私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

読書家なのに書評していない事実に気付いた

私は自分で文章を書くのが好きだ。

 

自分で文章を書く、と言うと「そんな事は当たり前じゃないか」と思われるかもしれないけれど、これは私にとって非常に重要な事。

 

自分の中から出てきた言葉を、自分のしたいような文脈で、自分の思いに即して書くのが「自分で文章を書く」という事なのだ。

 

だからこそ、世間のニュースを取り扱ったり、書評はあまりしてこなかった。

 

と言うのも、その場合はニュースあってこその文章、本ありきの言葉になるからだ。

 

つまり、自分の中から出て来たというものではなく、何かから刺激を受けた衝撃によって零れていく言葉であって、それは私の中から溢れたものではない。

 

私が文章を書く時、イメージとしてはコップに少しずつ水が溜まっていき、表面張力まで使って耐えてきた、抑えてきた思いが遂に最後の一滴でグラスの肌を撫でて零れていく。

 

そうなるともう文章書き終えるまで私の指が止まる事はない。

 

しかし、ニュースや本ありきの文章はそうではない。

 

まだグラスの半分も思いが溜まっていないのに、グラス自体を揺さぶって無理くり水を零しているような雰囲気がある。

 

なので、私はあまり書評などをしようとは思わなかったのだけれど、今はかなり関心を持っている。

 

読んだ本そのものが幹になり、そこから派生していく枝が私の感想のように思えたのだ。

 

本そのものには全く変化はないし、以前から私が思っていたようにやはり本ありきの文章には違いないけれど、枝ぶりは人それぞれであり、そこから出て来る感想には個性がありありと顕現している。

 

ちなみに私が諸表をしなかった理由は小説をそれほど読まないからでもある。

 

私が好んで読むものは文化論や哲学、心理学に関係するものであり、どう表現しても重量感がある。

 

仕事以外でそこまで本気になって文章を書く気にならないし、ただの説明や補足に堕落する気しかしなかったので書評などは控えようと思って来た。

 

私の人生は分水嶺に差し掛かっているのかもしれない。

 

私は今、とても小説を読みたい。

 

真実を見極めるとか、現実に即して有効な知恵を手に入れるとか、そうした事に時間や労力を使うのではなく、ただただ感動するためだけに時間と労力を使いたい。

 

さて、というわけで私の好きな小説を紹介してみたい。

 

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私が本気で小説家になりたいと思ったきっかけを作ったのは重松清の青い鳥。

 

彼の小説は短編集になっている事が多く、ご多分に漏れずこの本も短編集だ。

 

タイトルにもなっている「青い鳥」という話が私にとって衝撃的だった。

 

内容はいじめによって自殺未遂をした生徒が出たクラスの話。

 

大した事だと思っていなかった、アイツはずっと笑っていたのだから本気で嫌がっているはずがなかった。

 

都合良く解釈し続けた果てに、同級生が自殺未遂をしてしまった。

 

その重責をクラスの誰もが背負っている、まるでクラスの空気は重油に塗れているかのような汚臭と重量に包まれている。

 

この小説を読んでいる時、私の頭の中には柴田淳の「未成年」がずっと流れていた。

 

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中学生という半分死へ足を踏み入れている時期、見過ごすにはあまりにも重いクラスメイトの自殺未遂、繊細な時期に訪れた破壊的な重圧。

 

そこに現れた吃音の臨時教員、村内先生と生徒たちの話が掲載されている。

 

いじめとは何か? という問いに対する一つの答えがこの中に出て来た。

 

それと同時にいじめは決してなくならないだろう、という気分にもさせられてしまった。

 

人にはどうしようもない悪の部分があり、それを拭い去る事など決してできない。

 

生きる事は辛い。

 

この小説に出て来る中学生たちもそうなのだろうし、私個人を見てもやはりそうだ。

 

特に自殺願望が強いとか、病んでいるというわけではない。

 

ただ、生きる事は辛いのだ。

 

あらゆる重圧の中、必死になって生きる道を探し安住するところが見付かればすぐに寿命がやって来る。

 

今の苦労は10年後に覚えてさえいないかもしれない。

 

そして、振り返り人生の軌跡を眺めた時、私は生まれた良かったと言えるのだろうか?

