私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

この世はフィクションで出来ている

 

結局のところ、私たちは私たちの聞きたいものを聞き、見たいものを見て、無自覚のうちに自己にとって心地良い解釈の中で生きるしかない。

 

例えば私が今、誰かに向かって話しているとすれば、それは私が自発的に話をしているという面がある。

 

しかし、その時には私が話したいことを話したいように話すわけにはいかない事情がある。

 

相手に向かって話しているのだから、相手との話に合うような切り口で話す必要があるのだ。

 

つまり、自発的に話しているはずなのに、相手がいるという事情によって話を「させられている」という面もあるという意味になる。

 

1つの物事には必ず正反対の側面が生まれてしまうのだ。

 

私は今、呼吸をしているけれど体が強制的に私に呼吸を「させている」という面があるように、全ての物事には必ず正反対のものが付きまとう。

 

私は生きているけれど、生かされているし、文章を作るために画面を見ているけれど見「させられ」ている。

 

ありとあらゆるものが正反対の側面を持ち、それなのに1つのもの事や1人の人間として評価を下されるのだ。

 

ある人から見れば鬼のような人物であっても、ある人から見れば聖人君子のようにも映るのは何故なのか?

 

そこで最初の結論に戻る事になる。

 

つまり、人は見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、考えたいように考えているのだ。

 

そうやって生きるしか、人には選択肢が残されていない。

 

自分自身の解釈の中で生きているから、同じ人に対する評価が正反対になる事がある。

 

それは人が持つ複雑さが顕現しているからと言うよりも、人それぞれが世界観を持っているからこそ良し悪しがはっきりとしてしまうだけなのだろう。

 

愛にしても死にしても、仕事にしても家族にしても、人はありとあらゆる対象に評価を下す。

 

そして、その評価は明らかに自己が作り上げたものであり対象の本質を映し出しているわけではないにもかかわらず、その対象の本質として認識する事になる。

 

アイツは良い奴だ悪い奴だ、アレは良いものだ悪いものだ、というように。

 

つまりは解釈次第という事になるのだけれど、この話が行き着く先は善悪の境界線がない世界なのだ。

 

何をしても解釈次第なのだからOKという世界の中で起きるのは、単純に力が強いものが這い上がり何をしても許されるのだという世界がやって来る。

 

それを防ぐためにホッブズリヴァイアサンの中で自然状態の悪辣さを指摘し、ソクラテスは善について説き、キルケゴールは絶望からの救いを訴えた。

 

何をしてもOKではない世界を作るために、社会という概念が生まれ、そこには国家という機能が配置されたのだ。

 

結局、社会というのはどこにも存在しない概念のものなのだ。

 

社会を指差して示す事が出来ないのは概念だからであり、存在するものではないという事情による。

 

国家も同じくそうだ。

 

愛も死も生も堕落も、何一つとして指差して示す事が出来ない概念上のものであり、人はそれが概念だと気付かず、当然存在するものとして考える。

 

全てはフィクションなのだ。

 

私たちが生きる世界の中に「真実」なるものは何一つとして存在しない。

 

あるものは解釈、ただそれだけ。

 

つまり、私の考える世界というものは「私たちが感じ取れる範囲内」の事であり、私が死ねば世界は終わる。

 

私の感じられない世界が、どうして私の世界の中に存在する事が出来るだろうか?

世界とはつまり私の事なのだ。

 

私が盲目になれば世界から光は失せるし、私の聴覚が機能しなくなれば無音の世界が広がる。

 

そして、そのような私の世界を1人1人が持っているのだ。

 

他者との理解がいかに難しいのかを考える時、世界と世界が衝突しているのだと思えばその理由が判然とする。

 

最近は両極端に振れる考えに振り回される事が多くなっているけれど、まずはこうした前提をしっかりと自分自身で押さえておきたい。

予定説

この世にはどうにもならない事がある。

 

私の世界観の中ではどうにもならない事”しか”ないのだ。

 

これはもちろん、暗い意味でもあるけれど明るい意味でもある。

 

どちらの意味にもなるので、明暗は特にないと思っている。

 

生まれる事が自分の意思ではない以上、その上に重なる全ての出来事はやはり運命と呼ぶしかなく、それは自分の意思ではないのだ。

 

どのような体を持つのか、どのような家庭で育つのか、そしてどのように生きていくのかすらも自分の意思とは全く関りがない要素によって決定される。

 

好物を自分で決められる人はいないし、誰に恋をするのかを決定できる人もいない。

 

