私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

理性と本能

最近、理性と本能について考える事が多くなりました。


これまでは漠然と考えているだけだったのですが、先ほどとあるツイートを見たのです。


その内容というのは異性同士で惹かれ合うのは遺伝子を残すために当然だが、同性同士で惹かれ合うのは相手に惹かれているのだから本当の愛だ、というものでした。


このツイートはそのものに反論があるというわけではなく、昨今こうした風潮が強くなっているなと感じているのです。


こうした風潮というのは理性的である事は本能的である事よりも上等だと暗に仄めかしたり、明に断言するという流れの事を言っています。


先ほどのツイートでもやはりそうした雰囲気が漂っています。


さて、ここで私が気になるのは理性的であるという事は、本能的である事よりも本当に上質なものなのかどうかという点です。


結論から言えば、無個性によって理性が称揚されているだけだと考えています。


順を追って説明をしていきます。


まず人はなぜ理性的なものに惹かれるのか? という点についてです。


端的に言えば、人が理性に惹かれる理由というのは格好が付くからだと考えています。


格好が付くと言ってしまえばあまりにも大雑把なのですが、本能には理由がありません。


本能というのは理由がない情動だからこそ本能と言えるのであって、そこに明確な言葉によって説明が可能な理由があるのならば、それは本能ではなく理性に基づいた心身の動きとなります。


つまり、理由は分からないけれどそうなっている抑えきれない衝動のようなものです。


もちろん、一面的な説明をする事は可能でしょう。


たとえば、恋人と別れてしまったから悲しいと本能の動きを説明する事は出来ますが、これは一部を説明しているだけであってその全てを明らかにしているわけではありません。


物事は必ず多面的であり、さらに見る角度によって一面であってもその意味合いや価値の比重が変化するのですから、言ってしまえば尤もらしい言葉を後付けして本能的なものから生まれた情動などの体裁を整えているだけです。


ここからも分かるように人は本能によって揺り動かされているという自分を隠そうとするのです。


服を着るようなものでしょうか。


一人の時なら裸でも構わないけれど、人前に出るのならば相応の服装が必要になります。


本能をそのまま誰かに開陳するのは躊躇われるけれど、理性の衣を与えれば人に見せても全く恥ずかしくないものになりますし、その衣装が上等なものであればあるほどむしろ見せたいという思いが生まれてきてもおかしくありません。


それと似たようなものなのかもしれません。


ですから、理性というのは社会的な生き物として生きていく我々にとって、最低限身に着けておかなければいけない暗黙知のようなものです。


理性的であればあるほど、そしてその理屈が洗練されればされるほど価値のある衣や装飾品と同じような効果を発揮します。


だからこそ、理性的であることは人を魅了するのでしょう。


美しい人や服飾品に惹かれるのと同様の理由によって。


先ほどのツイートの内容に関しても、私が感じたのは確かに本能、つまり性欲によって異性を求めているよりも相手の精神性に惹かれているとした方が洗練されているように感じます。


しかし、現実はそう簡単にはいかないというのも事実なのです。


なぜなら、どれほど理性を洗練させたとしてもそれはやはり衣装であり装飾品だからです。


それを身に着けている本人には微々たる変化も及ぼさない、自分の外側からの評価が変化するだけだとも言えます。


また先ほども多少触れましたが、理屈というのは必ずと言って良いほど後付けされたものです。


初めにあるのは本能の動きであり、それは快、不快のようにとても単純ではあるけれど強烈な情動だといって良いでしょう。


そして、そこから生まれた心性を「人に見せるために」必要なものとして理屈を洗練させていくという流れがあります。


つまり、我々は社会的存在である事よりも優先して「本能的な動物」なのです。


ですから、理性的なものは確かに洗練され体裁を美しく整えてくれるものですが、それが現実に必ずしも通用するとは限らないという展開になります。


なぜなら説明やコミュニケーションというのは言語などを含む表現によって行われますが、その行動の核となる部分は本能であり、そして本能の動きは理性の働きよりも強力だと言えます。


一見すると理論と理論がぶつかっているように見えるような場面であっても、何枚か皮を剥いてみればただ本能同士が衝突しているだけという事も少なくありません。


時として机上の空論と呼ばれるのは現実に通用しないものの事なのです。


ちなみに荻生徂徠は現実に通用しない机上の空論になっている理屈を死んだ道理だと考え「死道理」、そして現実にしっかりと噛み合い効果的な影響を与える理屈を活動している道理として「活道理」と名付けました。