 

やはりと言うべきか、私は過剰な感受性を持っているらしい。

 

多少、人より記憶力も良く生まれてしまったせいで、私には忘却から来る救いをそれほど感じられない。

 

忘れるから生きていけるのだ、人は。

 

傷付いた記憶も、嬉しい事も、全てをニュートラルへと戻せるからこそ人は「恐ろしいほどの逞しさ」を手に入れる事が出来る。

 

それを愚かだと言った哲学者もいるけれど、忘れるというのは生きる術でもある。

 

自己の持つ醜さを、繰り返した過ちを、反吐が出る打算を忘れるから、私たちは何十年という年月「自分」に耐えられる。

 

1秒として離れる事の出来ない「自分」を許し、慈しむ事が出来る。

 

全てとは言わないけれど、私は記憶の匂いまで思い出す事が出来るのだ。

 

もちろん、声も雑音も日の傾きも座っていた場所の感触も、何もかもが鮮明に映像のように見える事がある。

 

それに加えて、私には思春期よろしく過剰な感受性が備わっている。

 

こうやって書き出してみると、私が人と関わるのを極端に苦手だと感じる所以も見えて来るような気がする。

 

私はおそらく、人が羨ましいのだろう。

 

どうせ忘れる事が出来るんだから、と。

 

忘れる事が難しい私には少しのつまずきが、ささくれが、10年後の自分を苦しめる要因になる。

 

瞬間冷凍された記憶が年老いた私の首を絞めるかもしれない。

 

そう思うと、私の肩に自然と力みが生まれる。

 

そんな私の目から見るとあらゆる人がリラックスをして過ごしているのだ。

 

間違えてもやり直せば良い、というのは当然その通りなのだが、その根底には時間が嫌な事を忘れさせてくれるだろう、という楽観が揺蕩っている。

 

私に与えられていない救いを、誰もが当たり前のように持っているのだと見せつけられているようにすら感じ、私の精神は硬直の度合いを強めていく。

 

そうして私はまた周囲に対する壁を厚くし、一人の世界へ没入していくのだ。

 

 

 

 

中学時代、青い鳥に出て来るような出来事はなかったにせよ、異なる形での煩悶、辛酸があった。

 

せめて当時、私の記憶力が人一倍良いという事だけでも知っていれば、嫌な記憶を減らす事が出来たかもしれない。

 

先日、何年かぶりに「生まれ変わったらどうなりたい?」という質問をされた。

 

私は苔になりたい。

 

日陰でひっそりと、何もものを言わない苔。

 

目立つのを極端に嫌うくせに講演をしてみたり、こうしてブログに文章を書いているのだから人というのは本当に矛盾をしている。

 

久しぶりに書き出して止まらない状態になり、私の気分はとても弾んでいる。

 

1週間に1度で良いから、こういう日が欲しいものだ。

悲喜劇

今日は講演の練習をした後に家事をやり、ただただのんびりと過ごしていた。

 

夕方頃から具合が悪くなったのは低気圧の影響があったからだろう。

 

低気圧の影響をとても受けやすい私としては、漠然とした体調不良によって振り回されるとまではいかない、水中にいるような手足や体の重みを感じる時間がとても嫌なのだ。

 

気合で乗り越えられない事はないけれど、そうする必要もないという状況ではただ時間を無為にしてしまう。

 

しかし、それの何がいけないと思っているのだろうか?

 

ただ時間を無為にすると言うけれど、それで何が問題なのだろう?

