、面白い部分だと思います。

 

今回の記事で言いたかったことというのは、目的意識の重要性と、現実と理念より生まれる摩擦に耐え得る自己を作るためには例え都合が悪かったとしても、所与の個性を認める忍耐力を養う必要があるという事なのです。

 

これ以上散らかる前に終わりにしておきます。

失敗をする権利

今日は一番古い幼馴染と居酒屋を回って来たのですが、そこで結構面白い話になりました。

 

ケアやサポートをするべき相手に対して先回りしてするべき事、すべきではない事を伝える行為は相手の失敗する権利を奪っているのではないか? という話だったのです。

 

帰りの電車内でずっとこの事について考えていたのですが、なかなか面白い話だと思います。

 

仮に人が失敗から学ぶ事によって成長するのだと仮定すれば、その成長の機会を誰かの判断によって奪う事に繋がりかねません。

 

失敗をする事も人の生きる道の中ではとても重要な要素を持っています。

 

私たちは自分の失敗を反省する事によって同じことを繰り返すまいと思うのです。

 

ただ理屈を教わっただけで〇〇はいけない事なのだ、と思うのではなく、そこに宿る失敗から受けた痛みや苦しみ、後悔という実感があればこそ繰り返すまいと感じるのでしょう。

 

骨を折った事のある人とそうではない人では、骨折について語る時の心情が全く異なります。

 

それと同様に私たちは生きている以上、この実感こそが最も重要なのではないでしょうか?

 

例えば道理という言葉があります。

 

江戸時代の日本では活道理(かつどうり)と死道理(しどうり)という概念がありました。

 

現実に即してよく応用が利いている道理を活きている道理、つまり活道理と名付けたのです。

 

死道理はその正反対で理屈としては正しくても、現実に応用が利いていない道理であり、それは死んでいるから死道理と呼ばれていたのです。

 

私たちは当然生きています。

 

そして、社会を構成しているのは生きている私たちです。

 

生きている私たちが作る社会もまた生きており、そこに通用するのは生きているものだけだといって良いでしょう。

 

その上で考えてみると、実感のある話や経験とそうではないものも同じような関係にあるのだろうと思います。

 

失敗には辛く苦しい実感が伴います。

 

出来ればしない方が良いでしょう。

 

しかし、不完全な人間である私たちは失敗を避けて通れず、だからこそせめてそこから学ぼうとするのです。

 

もちろん、どれほどの失敗や後悔を重ねても私たちは新しい失敗を繰り返すものです。

 

何をしても失敗をするのなら、学ぶ努力それ自体が無駄ではないか? という話もよくあります。

 

失敗をするか否かという問題も重要ですが、失敗をしないためにどれほど奮闘したのか? という点はさらに重要です。

 

出来る事を尽くしても失敗をしてしまう、それが人間というものです。

 

しかし、結果として失敗ばかりならば成長する努力を放棄するというのでは、私たちは一体何のために生きているのか分かりません。

 

人間の人生は失敗や挫折が多くありますが、だからこそ味わい深いものへ変わっていくのです。

 

そこに漂う後悔や悲しみ、怒りや落胆の実感があればこそ、他人の失敗に寛容になり、本当の意味で許せる心が養われるのではないかと思っています。

 

もし、失敗をしない人生を歩んだとしたら。

 

そんな自分を本当に人は愛せるのでしょうか?

 

一見すると正しく「見える」だけの理屈にしたがって、失敗も出来ないような環境に置かれ、一面的な正しさだけを妄信し、自分にとってではなく誰かにとって都合の良い「正しさ」の中できっと心は窒息していくでしょう。

 

大きく言えば、自分の人生を歩むというのはまだ見ぬ目標へと続く獣道を歩いているようなものです。

 

そこに正解はありません、あるのは必死に足を踏み出そうとする自分だけです。

 

その一歩は目標から遠ざかる方向へ出てしまうかもしれない。

 

それにも気付かず、必死に体力を削っているのかもしれない。

 

それでもその方向が正しいのだと信じる力が、人生を歩む力なのだと思います。

 

こちらの道が正しいのだと先回りして言われてしまうのは、その必死な自分が嘲笑されているようにすら感じられる時があるでしょう。

 

私なら「お前は俺の道を歩いた事もないくせに、何を分かったような口を利いているんだ」と怒鳴りたくなります。

 

相手を一人の人間として、自分と同じ土俵に立つ人物として尊重するのであれば、過度な手出しは無用なのだと感じました。

 

なかなか難しい事ではありますが。

やらない善より

今度、虐待児の支援をしたいという人と話す機会があるのだけれど、私としてはどうしたら良いのかよく分からない。

 