それでも私たちは言語コミュニケーションを含む表現によって自分の気持ちを伝え、相手の心を理解するしかありません。


特に言葉によるコミュニケーションでは顕著ですが言葉を理解しようとする理性の働きに没頭してしまうと、相手が言葉という理性を使って「相手の本能的なもの」を訴えているのだという点を見落とします。


おそらくディスコミュニケーションはここから生まれていると思うのですが、脱線してしまうのでこれはまたの機会にしておきます。



人が理性に包んで見えなくした本能を訴えているのだという点はとても重要です。


この点を明確にしておくと最初の方の文章とも絡んできますが、人がなぜ理性に惹かれるのか? という理由の一部が炙り出されるようにして見えて来るからです。


服の例えなどからも明らかなように理性的であるというのは「自分を見る人」に対する表現の一種だと言って良いでしょう。


つまり「人からどう見られるのか?」という点に比重が掛かっているのが理性の側面なのです。


必然的に本能というのは「自分の事を自分自身がどう思っているのか?」という側面を持ちます。


私がずっと抱いている理性の方が本能よりも上等だとする流れに対する違和というのは、理性的であるという自分をいわば演出する事によって相手から見た時自分がどう映るのか? という観点に極端な偏りがあるように思えるからこそ生まれたものなのです。


自分の人生を自分で生きている実感や覚悟などの薄まりをそこに感じてしまいます。


いつでも本能的であれとはもちろん言いませんし、そうなった場合には明日にでも法令違反で塀の中へ行く羽目になりますから、そこまで極端な事を訴えたいわけではありません。


人からの見た目や評価にばかり気を配り、自分の人生の舵を明け渡してはいませんか? という点を訴えたいのです。


自分自身の決断だと考えるからこそ、それは従えない、それは受け入れるという判断も出来ますしその結果として起きる出来事に対しても自分自身が受け止めようと思えます。


個性を発揮していく、自分の人生をしっかりと生きているという実感を得るためには一身が独立しなければなりません。


個性の話に深入りするとまた脱線するので今日はやめておきます。


最終的に自己の判断や行動の結果の責任や実りを引き受けるのは自分自身でしかありません。


どのように評価されている人間であろうともそれが不文律なのです。


理性的な面を磨くのであれば、それに似付かわしい本能が求められると言って良いでしょう。


また今日は触れられなかったのですが、本能には人が嫌忌する要素が多分に含まれますから、そうした意味でも本能の彼岸にある理性が称賛を受けているという面もあります。


特に性的な部分などに関してはこの傾向が強いのかもしれません。


あちこちへと脱線をしてしまいましたが、結論としては「人からの見た目」を整える方向に考えが偏っていった結果、そこには多くの人に認められる「無個性」な自己が出来上がっているという話でした。

愛から何が生まれるのか?

正反対のものから正反対のものが生まれるという話は、古代ギリシャ哲学の中でもよく言われていたものです。

 

寝ているから起きる事が出来る、動いているから止まる事が出来る、話しているから黙る事が出来る。

 

正反対のものから正反対のものが生まれるというのは、具体的にはこうした話になるのです。

 

そこで先程考えていたのですが、愛情からは何が生まれるのでしょうか?

 

愛憎という言葉があるように憎しみが正反対のもののようにも思ったのですが、相手に対する執着の良い面が愛であり、悪い面が憎しみなのだと考えれば両者は同じ幹から伸びる別の枝という話になります。

 

マザーテレサの言葉を借りれば愛情の正反対には無関心があると考えて良いでしょう。

 

相手に対する執着心の良い面が愛情なのですから、無関心が正反対というのはとてもしっくりと来る回答です。

 

さて、それでは愛情から無関心が生まれるというのはどういうことなのか?

