私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

求愛行動

昔のブログの記事を読んでいると、当時の記憶までよみがえって来てしまう。

私には人と異なる記憶力があるらしい。

覚えている記憶に関してはその匂いや雰囲気、音や人の表情、光の当たり方に至るまで克明に残っているのだ。

そして、私はこの記憶を良いものだと思った事がない。

きっと私が人生のどの時期にも戻りたくないと思っているのも、異様な記憶力のせいなのだろう。

 

人生のどの時期にも苦しみがあり、微かに覚えのある楽しさと引き換えに当時に戻りたいなどとは思えないのだ。

 

私は人の顔をよく見て生きて来たように思う。

だから、人の顔付きで性格が分かる事がある。

こう言うと特別な能力を持っているかのように聞こえるかもしれないけれど、代替の人たちはみんな顔を見れば人の事が分かるのだ。

例えばあいつはスケベオヤジだ、という顔付きは大体想像が出来るように。

 

たまに、本当にたまにだけれど人の顔を見て吐き気がする時がある。

 

嘘を吐いた、たまにではない。

電車に乗っていると大抵一度はある。

それくらい悪い顔付きをしている人は掃いて捨てるほどいる。

30歳になった今でも私は9歳の頃と変わらず脆く、傷付きやすく、回復するのに時間が掛かる過剰な感受性を持っているらしい。

 

殴られて育った子供は大人になった時、自分の子供を殴りはするけれど蹴りはしない事が多い。

 

された事を人は誰かに連鎖させてしまうのだ。

そう思うと、あんな顔付きになってしまった人たちは自ら好んでそうなったのではなく、誰かに蹂躙された過去を持っているのかもしれない。

自分がされた消したいと思うような過去が、今彼らの顔付きをおぞましい相貌にしているのかもしれない。

そう思うと吐き気がすると同時に、切ない存在のようにも見えるのだ。

彼らの中にも癒されるべき何某かがいるのだ、おそらくは。

そして、癒されない悲痛な思いは彼らを地獄に落としたのだろう。

 

やはり天国も地獄も今、私たちの目の前に広がっているのだ。

 

今いるこの場所は天国にも地獄にもなり得る。

諸行無常と言えば有体だけれども、私は外に出るたびにそう感じてしまうのだ。

この世に定まったものなど何もありはしないと。

 

私が外に出るたびにこのような感受性を全開に出来るのは、普段の仕事のせいでほとんど外に出ないからなのだろう。

家の外に出るのは大抵日が暮れてからだし、私にとって人が集まる場所というのは非日常なのだ。

私の日常は私だけで成り立っている。

すれ違う人もいない、ただ静かに一切が過ぎていく。

孤独が辛いという人もいるけれど、私にはこんなに落ち着く環境はないのだ。

日常的に誰かと接する事は私にとってあまりにも負担が大きい。

病院へ行けば何かしらの病名でも付けられるのだろうけれど、私はそれでも私なのだ。

病名や名誉をどれほど与えられても、私は私であり続けるしかない。

 

私は人間がとことん嫌いで、心の底から侮蔑しているくせにそれでも人と関わりたいという歪んだ心性を持っている。

 

芸術家は厭世的な人が多く、私のようなタイプも少なくはない。

私が生きていくためにはやはり他者を必要とする。

それでいながら、私は自らを直接に人と関わる事を苦痛だと思うのだ。

創作活動はこの世に対する求愛行為なのだと、どこかで聞いたことがある。

私は、私にとっての執筆とはまさにそうなのだろうと思う。

私は生身の姿で人と接するには、あまりにも神経質なのだ。

しかし、こうして私が書いた文章が読まれる事によって、私以外の人にも何かしらの良い影響があって欲しいと願っている。

それは同族を見つけた安心感なのかもしれないし、こんな厄介な人物が傍にいなくて良かったという憐憫かもしれない。

何でも良い、何でも良いから私は私の腹の内を切り開き見せる事でしか、この世に対して愛してもらう術を知らないのだ。

 

執筆が異様に好きなのは、単純に好きだというだけではなく、そこに私が愛される可能性を感じているからだろう。

 