私は専門家としてそうした人たちに関わっているわけではないし、あくまでもボランティアという範囲でコソコソ動き回っているだけだ。

 

その道の先達のように扱われる事について、私はあまり自信がないし、そんな風になりたいと思っているわけではない。

 

ナイチンゲールが言ったように経済的基盤を持たない慈善活動は頭打ちになる、という現実は嫌と言うほど知っている。

 

おそらく、もう専門家として関わっていかなければいけない段階なのだという事も自覚している。

 

そのために様々な技術を磨いてきたのだから。

 

それでも私はボランティアの枠を出ようとは思わない。

 

結局のところ私の精神にはスラムの血が溶け込んでいるのだ。

 

お金を払える人達に私の支援は必要ないと、そう思っているところがある。

 

金を出せばいくらでも支援が受けられる。

 

それが叶わない経済的困窮の中にいる人たちに、僅かでも何かしたいというのが私の願いでもある。

 

きっとかつての自分を投影しているのだと思う。

 

刀折れ矢が尽きた状態で背負うものばかりが重く圧し掛かっている人に何かしたい。

 

そう思い続けているのだけれど、やはりここに来て資金繰りなども考えなければならなくなったのは、そろそろボランティアの領域を出ろという事なのかもしれない。

 

もう少しだけ、この地点でウジウジと考えていたいのが本音。

 

 


さて冒頭の話に戻るのだけれど、なぜ彼女は虐待児のケアをしたいのだろう?

 

何か支援をしたくなるような背景があるというわけではないらしい。

 

もちろん、やりたい人はやれば良いので私はそれを止めようとは思わない。

 

しかし、気になるところはやはりある。

 

本当に居丈高な言い方になるし、お前は何様なんだと言われるのを承知で書くけれど。

 

本人が持っている問題を何かに投影をしたり、何か自分の問題以外のものに焦点を当てる事によって目を逸らしている人たちもいる。

 

これは悪い事とは言い切れない。

 

時間を掛ける必要がある人の場合、何か他に集中するものが見つかるのは良い事だからだ。

 

こうした良い面はあるにせよ、やはりどこかの時点で自分自身と向き合わなければならない。

 

そうしなければ痛みや不快感はいつまでも付きまとうし、何をいくらやっても満たされないだろう。

 

こうした活動に打ち込みたいという熱烈な人に対しては何とはなしに、自分の不安定さを何かに打ち込む事で見えなくしようという雰囲気を感じてしまう事がある。

 

やらない善よりやる偽善の方が優れているというのは分かるから、私は行動しようと思う人を止める事はないけれど。

 

茫洋としている何かが私の中にはある。

理性と本能

最近、理性と本能について考える事が多くなりました。


これまでは漠然と考えているだけだったのですが、先ほどとあるツイートを見たのです。


その内容というのは異性同士で惹かれ合うのは遺伝子を残すために当然だが、同性同士で惹かれ合うのは相手に惹かれているのだから本当の愛だ、というものでした。


このツイートはそのものに反論があるというわけではなく、昨今こうした風潮が強くなっているなと感じているのです。


こうした風潮というのは理性的である事は本能的である事よりも上等だと暗に仄めかしたり、明に断言するという流れの事を言っています。


先ほどのツイートでもやはりそうした雰囲気が漂っています。


さて、ここで私が気になるのは理性的であるという事は、本能的である事よりも本当に上質なものなのかどうかという点です。


結論から言えば、無個性によって理性が称揚されているだけだと考えています。


順を追って説明をしていきます。


まず人はなぜ理性的なものに惹かれるのか? という点についてです。


端的に言えば、人が理性に惹かれる理由というのは格好が付くからだと考えています。


格好が付くと言ってしまえばあまりにも大雑把なのですが、本能には理由がありません。


本能というのは理由がない情動だからこそ本能と言えるのであって、そこに明確な言葉によって説明が可能な理由があるのならば、それは本能ではなく理性に基づいた心身の動きとなります。


つまり、理由は分からないけれどそうなっている抑えきれない衝動のようなものです。


もちろん、一面的な説明をする事は可能でしょう。


たとえば、恋人と別れてしまったから悲しいと本能の動きを説明する事は出来ますが、これは一部を説明しているだけであってその全てを明らかにしているわけではありません。


物事は必ず多面的であり、さらに見る角度によって一面であってもその意味合いや価値の比重が変化するのですから、言ってしまえば尤もらしい言葉を後付けして本能的なものから生まれた情動などの体裁を整えているだけです。