 

私は時間を埋め尽くす事に慣れている。

 

次にこれをして、その次はこれをする。

 

3ヶ月後にはこうなっていて、1年後にはこうなっている予定というように、私は時間をみっちりと埋めてしまい、生きている時間を味わう事なく過ごしている。

 

私が尊敬している夏目漱石は芸術家というのは「ものと自分の関係を味わう人」だと言った。

 

商人は「ものと自分の関係を改造する人」、学者は「ものと自分の関係を明らかにする人」なのだそうだ。

 

その3つの分類でいえば、私は間違いなく芸術家に当てはまり、ものと自分の関係を味わえない時、生きている実感そのものを喪失してしまう。

 

ただ無為に過ごしているような時間が、私のような人間にはどうしても必要なのだ。

 

しかし、それを捨てて商人のようにあれこれと時間や不安に追われ、ただただ急き立てられる日々の中で私の個性や直感が埋没していく。

 

そんな時間の中でいくら儲けを得ようが、いくら真実らしきものが見えてこようが、私は満足出来ないのだろう。

 

昨日日記に書いたような、川辺でただ昔を思い出し、冬の余韻のような寒さを感じながら満月の下で電車が走っていく様子を眺めている時間が、あの瞬間こそが私の人生なのだ。

 

私の毎日はあまりにも慌ただしい。

 

私の過ごし方はあまりにも自分を蔑ろにしている。

 

分かっていても止められないのは、私が人生から受ける圧力が強いのか、それとも自傷行為が形を変えているだけなのか。

 

どちらとも言えない、判然としないこの感覚。

 

しかし、このように私の感覚を言葉にしていると直感が戻って来る。

 

長旅を終えて最寄り駅に着いた時のような、幼い頃によく遊んだ場所を訪れた時のような、ああここだ、という感覚がやって来る。

 

やはり私には文章を書くという行動がどうしても必要なのだろう。

 

そうしなければ私は雪崩のようにやって来る目に見えない時間の流れによって、直感がどんどんと削られていき、どんな刺激もスルリと受け流す人間もどきになってしまう。

 

こんな穏やかな毎日、こうしていつでも直感を取り戻せる状態が続けばどんなにか幸せだろう。

 

しかし、私の毎日はそうならない。

 

私は能力を磨くために、収入を増やすために、他を圧倒するためにこれからも努力を続けていくのだ。

 

そうして何物でもないはずの自分が何者かに成長したような錯覚を覚え続ける。

 

瞑目する時、人は現世で得た全てのものを手放していくのに、そうだと分かっているのに私は何かに、どこかに爪痕を残そうとしている。

 

私という人間が生きたのだという証を残そうとしているのかもしれない。

 

少し遠くから見ると私は切なくも愛しい存在のようにも思える。

 

人間らしさをこれでもかと振り撒いているのだから。

 

しかし、その本人として生きているのだから、それほど穏やかな視線を送れない。

 

必死に生きるしかない。

 

そして、真剣に生きる誰もが短く見ると悲劇、長く見ると喜劇を演じているのが人生なのだ。

 

やはり人生は面白いし、だからこそ切ない。

川の上に架かる線路の上に満月

昨日、友人との待ち合わせで使った駅は初めての場所だった。

 

友人が遅れると言い出し、私はどこで時間を潰そうかと迷い駅の周りを歩いていた。

 

グーグルマップで調べてみると近くに大きな川が流れているらしい。

 

私は無類の川好きであり、川辺に座っているだけで何時間でも潰せる。

 

そこで私は川を目指して歩いたのだけれど、駅から5分もしないで目的の場所へとたどり着いた。

 

川沿いを走っている中学生を横目に、私は淡々と川沿いを歩く。

 

私の隣を走っていく中学生たちは先生がどうのと文句のような事を言っていた。

 

彼らからしてみれば何気ないその会話が、私の郷愁を強く誘う。

 

かつて中学生だった頃の自分を思い出し、そんな他愛のない会話もしていたはずなのに記憶に残っているのは苦々しい事ばかり。

 