読み返してみるとあまりにもナイーブな日記になってしまったが、腹の内を見せるという意味でもこのまま公開する事に決めた。

山路をのぼりながら、こう考えた

昨日は久しぶりに椿屋珈琲へ行き、偉く高いセットを頼んでしまった。

しかし、一人の時には行く店ではないし、たまにはこういう成金気取りも悪くないと思う。

友人とあれやこれやと話していたのだが、ああいう時間が私にとっては非常に大切なのだ。

どうしたって本当に自分の人生を生きようと思えば、必ず懊悩に遭遇してしまう。

とりわけ、私や彼女のように一般的に「異質」だと思われやすい人間にとって、この世は本当に生きるのが辛い。

私は二十代後半まで絶望の底を彷徨っていたような気分で過ごしていた。

どこにいても居場所はなく、誰と話しても理解されず、何を言っても私の言葉は誰にも受け止められる事はなく、ただ中空を少し舞ってから窒息死していく。

 

そんなものだと思いながら過ごしてきた時間の中で、私は相当に命を擦り減らしてしまった。

 

体や内臓、筋肉や骨も人一倍酷使したせいで二十代にもかかわらず多くの怪我と病に襲われてしまったのだ。

私の場合は生まれ持ったものが異質で、さらに成育歴がその異質さに磨きを掛けたのだろう。

好んで手に入れたものではない以上、好んで手放すことは出来ない「異質」さに振り回されてきた人生だと言っても良い。

それでも私は私が「異質」な人間だと思った事はないし、話せば大抵の場合は「そうだよね」と言われる事しか考えていない、話していないと思っている。

私は、私のようないわゆる「異質」な人間が生まれた事について何度も呪ったし、生まれた以上は七転八倒しながら生きるしかないのだと諦めていた。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありなのだ。

私は文芸によって救われた、文芸に触れ合う事ではなく自ら書くという道によって。

何度も反芻した夏目漱石草枕の冒頭は、まさにこの事なのだと痛感したのだ。

少し長いけれど引用するのでぜひ見て欲しい。

 

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい
住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い

 

私は自分自身を尊いとは思わないが、私は私という人間の個性を拒絶しようとは思わない。

芸術の世界で生きていこうと思った事はなく、むしろ陰気で卑屈な変人だけが関わるものだと思っていた。

私は世界の広さを知らなかったのだ。

世の中にはありとあらゆる方向へ伸びている枝がある、道がある。

その枝の数は人の数だけあり、道の広さは通る人数によって決まる。

大きな道は大勢が通るいわば五街道のようなもの。

だからこそ、あの道はこうだ、あそこには何々があり、誰某がいると世間話が出来るのだ。

 

しかし、私や昨日会った彼女や薬学部の学生をしている筋肉好きの少年は、ほとんど人が通らない道しか目の前に広がっていない。

 

いわば獣道を歩くしかない、私たちは私たちの道を信じて、歩む方向が正しいかどうかすらも分からないところでそれでも自分を労わり、信用しなければいけない。

その分だけ、私たちはおそらく他の人よりも自分の世界が広くなっていく。

周りの意見に流されない、いや流されようと思っても流れる事が出来ない重量が、私たちの世界を広げ、獣道を歩く安定感を生むのかもしれない。

 

人と異なっている事は確かに不愉快な摩擦を私に与えるし、そんな風に生まれついた自分を今でも呪う時がある。

しかし、私にしか手を差し伸べられない人がいると感じる事もあるのだ。

大通りで困っている人を助ければ、多くの人から称賛されるだろうし、今の時代ならツイッターやインスタなどで取り上げられて一躍時の人になるかもしれない。

幸い私には己の善行を評価されたいという欲がない。

獣道で誰にも見えず、ただ静かに絶望している人に対して「異質」な私だからこそ、気付ける時がある。

これは私に限った話ではない。

世間から異質だという烙印を押された人間は、特に私と関わってくれるような人たちは往々にして人一倍に優しい。

世間で称賛されるような善行をアピールしてみたり、これ見よがしに善人を気取る事はなく、自分の内にある汚濁についても理解をしている。

自分が善人でも悪人でもどちらにでもすぐ転ぶという、人間そのものが持っている弱さを自覚しているからこそ、優しくなれるのかもしれない。

 

さて、何はともあれ私が考えている事はこのようなものなのだ。

これ以上脱線する前にやめておこう。

個人と社会と秩序と自由と雑談

最近顕著になっているように感じる個性や自由を重視する考えの根底にあるのは、個人の尊重だといって良いのではないでしょうか?