告白されて自分から付き合おうと思ったのだから、それは自分の意思ではないのか? という話もあるかもしれない。

 

しかし、誰に告白をされるのかを決めていない上に、告白されて付き合おうかどうかを悩んだのであれば、やはりそれは相手の出方によって起きた出来事であり、自分で起こしたとは言い難い。

 

状況が、運命が自分に選択を迫ったのであり、自発的に選び取ろうとしていない以上そこに意志は介在しないのだ。

 

”自分で決めた”と思い込む事は出来るだろうけれど、そこには決定した意思らしきものはない。

 

もちろん、全ては運命の仕業だというのも思い込みなのだろうけれど。

 

どの角度から見るのかによって、物事が正反対に見えてしまうものなのだ。

 

そして、その角度は自分で決定できない。

 

生まれる、育つという過程の中で得た様々な感覚、経験が角度を作っていくのだから。

 

結局、私はニヒリズムの連環から抜け出すこと能わず、このまま生きていくのだろう。

 

私はそれに満足というわけではなく、そういうものなのだと受け入れる心積もりなのだ。

 

そうした運命なのであれば、それを受け入れようと思っている。

 

全ては予め決められており、何が出来るのか出来ないのかすらも決定されている。

 

もちろん、私の賢しらが及ばない広範囲に渡って決まっているので、何が出来るのか出来ないのかについては、私が決める事は出来ないし、知覚すら不可能だ。

 

それならば、やってみるだけやってみようと思う。

 

やってダメなら諦める、出来るのなら続ける。

 

つまり、ここでニヒリズムから脱する事が出来るのだが、やりたい事は何でもやってみようという話に繋がっていくのだ。

 

全ての物事は所与のものとして決定されているのだから、やりたくても出来ない事がある。

 

やりたくなくても出来る事がある。

 

やりたいか否かよりも、出来るかどうかにまずは重点を置いてみたい。

 

これが私を貫く考えであり、長年持ち続けて来た大切な信念なのだ。

 

その根底にあるのは無我であり、我だけではなく全てのものが虚構という発想だ。

 

無常なのであればこそ、全てのものはその瞬間だけに現われる蜃気楼のようなものでしかない。

今を生きるという事こそが人生なのであれば、その蜃気楼を愛する事が人生を愛するという意味になる。

 

次の瞬間に消えてしまうと分かっているからこそ、人は物語を作る、あれこれと理屈をこねて次の瞬間に失われるものを心に残そうとするのだ。

 

10年前からずっとあなたを知っているというフィクションは、それだけ愛着を持っていますという意思表示になる。

 

10年前のAさんと、今のAさんは全くの別人にもかかわらず、同じAさんを知っているという幻想を抱くのだ。

 

そう思わなければ、今のこの瞬間しかないのだと分かってしまえば、人生を生きるのはあまりにも辛過ぎる。

 

人は物語の中に生きているのだから、全員小説家みたいなものなのかもしれない。

 

それを文字起こし出来る人間が、小説家として生きていくのだろう。

 

結びが小説になってしまったのは、今日こそ書くぞと気合を入れていたのに一文字も書けなかった自分を慰めるためなのかもしれない。

法事

今日は祖母の三回忌で山梨へ行く事になっている。

 

今、高速バスのバス停でバスを待っているのだけれど、ベンチは空手部っぽい連中に占領されていて座れない。

 

バスは遅れてるらしく、30分ほど待ち時間が長くなりそうだ。

 

合計で一時間ほど待つ事になる。

 

無駄な時間が嫌いな私にとって、これは少なからぬストレスだ。

 

最悪なのは家族と一緒に高速バスを待っている事なのだ。

 

本当なら私は一人で山梨まで行く予定だったのだけれど、長兄が今朝体調を崩してバスの席が1つ空いてしまった。

 

席代がもったいないからという理由で一緒に行こうと誘われて、安請け合いした結果がこの様だ。

 

バス停まではタクシーで来たのだけれど、久しぶりに家族とあんな狭い空間で一緒になった。

 

最近は家族に対しても穏やかになったと思い込んでいたけれど、タクシーに乗っている時には不快感が凄まじかった。

 

父は運転中、本当によくキレる人だった。

 

ハンドルを握ると性格が変わるタイプと言っても良い。

 

チンピラのような口調でがなりたて、その状態に母が油を注ぐ。

 

親はそれで良かっただろうけれど、息を殺していなければならない子供としては牢獄のようにしか感じられなかった。

 

家族には近くに居て欲しくない、本当に。

 

今も家族が手の届く場所にいて、下らない会話に終始している。

 