記憶というのは実際に遭った事を覚えている機能の事ではなく、心が刺激を受けた瞬間を冷凍しておく機能なのかもしれない。

 

恋愛や空手、伝統芸能や学校でのいじめ、家庭内不和など私の中学時代というのは忘れたい事ばかりだと思っていた。

 

しかし、私にも他愛のない会話をしていた穏やかな日が、退屈しか感じなかった幸福な時間があったのだ。

 

私は鬼束ちひろの曲を聴きながらあと一歩踏み出せば川へ落ちる場所へ座り込み、そんなことを考えていた。

 

すると、空が美しく色を変えつつある事に気付いたのだ。

 

満月はこれから来る夜を期待して燦然と輝いている。

 

自分の出番はこれからやって来るのだと言わんばかりの、少し押しつけがましい明かりだったように思う。

 

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分かり辛いけれど、上から二本目の枝の下にその満月が映っている。

 

実は水面にも映っているのだけれど、少し見辛い。

 

振り返ると川の上に架かっている線路を電車が通過していった。

 

仄かに赤味の差した夕焼けの下を、押し付けがましく光る満月の下を電車が通る様は映画のワンシーンのようだった。

 

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私は1時間ほどこの場所に腰を下ろし、昔を思い出して妙に切なくなっていた。

 

しかし、このまま座っていると神経痛が出そうだと思い、少し歩いた場所にある階段へと腰を下ろした。

 

空は刻々と光を失っていき、いよいよ私の気持ちは切なさを増していく。

 

中学時代の私が今の私を観たら、一体何というのだろうか?

 

認めてくれるのだろうか?

 

それとも失望するのだろうか?

 

30歳という年齢に達した自分を、15歳の私はどう見るのだろう?

 

捨ててきたものの数々を、諦めて来たものの1つ1つを、失ったもののそれぞれを伝えれば15歳の私はきっと納得をしてくれるだろう。

 

しかし、本当に15歳の私が目の前にいたならば、私は何も言うつもりはない。

 

どんな恨み言を言われても何も言わないだろう。

 

川は静かに流れ、電車を何本見送ったか分からなくなった私はこのガラスの破片が体内からジワジワ体の外へと向かって出ていくような痛みを覚えつつ、ただただ階段に腰を下ろしていた。

 

すると、一匹の猫が現れ私の膝に乗って来た。

 

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猫に私の気持ちが分かったとは言わないけれど、慰められているような気持ちになりやって来た猫の額を指で撫でた。

 

猫はしばらく私の膝から川を眺め、繁みへと帰っていった。

 

その頃には空は深い紺に染まり、私のスマホには友人から何件も連絡が届いていた。

 

川から離れる時、私は少しの間現世から離れていたのではないか? と思うほど気持ちが軽くなっていた。

寝ないで書いた日記

昨日からほとんど寝ておらず、不眠症によって日々悩んでいる私にとっては辛い一日になっている。

 

しかし、これは自業自得なので誰を恨むわけにもいかない。

 

というのも、昨夜は幼馴染と二人で友人一家がやっているスナックへ行き、そこで午前1時前まで騒いでいたのだ。

 

仕事の影響もあって私は一日の大半を一人で過ごしているし、大声を出す事もなければ騒ぐ事も一切ない。

 

だからこそ、時折カラオケへ行ったり大騒ぎをしてしまうと体が興奮状態になって寝付けなくなってしまうのだ。

 

そうなると分かっていてもやはり楽しい場所へ行くと騒いでしまうし、眠れなくなってもいいやという気持ちになる。

 

私は人付き合いが苦手であり、人見知りで人の好き嫌いはすこぶる激しい。

 

それなのに周りからはそう見えないらしく、人懐っこくて陽気な人物のように思われる事がある。

 