 

例えば人間には必ず限界がありますから、与えられる愛情にも限界があると考えて良いでしょう。

 

仮にAさんが他者に与えられる愛情の上限を100だとすれば、これを誰かに割り振るという事になります。

 

Aさんが4人の人に対して均等に愛情を与えるのであれば、それぞれに対して25ずつの配分となりますが、例えば特定の誰かに50与えたとなれば残りの50で愛せるのは2人だけとなり、結果的にそれまで愛情を与えていた残りの2人を愛せなくなるのです。

 

なるほど、確かに無関心が生まれているわけですね。

 

では、誰かを熱烈に愛するという行為には必ず代償が付きまとうと考えて良いでしょう。

 

誰かを愛するのなら、誰かを愛さなくなるという話になるからです。

 

本当に愛情深い人は目の前にいる人たちをとても大切にしているというイメージがあります。

 

目の前の人たちに100の愛情を注げるという強い姿勢を感じるのです。

 

自分の愛する人たちが一堂に会するという場面は、全くないと断言して良いでしょう。

 

つまり、愛している人たちの一部が私の目の前にいるという状況ばかりだと言えます。

 

愛している人の全員が目の前にいるのならば確かにそこに無関心が生まれてしまうようにも思えますが、一部しかいないのなら目の前にいる人に対して100の愛情を注げば、結果的に愛する人たち全員を大切にする事が出来るのかもしれません。

 

この説明で伝わって欲しいと思うのですが、文章だけだと厳しいでしょうか。

 

ここで気になるのは目の前にいない人に対して愛情を持つ事が出来るのかどうかという点です。

 

もちろん出来ます。

 

昔飼っていた猫や犬でも良いでしょうし、死別した親類、友人などでも愛情を向ける対象になります。

 

そして、私の個人的な感覚だけで言えば”今いない人”に対する愛情を持っている人は非常に穏やかな人が多いのです。

 

器が大きいというか泰然自若としているというか、イメージとしては山や海を彷彿とさせる何かがあります。

 

先程の話に絡めて言えば、目の前にいる人たち以外にも愛情を注ぐ対象があるからこそ、良い意味で目の前にいる人だけに執着をしていないのでしょう。

 

少し脱線しますが、この話で思い出すのは死者の民主主義という考え方です。

死者の民主主義をざっくりと説明すると

 

 

・現在の状態は過去の人たちによって作られて来たものである
・だからこそ、現在を生きる人間だけの損得勘定だけで投票する事は不敬である
・よって、先達に顔向けが出来る発想を持ち、その国の国柄や伝統を傷付けないように国家運営を考え、投票行動を取るべき

 

 

という話なのです。

 

目の前にいる人たちは過去から連なる人々の先頭にいるだけであり、時が来れば目の前にいる人も過去から連なる人々に入るのです。

 

目に見えるものだけを信じない、その背景まで包含して考えるという姿勢からは寒気がするような落ち着きを感じます。

 

なるほど、目の前にいる人だけを愛さない、今は亡き誰かや何かを愛する人たちが泰然としているのはこうした理由からなのかもしれませんね。

 

そう考えると人というのは本当に不思議な生き物です。

 

今を生きているのに過去や未来を含んだ形で生きているのですから。

社会性と個性

一般的に良いとされるものを決める事は出来ても、具体的に良いものを決めるのは状況次第なのだという話があります。

 

例えば、人の話を聞くというのは一般的に良いとされていますが、自分の意見を求められているという状況の中で相手の話を聞こうと黙り込んでいれば、それはまことに不誠実な対応として指弾されてしまいます。

 

具体的状況の中では善悪は必ず生まれるのです。

 

もちろん、その善悪も解釈次第というところがありますから、それぞれにとって良いものがそれぞれ存在するという話になり、あなたはあなたの、私は私の解釈によって善悪を判断すれば良いという事になってしまいます。

 

つまり、この観点から生まれるのはあなたと私との絶対的な隔絶であり、お互いを相容れない存在だと認めるという意味になるのです。

 

「あなたはあなたの好きにすれば良い、私は私の好きにします」と宣言をするようなものだと言って良いでしょう。

 

しかし、そのような考えのみに従って人が生きていく事はこの上なく困難なのです。

 

なぜなら、あなたは私に、私はあなたに影響を与えているのですから、お互いが全く異なる善悪の基準に基づいて行動をしてしまえば、相手の行動による不利益を自分自身が被るという展開になってしまいます。

 

最も分かりやすい例で言えば、相手は自己の利益のために私の所有物を手に入れたいと思い、そのために私の命を狙うという状況があります。

 

これは相手にとって善ですが、私にとっては所有物どころか命まで奪われるのですから最悪なのです。

 

しかし、あなたはあなた、私は私の善を求めてそれぞれ生きていけば良いという世界の中では、私のとって最悪な論理が通用してしまいます。

 

それ故に私は私の安全という善を求め、相手が攻撃を始める前に先手を打つという意味で襲撃するというのも認められるのです。

 