私は話し掛けられないようにイヤホンで家族を遮断し、こうやってブログを書いて現実逃避するしかない。

 

最悪な1日はまだ始まったばかりで、これから私はこの家族と何時間も行動を共にしながら、いつものように穏やかな顔を見せなければならない。

 

これから親戚にも合う、義父にも顔を出す。

 

それなのに私の心中はささくれ立っていて、近づく人は誰でも睨んでしまいそうだ。

 

幼い頃は暴君だった父は今、私の左隣で小さくなって大して面白くもない雑誌に目を通している。

 

私より父の方が気まずそうにしているのは何故なのか。

 

考えれば当然で父は私から恨まれている事を知っている。

 

自分から話し掛けてくる事はまずない。

 

こうやって父が死ぬまでこの関係は変わらないのだろう。

 

馬鹿馬鹿しい家族ごっこはいつまで続くのか。

 

いつもなら受け流せる事が今日はできない。

 

低気圧のせいだ、不眠のせいだと思ってみても気持ちは全くごまかせない。

 

本当に今日は長くなりそうだ。

時間と空間

木曜日から仕事になりますので、今の内に指の体操をしてタイピングの速度を落とさないようにしておきたいと思います。

 

少し気を抜くとあっという間に更新期間が空いてしまいますね。

 

今日は先日友人から勧められたキリンサプリの快眠を誘うやーつーを先程飲んで、早くも睡魔に襲われつつある中でなぜか文章を作っている次第です。

 

文章書くのが好きなんですよね。

 

さて、どうでも良い話はさて置き、夏も終わりに差し掛かっています。

 

これから季節が秋から冬へと変わり、最悪な花粉症の季節を越えてまた夏がやってくるのですが、年齢を重ねるほど時間の流れが早くなっていくように感じられますね。

 

一年が短く感じられる理由は、まさしく加齢にあります。

 

年齢を分母にして分子は1年の1のままだとすれば、1歳の赤ん坊にとって1年は人生の全ての期間になりますが、20歳の人にとっては20分の1の長さです。

 

30,40と年齢を重ねるうちに少しずつ1年の割合が小さくなっていきます。

 

そこで感じられる時間の長さにも変化が出てくるのでしょう。

 

時間は流動性をつかさどり、空間は硬直性を司ると言われる事があります。

 

この二つの要素が同じ場所に併存する事によって「変化」が起きるのです。

 

このままでいようとする空間、それを薙ぎ倒そうとする時間の相克がまさしく「今」という事になります。

 

時間だけが存在すれば変化は起きません。

 

変化が起きるためにはその主体となるものが必要になります。

 

たとえば「私」が年齢を重ねる事によって変化する場合、「私」がいなければなりません。

 

その「私」を存在させる絶対条件こそが空間になのです。

 

もちろん、空間だけでも当然変化が起きません。

 

瞬間冷凍されたように、全てのものはそのままの状態で保存されるしかないからです。

 

硬直性、流動性が併存するからこそ、私は年齢を取るし、あなたは成長も退化もしていきます。

 

それが悲しいというか、虚しく感じられます。

 

全てのものは諸行無常、今この瞬間にだけ存在する火花のようなものなのですから。

 

その人生の中で人は懊悩し、奮闘し、疲弊し、歓喜しているのです。

 

ただこの瞬間を輝こうとするその力を出さんがために、人はありとあらゆる艱難辛苦を乗り越え、喜びを味わおうと必死になります。

 

次の瞬間に尽き果てるとどこかで分かっているのに、その努力を惜しもうとしません。

 

私たちの人生とは一体何なのでしょうね。

 

何のためにあるものなのでしょうか。

 

それが気になります。

最近、また良い洋画の俳優を見付けてしまった。

 

トム・ハーディというイギリスの俳優だ。

 

リーアム・ニーソンもそうだけれど、暗い内面が隠しきれない人が好きなのだ。

 

トム・ハーディはいつでも憂愁を漂わせる役柄を演じているし、どこか報われない雰囲気が強く出ている。

 

これは絶対演技だけではないと思い調べてみると、過去にアルコールとコカイン中毒になっていたようだ。

 

二十歳を過ぎれば内面が顔立ちに表れるとはよく言ったもので、やはりその人の過去は顔付きになって出てくるのだろう。

 

そう思うと私は自分の顔を見るのが嫌になる。

 

今の私は昔と比較すれば非常に健康的で、不自由な思いをする事も少なくなってきた。

 

しかし、私の過去はそうではない。

 

私の顔付きはそうではないのだ。

 