 

個人の自由、個性の承認、こうしたものが不可侵の聖域のようにしたがっている人を見ると、私はそれもそうだと思うと同時に、それならば社会はどうなるのかという疑問が出てきます。

 

個人と社会というのは対立する「概念」であり、どちらかにバランスが崩れた時に必ず個人も社会も磨り潰されてしまいます。

 

個人の自由、個性の承認などが果たされる前提こそが社会の安定です。

 

例えば赤信号では車が止まると分かっているから人は横断歩道を渡れます。

 

帰る場所があるから旅をしたくなるし、後で水が飲めると分かっているから運動が出来る。

 

海の上には家が建たないのと同様に、どれほど自由や個性を大切にしようと思っても、どれほど装飾や工夫を凝らした家であっても、強固な土地の上でなければその機能を果たしません。

 

個人の自由を尊重したいのであれば、社会についても同様の熱量で考え、悩まなければならない。

 

個人の自由を謳歌すれば必ずその流れは無秩序へと傾いていくのです。

 

なぜなら、個人の感性は百花繚乱しており、ありとあらゆる方向に向いているからです。

 

しかし、その状態が続けば目の前にいる人に対して話せる言葉がなくなるでしょう。

 

何が相手を傷付け、何が相手を励ますのかという「大まかな基準」が損なわれてしまいます。

 

大まかな基準、有体に言えば常識という事になりますが、これは習慣、慣習など必ず歴史や時間を背負っているからです。

 

自由を礼賛する人々が往々にして歴史や伝統に対して関心が薄いのは、そこを考えてしまうと好みのイデオロギーにとって都合が悪いからなのかもしれません。

 

私としては個人が最高の能力を発揮するためにも、社会の安定や秩序の形成についてより深く考える必要があると思っています。

 

自由は自由を求める気持ちによって成立するのではなく、自由と秩序の均衡の中で生まれるものです。

 

日本をどのような国、社会にしたいのか? という面に目を伏せたままでは、日本の中に生まれるのは自由ではなく、ただ自分の嗜癖や欲望にどこまでも翻弄され続ける人の群れでしかないと思います。

 

欲望と自由の概念は本当に相性が良いのです。

 

そこにビジネスチャンスもあります。

 

資本主義国ならば、欲望をどうしても是としなければならない。

 

そこで手を変え品を変え、欲望を触発するような情報や刺激が氾濫する事になるのでしょう。

 

だからこそ、清貧を貫こうという意見に傾いていく人がいるのも分かる気がします。

 

気持ちは分かるのですが、そうなると結果はどこで算定されるのか? という疑問も出てきます。

 

頑張った気になっただけで良いのかどうか、良い事をしているから結果を出さなくても良いのかどうか。

 

個人的にそういう人を応援したくなりますが、自分の身の事として考えてみると結果が出ないのであれば認められたくありません。

 

この話は脱線が酷くなるので止めておきます。

 

私のような世間から見ると異質な人間が生きていける余地があるのは、自由に生きれる社会があるからだと言えます。

 

そうなると社会だの秩序だのを重要だと考えている私こそ、自由の恩恵を受けている人間なのかもしれません。

 

好みの思想としては社会や秩序の形成なのですが、実際には自由さのお陰で生かされているのですから本当に人間というのも矛盾していると感じますね。

気品とは何か?