人に関心などほとんど持っていないし、世間にもニュースにも興味はなく、私の関心を引くのはただただ自分の感覚だけなのに、それとは正反対の人間だと思われるのは不思議な感覚だ。

 

以前、私はエムグラムという心理テストのようなものをやり、それが見事に的中すると言う人が多いし、私自身も当たっているように思えるので事あるごとに見返してしまう。

 

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普段からナイトモードにしているので画像が暗いのはご容赦願いたい。

 

神経をやられやすい人間は目が光に弱くなるらしい。

 

それに加え嫌がらせのように私の瞳は明るい茶色なので、普通の人以上に世界が明るく見えているというのだ。

 

昼間に外へ出なくない理由は目が疲れてしまうからでもある。

 

さて、これがその結果の一部なのだけれど、私としては当たっているように思える。

 

そして、当たっているのが何となく嬉しいので、よく人に見せている。

 

すると、大抵の人はスーパードライというところが絶妙にしっくり来ると言ってくれるのだ。

 

私はドライな人間だと思って生きてきたつもりはなく、むしろ執着心に関しては際立っていると自覚をしてきたのだが、周りからはそう見えていないらしい。

 

しかし、人と話している時には「どうして些末な事ばかり気にするのだろう?」と考えてしまう時がかなりあるのも事実なのだ。

 

私から見て面白いものに関しては尋常ではない執着心を持っているのだが、そうではないものは私の心の表面をかすりもしない。

 

さらに私が面白いと思えるものはそれほど多くないので、そうした意味ではスーパードライに対応しているものが相対的に多く、やはりエムグラムは当たっているように思える。

 

 

 

 

隙がないという言葉をよく言われていた時期があるのを思い出してしまった。

 

その時期は私が誰とも付き合っていない時期で、流れに任せて何人かとセックスをしていた時期だった。

 

相手からそう言われる事が多かった記憶があるのだ、隙がないと。

 

一般的に言われるように賢者タイム云々だから冷たくなるというタイプではないので、おそらく普段からの印象を言っていたのだろう。

 

何事に関しても私は真剣であったり、夢中になっている人が好きで、そうした相手がいると思わず見入ってしまう。

 

観察を始めてしまう事がある。

 

そのために相手を夢中にさせるために色々と覚えようとしていた時期もあった。

 

行為の最中には大抵冷静になっている事が多いのは、おそらくこうした気質に起因しているのだろう。

 

眠たいからなのか、それともいつも通りなのか理由は分からないけれど、今日も私は判然としない世界の中で自分が朧げな存在だと感じている。

 

理性的なのか感情的なのか、さっぱりしているのか女々しいのか、生きているだけなのか生きようとしているのか。

 

ふと思い出したけれど、この感覚は以前にもよく感じた事があるものだ。

 

精神的な不調が顕著になると、そのような状態の人はなぜか景色と姿の境界線が朧に見えるのだ。

 

姿と景色の境界が滲み、少し溶けているように見えてしまう事がある。

 

私はいつからその状態なのだろう?

 

不調なわけでもないのに、病院へ通っている人と同程度の脆さを放っている。

 

全て睡眠不足のせいにして、私はベッドに戻ろうと思う。

人の振り見て

明日からまた仕事が始まるので休みの間にブログを更新しておきたいと思っていたけれど、休み最終日までダラダラしてしまうあたりがだらしないと思う。

 

しかし、最近は気温や気圧の乱高下でゾンビ状態になっていたので、そう考えるとブログを更新しなかったのは怠けていたわけではないと言えるかもしれない。

 

こんな風に自分への言い訳をしなければいけなくなったのは、一体いつからなのだろうか?

 

ブログを更新しなかったのは低気圧のせい、時間をうまく作れないのは忙しいせい、やりたいと口だけ開いて行動を移せないのは疲れているせい。

 

そんな言い訳を誰にしているのだろうか?