ちゃんと人の顔を見て話す人が見れば、私の内面にも気付くだろう。

 

私は自分の顔を見るたびに嘆息を吐いてしまう。

 

私の顔には苦渋が染み込んでいる、目はいつも光を鈍く反射させているのだ。

 

不思議な事にカウンセラーの養成講座に集まっている人の中には、家庭環境が壮絶だった人が多い。

 

私の家に似ている環境で育った人が2人もいる。

 

その2人の顔付きを見ていると、やはりそうかと言いたくなるのだ。

 

幸福を拒絶しているあの表情、ふとした時に見せるニーチェが言った深淵を覗いているかのような目付き。

 

まるで私を見ているような気持ちにさせられる。

 

決して幸福に対して激しい抵抗をしているわけではない。

 

幸福などこの世にないのだと何度も繰り返し味わってきた力のない絶望感、諦念がその表情に、目付きに表れているのだ。

 

2人のそうした表情を見るたびに「そうか……」と思う。

 

そうか、と。

 

これ以上ないほどに絶望してきた人を前にして、私はいつも「そうか」と思う。

 

この人の人生はこの表情を生み出すほどの艱難辛苦に満ちていたのか……と。

 

あの2人はそれほど匂わせないけれど、きっと何度も死にたくなった事があるのだろう。

 

あの表情には覆い隠せない絶望感が漂っている。

 

あの表情には受け止めきれない悲しみが滲んでいる。

 

私はあの2人をとても好きなのだけれど、会うたびに胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。

 

人生とは何だろうか?

 

命とは何だろう?

 

生は間違いなく暴力と同じ構造で私たちに降り掛かる不幸のようなものだ。

 

生まれたいと誰も言っていないのに、拒否する事も出来ないままに生まれさせられる。

 

生きる環境など全く選べないまま、家庭に恵まれなかった人たちはその後の人生を懸けて致命的な欠損を補おうとするしかない。

 

埋まらないと分かっているその欠如を、誰もが持っているはずの欠如であっても許せなくなってしまう。

 

私も彼女たちも、自分を許せないのだ、だからあの表情をしている。

 

自慢になるけれど私の能力はおそらく高い。

 

そして、彼女たちの能力も間違いなく高い。

 

きっと人は私を、そして彼女たちを認めてくれるだろう。

 

高い能力を努力によって身に着けた人物として、相応の評価を受けられるはずなのだ。

 

しかし、私はそれに満足出来ない。

 

おそらく彼女たちもそうなのだ。

 

松明が奈落へと落ちていくように、私に与えられた評価もすぐにその光を失ってしまう。

 

私の眼前に広がるのは奈落であり、ただただ呆然とこれまでの人生を続けるのだ。

 

しかし、そこには救いがある。

 

一点の光もない場所だからこそ、そこには希望があるのだ。

 

人生は無であり、私も無であり、何もかもが灰塵へと帰すものなのだという救いが。

 

私はどこにも存在しない。

 

私の体は私ではなく、私の意識が私を象っているだけ。

 

その私の意識すら私ではない。

 

あるのは言葉にならない「存在」としか言いようのないものなのだけれど、それはすでに私ではない。

 

私はやはり無なのだ。

 

主語である私が無なのだから、その主語から始まるあらゆる言葉が無にならざるを得ない。

 

私の〇〇は全て陰影、虚構でしかない。

 

だから、無の中で起きたいかなる出来事も、取るに足らない小事という話なのだ。

 

それが救いになる。

 

私にとっても、彼女たちにとっても無の意識はこれからも大切になるのだろう。

重い過去は言葉にし始めた時から過去へと変わり始める

しばらくぶりの更新になってしまったけれど、実生活での忙しさが落ち着いたので今のタイミングで記事を書くのはとても気分が良い。

 

夏は毎年大変な思いをしてしまう。

 

というのは、地元で伝統芸能に関わっている影響で、七月は毎年忙殺されてしまうのだ。

 

七月が一年で最も忙しい月かもしれない。

 

何はともあれ、祭りが終わったので一安心をしているところだ。

 

さて、ここからが本題になるのだけれど、四月から通っているカウンセラーの養成講座がようやく今月で終わりを迎える。

 

ここまで来るのに本当に大変な思いをした。

 

私は今年で30歳になるけれど、今の今まで過去を清算出来ていなかったとは思いもしていなかったのだ。

 

私はめったに怒らないタイプの人間なのだけれど、一度怒り出すと必ず酷い状況になってしまう。

 

止まらない怒りを持っている時には、刺し違えてでも相手にダメージを与えようとしてしまうのだ。

 