あなたはあなたの好きにすれば良い、私は私の好きにします、という話の恐ろしさはここにあります。

 

ですから、一見すると何も非の打ちどころがないようにすら感じられる個人の自由、人それぞれの解釈を認めるという話は「社会性」という観点から見ると大いに危険なものであり、むしろそれを抑制するところが求められるのです。

 

道徳心というのはこうした「社会性」を担保するために生まれたものだと考えて良いでしょう。

 

あなたはあなたの好きにして良いのですが、それは「誰かの不利益にならない」範囲内においてという条件が付きます。

 

この枠の中であれば何をしても構わないのです。

 

例えばこの枠の外に出れば法治国家では法の裁きを受ける場合もあります。

 

「誰も犯罪なんて犯さないでしょ」という話はもちろん理解出来ますが、この薄まった形、やんわりとした矯正、つまりあなたの好きにして良いという発想を抑制しようとする行動を、私を含めて人は非常に多く取るのです。

 

例えば陰口などもそうしたものですし、期待が裏切られたと嘆く行為もそうでしょう。

 

最近耳にした話だとフォロワーの中に相手がいるのに直接伝えず、ツイッターで批判めいた事を言うというのも、相手を操作しようとしている行動の1つです。

 

このような行動を通じて相手を制限しよう、何とか自分の心地良い範囲内に収めようとしている人は少なくありません。

 

誰もが人の自由な解釈など認めてはいないのです。

 

あの手この手で自分の思い通りに相手を整形しようとしている、相手にとってではなく「私にとって」良いものに改造しようとしているのです。

 

自由や人それぞれという話を耳にすると、どうしても贋物を見せられたような気になるのは「社会性」を無視しているからなのです。

 

社会性は強制を個性は任意を司ります。

 

この相克の中で人はバランスを取るしかないのです。

 

任意に傾けば放縦、放埓の限りを尽くす獣の道に堕落しますし、強制の道を行き過ぎれば精神性が失われ機械にも劣る機械もどきのような人ばかりになります。

 

どちらが良いとはっきりとは言えないのは確かなのですが、そこでいかにしてバランスを取ろうかと努力するか否かがとても重要な分かれ道になるのでしょう。

 

さて、今日これから考える材料は社会性と個性という事にしてみます。

馬小屋

昨日の夜は幼馴染と二人で私の好きな沖縄料理屋でお酒を飲んでいました。

 

と言っても、私はアルコールアレルギーなのでジュースだけ飲んでいたのですが。

 

昔話というのは楽しいものがありますね。

 

その幼馴染とは中学一年、二年の時に最も親しくしていたのです。

 

近所にある馬小屋で馬の世話を毎日していた時期であり、私の青春はその二年に凝縮されていると言っても過言ではありません。

 

おそらく、人生の中で最も楽しい思い出が詰まっている時期こそが中学一年、二年の頃だったと言って良いでしょう。

 

恋愛もしていましたし、典型的な甘酸っぱい友情の浮き沈みも経験したのがその時期でした。

 

馬小屋の前には同級生(女)の家があり、幼馴染はその同級生が好きで好きで仕方なかったのです。

 

それと同時にその同級生と最も親しくしていたのが私の好きな子で、私の思い人は毎日のように馬小屋の前にある同級生の家に尋ねていました。

 

つまり、私と幼馴染の好きな相手がすぐ近くにいたので、何とか接点を持ちたいという気持ちから馬小屋に行っていたような面もあるという話なのです。

 

また中学時代は私が空手の道場で最も苦痛を味わっていた時期でもあります。

 

何本骨が折れたのかすら覚えていませんし、その時期は道場へ行くたびに怪我をしていました。

 

道場へ行くのは本当に辛く、稽古の日は朝から憂欝だったのですが馬の世話をするという毎日の楽しみがあったからこそ耐えられたのだろうと思います。

 

昨日、そんな話をしていて私は充実し時期を過ごしていた事もあったのだと思い出しました。

 

十代の頃は嫌な記憶しかなく……いえ、十代に限った事ではありません。

 

私の人生には嫌な記憶しかないと言っても良いくらいのものです。

 

しかし、そんな私の人生の中にも大切にしたいと思える記憶があった、経験があったのだと思うと不思議な気持ちになります。

 

中学時代に戻りたいとは、やはり思いません。

 

毎日馬小屋の世話をしていた時のあの楽しさは一生忘れられませんが、それと同時に私の生活は苦渋に満ちていましたから。

 