ここからも分かるように人は本能によって揺り動かされているという自分を隠そうとするのです。


服を着るようなものでしょうか。


一人の時なら裸でも構わないけれど、人前に出るのならば相応の服装が必要になります。


本能をそのまま誰かに開陳するのは躊躇われるけれど、理性の衣を与えれば人に見せても全く恥ずかしくないものになりますし、その衣装が上等なものであればあるほどむしろ見せたいという思いが生まれてきてもおかしくありません。


それと似たようなものなのかもしれません。


ですから、理性というのは社会的な生き物として生きていく我々にとって、最低限身に着けておかなければいけない暗黙知のようなものです。


理性的であればあるほど、そしてその理屈が洗練されればされるほど価値のある衣や装飾品と同じような効果を発揮します。


だからこそ、理性的であることは人を魅了するのでしょう。


美しい人や服飾品に惹かれるのと同様の理由によって。


先ほどのツイートの内容に関しても、私が感じたのは確かに本能、つまり性欲によって異性を求めているよりも相手の精神性に惹かれているとした方が洗練されているように感じます。


しかし、現実はそう簡単にはいかないというのも事実なのです。


なぜなら、どれほど理性を洗練させたとしてもそれはやはり衣装であり装飾品だからです。


それを身に着けている本人には微々たる変化も及ぼさない、自分の外側からの評価が変化するだけだとも言えます。


また先ほども多少触れましたが、理屈というのは必ずと言って良いほど後付けされたものです。


初めにあるのは本能の動きであり、それは快、不快のようにとても単純ではあるけれど強烈な情動だといって良いでしょう。


そして、そこから生まれた心性を「人に見せるために」必要なものとして理屈を洗練させていくという流れがあります。


つまり、我々は社会的存在である事よりも優先して「本能的な動物」なのです。


ですから、理性的なものは確かに洗練され体裁を美しく整えてくれるものですが、それが現実に必ずしも通用するとは限らないという展開になります。


なぜなら説明やコミュニケーションというのは言語などを含む表現によって行われますが、その行動の核となる部分は本能であり、そして本能の動きは理性の働きよりも強力だと言えます。


一見すると理論と理論がぶつかっているように見えるような場面であっても、何枚か皮を剥いてみればただ本能同士が衝突しているだけという事も少なくありません。


時として机上の空論と呼ばれるのは現実に通用しないものの事なのです。


ちなみに荻生徂徠は現実に通用しない机上の空論になっている理屈を死んだ道理だと考え「死道理」、そして現実にしっかりと噛み合い効果的な影響を与える理屈を活動している道理として「活道理」と名付けました。


それでも私たちは言語コミュニケーションを含む表現によって自分の気持ちを伝え、相手の心を理解するしかありません。


特に言葉によるコミュニケーションでは顕著ですが言葉を理解しようとする理性の働きに没頭してしまうと、相手が言葉という理性を使って「相手の本能的なもの」を訴えているのだという点を見落とします。


おそらくディスコミュニケーションはここから生まれていると思うのですが、脱線してしまうのでこれはまたの機会にしておきます。



人が理性に包んで見えなくした本能を訴えているのだという点はとても重要です。


この点を明確にしておくと最初の方の文章とも絡んできますが、人がなぜ理性に惹かれるのか? という理由の一部が炙り出されるようにして見えて来るからです。


服の例えなどからも明らかなように理性的であるというのは「自分を見る人」に対する表現の一種だと言って良いでしょう。


つまり「人からどう見られるのか?」という点に比重が掛かっているのが理性の側面なのです。


必然的に本能というのは「自分の事を自分自身がどう思っているのか?」という側面を持ちます。


私がずっと抱いている理性の方が本能よりも上等だとする流れに対する違和というのは、理性的であるという自分をいわば演出する事によって相手から見た時自分がどう映るのか? という観点に極端な偏りがあるように思えるからこそ生まれたものなのです。


自分の人生を自分で生きている実感や覚悟などの薄まりをそこに感じてしまいます。


いつでも本能的であれとはもちろん言いませんし、そうなった場合には明日にでも法令違反で塀の中へ行く羽目になりますから、そこまで極端な事を訴えたいわけではありません。


人からの見た目や評価にばかり気を配り、自分の人生の舵を明け渡してはいませんか? という点を訴えたいのです。


自分自身の決断だと考えるからこそ、それは従えない、それは受け入れるという判断も出来ますしその結果として起きる出来事に対しても自分自身が受け止めようと思えます。


個性を発揮していく、自分の人生をしっかりと生きているという実感を得るためには一身が独立しなければなりません。


個性の話に深入りするとまた脱線するので今日はやめておきます。


最終的に自己の判断や行動の結果の責任や実りを引き受けるのは自分自身でしかありません。


どのように評価されている人間であろうともそれが不文律なのです。


理性的な面を磨くのであれば、それに似付かわしい本能が求められると言って良いでしょう。


また今日は触れられなかったのですが、本能には人が嫌忌する要素が多分に含まれますから、そうした意味でも本能の彼岸にある理性が称賛を受けているという面もあります。


特に性的な部分などに関してはこの傾向が強いのかもしれません。


あちこちへと脱線をしてしまいましたが、結論としては「人からの見た目」を整える方向に考えが偏っていった結果、そこには多くの人に認められる「無個性」な自己が出来上がっているという話でした。

愛から何が生まれるのか?