 

私の人生なのだから趣味や好きな事などは自分の好きな時に、好きなようにすれば良い。

 

出来ない事情があるのなら別にやってもやらなくても良いのだ。

 

それなのに些細な事柄に関してまで言い訳を探そうとしている。

 

充実した人生でなければいけないのだろうか?

 

人から見て幸福でなければならないのだろうか?

 

私は一体誰の人生を生きているのだろうか?

 

そう思うと中原中也の詩が頭に浮かんだ。

 

頑なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛らす。
  そして益々不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

 

忙しくしていなければ落ち着かないというのは、私が不幸であるからだと言えるかもしれない。

 

幸福は休んでいるのだ。

 

明らかになすべきものを少しだけ持ち、それ以外をそれ以外だと考えられる人こそが幸福なのだろう。

 

趣味のくせにまるでやるべき事かのように考え、自分を追い詰めるための道具に変えている今の私はまさに愚鈍だと思う。

 

それでも私はやるべき事がなくなってしまうのが怖いと感じるのだ。

 

やるべき事がなくなった状態というのは用済みの烙印を押されたように感じてしまう。

 

数々のものに心を紛らし、目まぐるしいものに飛び付いては彼是と思考した気になる

 

 

 

 

そう言えば最近ニュースを賑わせている虐待の事件がある。

 

小学四年生の女児が父親から鬼畜の所業を受け、児相や母親からも見捨てられ無残に命を落としてしまった。

 

母親が悪い、いや児相がなっていないと世間が賑わっているけれど、1ヶ月後にこの事件を覚えている人が一体どれくらいいるのだろう?

 

人はそのようにして感情のはけ口を探しているのだろう。

 

少しタイミングがずれ、少し環境や状況が整えば自分が虐待をしたり、人を殺す十分な可能性を持っている人間だと気付かないまま、テレビに映る犯罪者が自己と隔絶された存在だと思い指弾する。

 

いつ自分が犯罪者として画面に映るか分からないという危険性を傍目にすらせず。

 

もし、亡くなった女児から私たちが学ぶ事があるとするのなら。

 

それは児相や母親を非難する要素を見付けようと目を皿のようにするのではなく、自分が同じような事をしないために何が出来るのかを探す事なのだ。

 

あの女児が私たちと同じ世界に生きていた人物だと思うのならば、ただ美辞麗句を並べ立てる私たちの偽善をより逞しくする存在ではなく、学びを与えてくれる存在だと信じるのならば、意識を外ではなく自己の内奥へと向けなければならない。

 

虐待の事件に限らず、何かしらの事件について世間が一様に同じ態度を見せている時、私の心は摩耗していく。

 

そのような感情的な態度が、自己に対して無批判な割には他者に対して必要以上に厳密な姿勢が弱いところにいる人やモノを潰しているのだと思う。

 

さて、ブログも更新したところで明日からの仕事を頑張ろう。

 

月末に待っている講演の準備も少しずつ整っている。

自宅傍の公園で

先週から毎日のように違う人に会い違う話をしていたのだけれど、私にこんなに多くの友人がいただろうか? と自分を笑いたい気持ちになった。

 

それと同時にこんなに毎日誰かに会っていると、私が私ではなくなるような感覚に陥り、昨日と今日会う予定だった人とは会わない事にした。

 

人には系統があるらしく、人と会って気力を養うタイプと気力を失うタイプがいるのだそうだ。

 

私は明らかに後者なのだ。

 

人と会う事で気力を養う人と失う人がいるという話を耳にした時、精神を紙やすりで撫でられたような不快感があった。

 

人と一緒にいるのが好きだという人は、誰かからの気力を奪う事で英気を養っているのだと思う。

 

人と出会う事の素晴らしさ、人と関わる事の充実感、人と繋がる事で生まれる可能性。

 

そんな話を耳にするたびに嘆息が漏れる。

 

そういった事柄を強調すればするほどに利用される人間、搾取される集団を求めているように見えてしまうのだ。

 