もちろん、そのような態度では私の方も無傷では済まないのだけれど、それでも捨身で相手に噛み付いていくという行動が止められない時があった。

 

私は養成講座に通うまで気付かなかった事がある。

 

私がそのような怒りを向ける相手には、決まった条件が合ったのだ。

 

私よりも立場が上で、年長で、負うべき責任がある人にしか私は攻撃をしない。

 

裏を返せば、私は私の上に立つ人や立とうとしている人に対して、激烈な怒りを向けやすい。

 

私よりも知力、体力、経験が高い人間以外に私の上に立つ事を一切許そうとしないのだ。

 

この年齢になれば、私よりも愚かな年長者に出会う事がザラにある。

 

私よりも経験不足な年長者にしても同じだ。

 

体力に関しては年齢などもあるから現段階だけではなく、相手の過去なども考慮する。

 

私よりも真剣に体を動かしてきた過去を持つ人間以外に、私の上に立つ資格はないと考えてしまうのだ。

 

なぜ年長者や自分の上に立つ人間に、私はここまで厳しい視線を向けているのだろうか?

 

もちろん、これまで自分を納得させる理由はいくつも考えだしてきた。

 

責任が自分よりあるのなら、それを負い全うするためには自分以上の能力があってしかるべきだから、という理由だ。

 

しかし、養成講座に通うようになって、私はようやくその本当の理由を見付ける事が出来た。

 

私は父や兄を相手に投影してきたのだ。

 

元から許せない相手の影を見ているからこそ、少しの欠点が許せない。

 

一度でもミスをしようものなら、そこを理由にしていくらでも詰問して良いし、指弾しても構わないというスイッチが入る。

 

私が許していないのは年長者ではなく、私に対して暴力によって地位を誇示する当時の父であり、当時の兄なのだ。

 

私は今でも年長者を許せない事がある。

 

それでもこうしたものが私の中にまだあるのだと気付いただけでも、怒り狂う回数が目に見えて減って来た。

 

心の傷や負担は言葉にし始めた時から過去になり始める、というのが私の崇拝する哲学者キルケゴールの言葉の中にある。

 

嘘や虚飾してある部分をいくら言葉にしても意味がない。

 

たとえば、先ほどの下らない理由がそれにあたる。

 

年長者であり私よりも重い責任を全うする人間は、私よりも高い能力を持っているべきだから、それが果たされていない時には怒る、というのは虚飾だ。

 

本当の理由はそうではなく、当時の父や兄を許していないからなのだ。

 

その部分、虚飾をしていない本当の部分、理由を言葉にし始めた時から、私の心は過去の重荷を下ろし始めたのかもしれない。

 

それが怒る回数が減ったという現象に繋がっているのだろう。

 

ここまで来るのに時間も労力も掛かったけれど、ようやく肩の荷が下りた気がして何となく心地良い。

束縛

思っていることをそのまま出すと、あまりにも暗すぎるから普段は言わないだけで、思っていることなんて大して変わっていない。

 

口に出す回数が少なくなれば元気そうだと言われ、多くなれば心配だと言われるけれど、私はいつでも私のままだし、昨日と今日で大差ない。

 

不眠症で自殺願望はないにしてもそれほど生に執着はなく、いつでも厭世的なのが私なのだ。

 

明るい世界に連れていってあげるとか、支えになれない自分が嫌だと言われても、私にはどうすれば良いのか分からない。

 

明るい世界は暗い世界より上等なのだろうか?

 

支えになっている実感があれば、それが仮初でも良いのだろうか?

 

支えになりたいと泣かれる事が、支えを出来るだけ排除してきた私にとっては苦痛になる時がある。

 

自力で障害を乗り越えてきた自負がある私には、支えられる状態が依存していたり、甘えているように感じられるからだ。

 

もちろん、そんなことはない。

 

支えられる事は、誰かの力を借りる事は、実は私の力とも言える。

 

助けてくれる人がいる私の人望だと言えるし、助けられる価値があると相手方が判断した証でもある。

 

だから、支えられる事には価値がある、それは分かっているのだ。

 

しかし、私には支えると言っている相手が支えたという理由で、自分の期待を押し付けてくる展開がよく見える。

 

結局のところ、自分の願望を遠回しに実現するために支えると口にしているだけなのだ。

 

もちろん、全員がそうではない。

 

しかし、私はもう誰かの期待に振り回されるのは疲れてしまったのだ。

 

支えられなくても構わないから、私を人からの期待から解放してほしい。

 

苔のように、無味無臭の存在になりたい。