気品とは何かについて最近よく考えるのです。

 

ようやく夏が終わり、祭りに忙殺される日々から解放されました。

 

毎年五月からの九月に入るまでは祭りの事ばかりが頭を過ぎります。

 

15歳の頃から踊りの先生をしているので、それなりの数の子供を見てきたのですが、その中で一人一人が異なる性質や才能を見せてくれるのが楽しくて仕方ありません。

 

その中でも上品な踊りが出来る子供が稀にいるのです。

 

ちなみに祭り囃子でするような踊りというのは、性格がそのまま出ます。

 

大人になっても性格がそのまま表現されるので、普段強がっているような人であっても踊ってみるとどういう人なのかがよく分かるのです。

 

ですから、上品な踊りが出来るという事は、生来持っているものが気品あるものなのでしょう。

 

じっとその子供を観察をしてみると、上品さというのは綺麗に型にはまる事のようにも思えるのです。

 

型にはまるというのは現代社会では忌避されがちなものでもあります。

 

自由や個性の重要性は声高に叫ばれますが、型にはまるというのは自分の人生を生きていないかのようにすら言われるのです。

 

しかし、既にある型にはまろうとする時、ありのままでは必ずその枠の外に飛び出す部分や不足している部分があります。

 

だからこそ、人工的に研磨したり何かを加える事によってその型が綺麗に表現されるように努めるのが稽古の意味です。

 

綺麗に型にはまるためには尋常ならざる努力を要します。

 

それが無意味なはずがありません。

 

ましてや、自分の人生を生きていないというようにすら言われる事が、個人的に悲しいと思っています。

 

なぜその型が生まれたのか? という点を見落としているように感じるからです。

 

伝統芸能や武道などの場合には長年掛けて先人たちが研究し、最も重要な要素のみを残しているものが型となって残っています。

 

つまり、これ以上に洗練されているものはないのです。

 

洗練されているからこそ、無駄もありません。

 

時として、その無駄のなさは冷酷非情にすら感じる事がありますが、人情味などを求めていては必ず無駄が残ります。

 

そうして何百年と掛けて培われてきたものが型なのです。

 

最初から綺麗にはまれるはずがありません。

 

つまり、この場合の気品というのは無駄のなさ、洗練されている様子だと思って良いのでしょう。

 

綺麗に型にはまれるほど自分を鍛え上げたという雰囲気が、そこに気品を生むのかもしれません。

 

個人的には空手でも型の選手をしていましたし、伝統芸能でも踊りのように目立つものをしていますから、型がいかに重要なのか自覚しています。

 

しかし、世間では個性や自由を礼賛する雰囲気が芬々としているのです。

 

私自身が上品な人間ではありませんから、あまりにも気品を大切にしていてもおかしな話ではあります。

 

それでも気品のあるものを見ると心が動かされるのは、ないものねだりなのかもしれません。

考えている事

八月という事で戦争にまつわる話をもう少し進めてみようかと思ったのですが、それは今回やめておく事にしました。

 

最近、私がよく感じている事について書き進めようかと思います。

 

私が最近よく感じるのは目的とは何なのだろうか? という点です。

 

目の前の事に追われ続けていると、どうしてもそれが「何のために?」という目的の部分が朦朧としてきます。

 

遠くにあるものというのはそれだけ視界から外れやすいですから。

 

どうしても目の前にある手段の方へと意識が集中しがちなのです。

 

気持ちはよく分かります。

 

しかし、それが何のための行動、意識なのかという点が朧げになってしまっては、行動や意識そのものの価値が忽せになってしまうのではないでしょうか。

 

まずあるべきなのは状況を踏まえた立ち振る舞いではなく「本来、俺はこうしたいんだ!」という意識だと思います。

 

もちろん、それは最終的に行動を起こす段になれば状況を加味し、本来の理想通りにはならない展開を迎えるでしょう。

 

だからと言って「本来、俺はこうしたい!」という目的や理念の部分を失ってしまっては、風が右なら右を向き、左なら左に阿る風見鶏にしかなりません。

 

状況と理想の間での摩擦の中で戦っているのだと思えばこそ、そこに「その人らしさ」なるものが滲み出てくるはずです。

 

そして、この「その人らしさ」という部分こそが、いわゆる自分探しなどの目的でもあるところの「自分の人生」を生きている証に他なりません。

 

個性を妙に称揚したいわけではないのですが、私が違和感を覚えるのは「自分らしさ」を自分にとって都合の良いもの、受け入れやすいものだとしている風潮です。

 

私が敬愛している哲学者キルケゴールは、絶望している人間は自分の救われたい方法で救われたいのであり、それ以外の方法では救われようとしないのだ、と言いました。

 

これに似たような構図があるのではないでしょうか。

 