もちろん、これは私の持っている被害妄想なのだけれど、世の中は私が想像している以上の汚濁の中にある。

 

自分を善人だと思い込む詐欺師が跋扈している世間。

 

疑って掛からなければ守れない自分。

 

本当は、きっと人生はもっとシンプルで、もっと生きやすいもののはずなのだ。

 

しかし、私はその道を逸れてしまった。

 

社会の波や流れに乗る事はもちろんできず、しかし社会の外で生きる術も道もない。

 

嘆息を漏らしながら、ただ傍観しているしかないのだろうか?

 

それが嫌だから色々な事に手を出してはいるけれど、満足するというのには程遠い現実が目の前にある。

 

世間的にはそう見えないらしいけれど、私はきっと欲の塊でやりたい事や望みが人並み外れて多いのだろう。

 

手に入らないものの数に打ちひしがれ、これまで失ったものの重さに耐えかねている。

 

それならいっそ絶望感に潰されてしまえば良いものを、私はおそらく桁外れの生命力を持っていて潰されないのだ。

 

一つ不安なのは私は絶望感を糧にして生きているし、実現しようと奮闘している事が現実のものになったとしたら。

 

私は何かを徹底的に壊してしまうのではないか、という事だ。

 

それは人かもしれないし、社会のある部分かもしれない。

 

絶望感を糧に生きている人間が力を持ってはいけないのだと思うけれど、私は欲深いので力を手に入れるまで諦める事がない。

 

これまでもそうだったように、これからも私は力を求めて何かをするのだろう。

 

虚しい人生だ。

 

私は小さな丘の上でただ静かに夜景を見ているだけの一生でも構わないのに。

 

誰とも会わず、話さず、理解せずされず、ただただ静かに夜景を見ているだけで良いのに。

 

我が家から10分ほどの場所にある夜景スポットでそんなことを考えていた。

 

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不自由

来月から講演をする1年が始まる。

 

私のような若輩に何を伝えられるのだろうか? と考えていると何を話せば良いのか分からなくなってしまう。

 

話をもらったのは10月なのに来月に話す内容がまだ決まっていないのは不安で仕方ない。

 

ぼんやり本棚を眺めてみると哲学、心理学、社会学、歴史、神話、文化に関する本がずらりと並んでいる。

 

そのどれもに付箋が貼ってあり、重要な箇所はすぐに見返せるようになっているけれど。

 

結局のところ、これだけの本を読んでみたところで私は自分の言葉を紡ぐしかないのだ。

 

誰かの言葉を借りて、それらしい事を言おうと思えばすぐにでも出来る。

 

けれど、それでは意味がない、それは本を読めばわかる事であり私が私の言葉で話す必要がないのだ。

 

私が話す言葉はどこまでも私の匂いが沁み込んでいるものでなければならない。

 

借り物の美しい言葉ではなく、歪で直視すること能わないほどグロテスクであっても、私の主観によってしっかりと濾過されたものでなければいけないのだ。

 

そんな風に考えてみると、私の主観は私によって作られていない事実が面白くもある。

 

私は私の主観を通した言葉こそ借り物ではない、私自身の言葉だと思っているのに、その主観というのは経験や生まれ持った感性から生まれている。

 

私は経験を選べなかったし、どのような感性を持つかも選んでいない。

 

その不可避のものを通じて生まれた言葉が私の言葉であるのなら、私は話しているのではなく話を「させられている」。

 

どんな言葉を使うか選んでいるのではなく「選ばされている」。

 

自分が選ばされた言葉を見つけようと必死になっている今の私が滑稽ですらある。

 

それならばそれで明日一日で講演の内容を決めてしまおう。

 

話の流れを作っておいて、木曜日までに肉付けをしてしまえば終わりだ。

 

私は今まで何に悩んでいたのだろう。

 

こんな簡単に解決する悩みだとは思わなかった。