また中学生の時からやり直しをしなければいけないと思うと、目の前が真っ暗になる感覚さえあります。

 

それでも私の人生の中に楽しい事があったのだと思い出せたのは、本当に良かったと感じているのです。

 

苦しいだけの人生ではなかったのだというその一点が、私の人生を少しでも救いようのあるものに変えてくれる要素になるかもしれません。

 

気が付けば私は三十代に足を踏み入れています。

 

あの頃からもう十五年も経っているのです。

 

私はこの十五年、懊悩を続けてきました。

 

人生や運命、そして自分自身を呪い続けた人生だったと言っても良いでしょう。

 

しかし、私の人生の中に通底する深い怨念、虚無感のようなものが、昨日少し和らいだようにも感じられました。

 

それだけ純粋に生きていたという時期を思い出したからなのかもしれません。

 

思い出話をするようになったら中年の証だと思っていたのですが、思い出話の良さを感じるというのも悪くはないのかもしれません。

雪と空蝉

二週続けて積雪という事で私としては複雑な気持ちになっています。

 

雪はとても綺麗だし見ているのが好きなのですが、交通の便という事で考えるとやはり面倒だと感じてしまいますね。

 

駅まで原付で行くのが最も手軽なので、その手段が奪われてしまう事には苛立ちのような落ち込みのような感慨があるものです。

 

それでも雪が降った後の様子を見るのは好きです。

 

なぜ雪化粧をした風景が好きなのか、今ぼんやりとベランダでタバコを吸いながら考えていました。

 

真っ白に染まった風景は全てを零へと還してくれたように感じるのです。

 

陰惨な過去もろくでもない自分という人間も、何もかもが無に帰したのだと感じられる風景が私はとても好きなのです。

 

今から全てをやり直す事が出来る。

 

そう感じられる瞬間、そう思わせてくれる情景が雪から生み出されているのです。

 

だから、私はずっと眺めていたいほどの感動を覚えるのでしょう。

 

冷たく凍ったようにも見えるその風景、今後何の変化も起こらないように見える様子が私の心を慰めてくれるようにも感じるのです。

 

無というのは私を掴んで離さない概念でもあります。

 

それを象徴的に見せてくれているような気がして、私は雪に染まった風景に言葉を失うほどの感動を覚えます。

 

決して悲観的になっていたり、落ち込んでいるわけではないのです。

 

私はいつでもこうだし、さっきまでガキの使いを見ていたので結構笑っていました。

 

しかし、私が返って来る場所はやはりここ、無の地点、無の場所。

 

何も手に入らない人生、何も失われない命のはずなのに、私たちは何かを手に入れたと思い込むし、何かを失ったと嘆くのです。

 

何も手にしていないのに。

 

人生はショートシーンで見ると悲劇、ロングシーンで見ると喜劇だとチャップリンが言ったように、何も手に入れていないのに何かを失ったと嘆く姿は遠くから見ると滑稽なものなのでしょう。

 

空蝉という言葉がしっくりと来る感覚を覚えてしまいますね。

私は異端児なのです

性格診断やら適職診断が思いの外好きであり、ちょっと見掛けてはやってみてしまうという行動をよく取ります。

 

ちなみに今日やってみたのはこちら

 

無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities

 

なぜこうした診断が好きなのかといえば、私はどの診断をやってもかなりの少数派に分類される事になり、ちょっとした異端児気分を味わえるからなのです。

 

ちなみにこの診断では建築家タイプと出ました。

 

ちょっと一部を抜粋してみましょうかね。

 

この上なく孤独、そして最も希少で戦略に長けている性格タイプのひとつで、建築家型の人達自身、これをすべて痛いほど感じています。全人口のわずか2%を占めていて、特に女性が珍しく、全人口のたった0.8%です。

 

となっています。

 

私の異端児気分を高めてくれるには十分な説明だと言って良いでしょう。

 

読み進めていくと、あの手この手で褒めてくれるので気分は上々です。

 

伝統を忌み嫌う性質と出てきましたが、私は伝統芸能を20年以上もやっているし、日本の伝統文化の一つである空手道では三段を取りました。

 

なので、個人的には思い切り伝統的な人間だと思ってきたのですが、確かに思い当たる節がなくもありません。

 

実用的かどうか、機能するかどうかが私にとっては非常に重要な点になります。

 