個性と呼ばれるものは所与のものですから、自分の都合や好みに合わせて整形出来るものではありません。

 

しかし、人はこれを求めます。

 

自分らしさとは約めれば「自分の欲しいもの」以外の何物でもありません。

 

こんな個性は欲しくなかった、と思うものもあるはずなのですが、それには光が当たらないように無自覚のうちに行動しているのでしょう。

 

その心性の中にあるものは、自己を最上のものとしておく近代的な考え方なのです。

 

選択の自由や権利云々によって汚された精神の瞳に映るものは、自己にとって都合の悪いものを捨象したものばかりになります。

 

自由なるものはどこにもないのだという地点から自分や世界を見つめた時、見えて来る光景は相貌を変えるでしょう。

 

もちろん、その中には受け入れがたいものがありますが、甘美な妄想よりも辛辣な現実の方がおそらく後代のためにもなると思います。

 

さらに言えば辛辣が現実ですら個人に都合よく切り取られたものと言える面がありますから、そうなるとこの世に真理などない、という話になります。

 

この話はどうしても本題と脱線してしまうのですが、面白い部分だと思います。

 

今回の記事で言いたかったことというのは、目的意識の重要性と、現実と理念より生まれる摩擦に耐え得る自己を作るためには例え都合が悪かったとしても、所与の個性を認める忍耐力を養う必要があるという事なのです。

 

これ以上散らかる前に終わりにしておきます。

失敗をする権利

今日は一番古い幼馴染と居酒屋を回って来たのですが、そこで結構面白い話になりました。

 

ケアやサポートをするべき相手に対して先回りしてするべき事、すべきではない事を伝える行為は相手の失敗する権利を奪っているのではないか? という話だったのです。

 

帰りの電車内でずっとこの事について考えていたのですが、なかなか面白い話だと思います。

 

仮に人が失敗から学ぶ事によって成長するのだと仮定すれば、その成長の機会を誰かの判断によって奪う事に繋がりかねません。

 

失敗をする事も人の生きる道の中ではとても重要な要素を持っています。

 

私たちは自分の失敗を反省する事によって同じことを繰り返すまいと思うのです。

 

ただ理屈を教わっただけで〇〇はいけない事なのだ、と思うのではなく、そこに宿る失敗から受けた痛みや苦しみ、後悔という実感があればこそ繰り返すまいと感じるのでしょう。

 

骨を折った事のある人とそうではない人では、骨折について語る時の心情が全く異なります。

 

それと同様に私たちは生きている以上、この実感こそが最も重要なのではないでしょうか?

 

例えば道理という言葉があります。

 

江戸時代の日本では活道理(かつどうり)と死道理(しどうり)という概念がありました。

 

現実に即してよく応用が利いている道理を活きている道理、つまり活道理と名付けたのです。

 

死道理はその正反対で理屈としては正しくても、現実に応用が利いていない道理であり、それは死んでいるから死道理と呼ばれていたのです。

 

私たちは当然生きています。

 

そして、社会を構成しているのは生きている私たちです。

 

生きている私たちが作る社会もまた生きており、そこに通用するのは生きているものだけだといって良いでしょう。

 

その上で考えてみると、実感のある話や経験とそうではないものも同じような関係にあるのだろうと思います。

 

失敗には辛く苦しい実感が伴います。

 

出来ればしない方が良いでしょう。

 

しかし、不完全な人間である私たちは失敗を避けて通れず、だからこそせめてそこから学ぼうとするのです。

 

もちろん、どれほどの失敗や後悔を重ねても私たちは新しい失敗を繰り返すものです。

 

何をしても失敗をするのなら、学ぶ努力それ自体が無駄ではないか? という話もよくあります。

 

失敗をするか否かという問題も重要ですが、失敗をしないためにどれほど奮闘したのか? という点はさらに重要です。

 

出来る事を尽くしても失敗をしてしまう、それが人間というものです。

 

しかし、結果として失敗ばかりならば成長する努力を放棄するというのでは、私たちは一体何のために生きているのか分かりません。

 

人間の人生は失敗や挫折が多くありますが、だからこそ味わい深いものへ変わっていくのです。

 

そこに漂う後悔や悲しみ、怒りや落胆の実感があればこそ、他人の失敗に寛容になり、本当の意味で許せる心が養われるのではないかと思っています。

 

もし、失敗をしない人生を歩んだとしたら。

 

そんな自分を本当に人は愛せるのでしょうか?