正反対のものから正反対のものが生まれるという話は、古代ギリシャ哲学の中でもよく言われていたものです。

 

寝ているから起きる事が出来る、動いているから止まる事が出来る、話しているから黙る事が出来る。

 

正反対のものから正反対のものが生まれるというのは、具体的にはこうした話になるのです。

 

そこで先程考えていたのですが、愛情からは何が生まれるのでしょうか?

 

愛憎という言葉があるように憎しみが正反対のもののようにも思ったのですが、相手に対する執着の良い面が愛であり、悪い面が憎しみなのだと考えれば両者は同じ幹から伸びる別の枝という話になります。

 

マザーテレサの言葉を借りれば愛情の正反対には無関心があると考えて良いでしょう。

 

相手に対する執着心の良い面が愛情なのですから、無関心が正反対というのはとてもしっくりと来る回答です。

 

さて、それでは愛情から無関心が生まれるというのはどういうことなのか?

 

例えば人間には必ず限界がありますから、与えられる愛情にも限界があると考えて良いでしょう。

 

仮にAさんが他者に与えられる愛情の上限を100だとすれば、これを誰かに割り振るという事になります。

 

Aさんが4人の人に対して均等に愛情を与えるのであれば、それぞれに対して25ずつの配分となりますが、例えば特定の誰かに50与えたとなれば残りの50で愛せるのは2人だけとなり、結果的にそれまで愛情を与えていた残りの2人を愛せなくなるのです。

 

なるほど、確かに無関心が生まれているわけですね。

 

では、誰かを熱烈に愛するという行為には必ず代償が付きまとうと考えて良いでしょう。

 

誰かを愛するのなら、誰かを愛さなくなるという話になるからです。

 

本当に愛情深い人は目の前にいる人たちをとても大切にしているというイメージがあります。

 

目の前の人たちに100の愛情を注げるという強い姿勢を感じるのです。

 

自分の愛する人たちが一堂に会するという場面は、全くないと断言して良いでしょう。

 

つまり、愛している人たちの一部が私の目の前にいるという状況ばかりだと言えます。

 

愛している人の全員が目の前にいるのならば確かにそこに無関心が生まれてしまうようにも思えますが、一部しかいないのなら目の前にいる人に対して100の愛情を注げば、結果的に愛する人たち全員を大切にする事が出来るのかもしれません。

 

この説明で伝わって欲しいと思うのですが、文章だけだと厳しいでしょうか。

 

ここで気になるのは目の前にいない人に対して愛情を持つ事が出来るのかどうかという点です。

 

もちろん出来ます。

 

昔飼っていた猫や犬でも良いでしょうし、死別した親類、友人などでも愛情を向ける対象になります。

 

そして、私の個人的な感覚だけで言えば”今いない人”に対する愛情を持っている人は非常に穏やかな人が多いのです。

 

器が大きいというか泰然自若としているというか、イメージとしては山や海を彷彿とさせる何かがあります。

 

先程の話に絡めて言えば、目の前にいる人たち以外にも愛情を注ぐ対象があるからこそ、良い意味で目の前にいる人だけに執着をしていないのでしょう。

 

少し脱線しますが、この話で思い出すのは死者の民主主義という考え方です。

死者の民主主義をざっくりと説明すると

 

 

・現在の状態は過去の人たちによって作られて来たものである
・だからこそ、現在を生きる人間だけの損得勘定だけで投票する事は不敬である
・よって、先達に顔向けが出来る発想を持ち、その国の国柄や伝統を傷付けないように国家運営を考え、投票行動を取るべき

 

 

という話なのです。

 

目の前にいる人たちは過去から連なる人々の先頭にいるだけであり、時が来れば目の前にいる人も過去から連なる人々に入るのです。

 

目に見えるものだけを信じない、その背景まで包含して考えるという姿勢からは寒気がするような落ち着きを感じます。

 

なるほど、目の前にいる人だけを愛さない、今は亡き誰かや何かを愛する人たちが泰然としているのはこうした理由からなのかもしれませんね。

 

そう考えると人というのは本当に不思議な生き物です。

 

今を生きているのに過去や未来を含んだ形で生きているのですから。