どれほど荘厳で威風堂々としていても、その伝統が現在の社会の中で機能していないのであれば、それはただのハリボテなのではないか? と思ってしまうからです。

 

もちろん、伝統の意義というのは実用的かどうかだけで判断するものではありませんが、私としてはどうしても機能美を目指してしまいます。

 

さてさて、皆さんもこの診断をやってみて自分を見つめ直す一助にしてみてください。

「良し悪しはない」という口癖について

久し振りの更新となりましたが、私は案外元気です。

 

最近は疲れている事が多く休みになるとブログの更新をする元気がなく、ぼんやりとしてしまう事が多くなりました。

 

そんな具合でブログの更新が滞りましたが、相変わらず一人であれこれと考えています。

 

今日まとめたいと思っているのは言葉についてです。

 

最近口癖のように「良し悪しはそこに関係がない」と言ってしまうのですが、こんな事は自分の人生を生きているのであれば起こり得ない事だと断言出来ます。

 

良し悪しがない世界というのは小説で言うところの神の視点であり、誰の立場でもないところから話し、考えている証だと言って良いでしょう。

 

つまり、良し悪しがない世界観というのは誰の世界でもないのです。

 

自分の人生なのに誰の人生も生きていない瞬間が生まれるという話になります。

 

なぜなら、良し悪しは価値観から生まれ、その価値観から逃れる事が個人には出来ないからなのです。

 

経験した事、学んだ事、生まれ持った性質や観点、感性や体の造りなどから価値観が醸成されます。

 

例えば20代でこれから人生を楽しもうと前向きに考える人もいれば、20代まで生きて人生に辟易としてしまったからもう寿命が来てほしい、と願う人もいます。

 

これは20代という同じ条件を持っている人同士という共通点こそありますが、向いている方向が正反対になっています。

 

希望を持っている人は快活に、絶望している人は淡泊に人生を過ごしていくでしょう。

 

こうした価値観によって人の生き方は決定されて行きますし、当然のように善悪が明確になるのです。

 

自分の人生はこうしたものだ、この立場から生きるのだ、この観点こそが自分の生き様なのだ、と言ってこそ初めて言葉は自分のものになります。

 

つまり、良し悪しがないという世界から一歩進み、自分の世界とはこれが悪でこれが善なのだと伝えて初めて、自分が言葉を使う意味を持つのです。

 

良し悪しがないと言ってしまえばそれで角が立たなくなりますし、人と衝突する事も避けやすいでしょう。

 

しかし、そこに浮かぶ言葉は無味無臭で、清潔ではあるけれど毒にも薬にもならない、もっと言えば話す価値があるかどうかさえ疑わしい、ただ日本語の規則に従っただけの音なのです。

 

もちろん、自分自身の善悪を人に押し付け始めた時には、どのような高邁な思想に基づくものであってもそれが害悪と化します。

 

人に向けるためではなく、自分自身に向けて「私は(俺は)こういう人間なのだ」と自覚するためにはやはり善悪のはっきりとした、偏りのある価値観を受容しなければなりません。

 

綺麗に生きよう、矛盾のない論理に従おうとすればするほど確かに善悪から遠ざかる事は出来ますがそれによって自己の同一性が損なわれ、己が何者であるのか? という点が朧になります。

 

結果として誰からも嫌われたくない、もっと自分を認めて欲しいという欲に足を絡め取られ、毒にも薬にもならない言葉を吐くのです。

 

誰もが逃れられない穢れのようなもの、狭隘で不格好で浅薄な自分自身を受け止めなければ、自分の人生を生きるというのは難しいでしょう。

 

私はそんな自分に絶望をするし、そこから逃れられない自分自身を痛感せざるを得ません。

 

だからこそ、私は私の人生を歩んでいるとも言えます。

 

その道が好きか嫌いかという問題ではなく、その道が私の人生という事なのです。

 

論駁したりされたりという時間はあまり好きではありませんが、自分の好みすら堂々と表現出来ないような人生ならば首でも括った方が私にとってはマシなものです。

 

生まれたいと思って生まれたわけではない人生に翻弄され、ただお行儀良く生きるのは嫌なのです。

 

どこかで、何かしらの方法で人生に反撃を食らわせてやりたいという気持ちが、私の人生を通底する生きる力だと言っても良いかもしれません。

 

だからこそ、私は私の価値観によって象られている人生を歩むし、唯々諾々と何かに従う事が出来ないのでしょう。

 

今日はこんなところでおしまいにしておきます。