 

一見すると正しく「見える」だけの理屈にしたがって、失敗も出来ないような環境に置かれ、一面的な正しさだけを妄信し、自分にとってではなく誰かにとって都合の良い「正しさ」の中できっと心は窒息していくでしょう。

 

大きく言えば、自分の人生を歩むというのはまだ見ぬ目標へと続く獣道を歩いているようなものです。

 

そこに正解はありません、あるのは必死に足を踏み出そうとする自分だけです。

 

その一歩は目標から遠ざかる方向へ出てしまうかもしれない。

 

それにも気付かず、必死に体力を削っているのかもしれない。

 

それでもその方向が正しいのだと信じる力が、人生を歩む力なのだと思います。

 

こちらの道が正しいのだと先回りして言われてしまうのは、その必死な自分が嘲笑されているようにすら感じられる時があるでしょう。

 

私なら「お前は俺の道を歩いた事もないくせに、何を分かったような口を利いているんだ」と怒鳴りたくなります。

 

相手を一人の人間として、自分と同じ土俵に立つ人物として尊重するのであれば、過度な手出しは無用なのだと感じました。

 

なかなか難しい事ではありますが。

やらない善より

今度、虐待児の支援をしたいという人と話す機会があるのだけれど、私としてはどうしたら良いのかよく分からない。

 

私は専門家としてそうした人たちに関わっているわけではないし、あくまでもボランティアという範囲でコソコソ動き回っているだけだ。

 

その道の先達のように扱われる事について、私はあまり自信がないし、そんな風になりたいと思っているわけではない。

 

ナイチンゲールが言ったように経済的基盤を持たない慈善活動は頭打ちになる、という現実は嫌と言うほど知っている。

 

おそらく、もう専門家として関わっていかなければいけない段階なのだという事も自覚している。

 

そのために様々な技術を磨いてきたのだから。

 

それでも私はボランティアの枠を出ようとは思わない。

 

結局のところ私の精神にはスラムの血が溶け込んでいるのだ。

 

お金を払える人達に私の支援は必要ないと、そう思っているところがある。

 

金を出せばいくらでも支援が受けられる。

 

それが叶わない経済的困窮の中にいる人たちに、僅かでも何かしたいというのが私の願いでもある。

 

きっとかつての自分を投影しているのだと思う。

 

刀折れ矢が尽きた状態で背負うものばかりが重く圧し掛かっている人に何かしたい。

 

そう思い続けているのだけれど、やはりここに来て資金繰りなども考えなければならなくなったのは、そろそろボランティアの領域を出ろという事なのかもしれない。

 

もう少しだけ、この地点でウジウジと考えていたいのが本音。

 

 


さて冒頭の話に戻るのだけれど、なぜ彼女は虐待児のケアをしたいのだろう?

 

何か支援をしたくなるような背景があるというわけではないらしい。

 

もちろん、やりたい人はやれば良いので私はそれを止めようとは思わない。

 

しかし、気になるところはやはりある。

 

本当に居丈高な言い方になるし、お前は何様なんだと言われるのを承知で書くけれど。

 

本人が持っている問題を何かに投影をしたり、何か自分の問題以外のものに焦点を当てる事によって目を逸らしている人たちもいる。

 

これは悪い事とは言い切れない。

 

時間を掛ける必要がある人の場合、何か他に集中するものが見つかるのは良い事だからだ。

 

こうした良い面はあるにせよ、やはりどこかの時点で自分自身と向き合わなければならない。

 

そうしなければ痛みや不快感はいつまでも付きまとうし、何をいくらやっても満たされないだろう。

 

こうした活動に打ち込みたいという熱烈な人に対しては何とはなしに、自分の不安定さを何かに打ち込む事で見えなくしようという雰囲気を感じてしまう事がある。

 

やらない善よりやる偽善の方が優れているというのは分かるから、私は行動しようと思う人を止める事はないけれど。

 

茫洋としている何かが私の中にはある。