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私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

性に関する話

普段はあまり書かないけれど、今日は性に関する話をしてみたい。

 

本来は薬膳の勉強を続けなければならないのだけれど、どうしても書きたい事があるとキーボードに触れてしまうらしい。

 

さて、性に関する話。

 

と言っても、世間でされているような下世話な雰囲気の話はできないし、そんな経験はない。

 

私は以前からセックスが相当危険なものなのだろう、という感覚を持っている。

 

心が不安定になれば肉体関係から異様に距離を取るか、異様に近付くかどちらかしかないのだ。

 

異様に距離を取る場合には人との触れ合いそれ自体を拒絶する展開すら待っている。

 

たとえば、同性から抱きしめられたり、手を握られる事にすら抵抗感を覚えてしまう人もいる。

 

若干、脱線するけれど急遽今月からスーパーカウンセラーと慕っている人が、弟子を取ってくれるのだとか。

 

今月から私も弟子入りする事になったのだけれど、その人曰く親からの愛情が不足している場合には、人との接触を避ける傾向が強くなるのだそうだ。

 

肉体関係以上に密接な接触はないのだから、それを避けてしまうのは当然なのかもしれない。

 

若しくは性依存になってしまうような人の場合には、自傷行為の一環として求めている場合が多いように感じる。

 

ある人は男を操作している優越感を得るために、ある人はそうしている間だけは解離せずに済むという安息のために、ある人は自分をどこまでも貶めるために、肉体関係を求めてしまう。

 

もちろん、男性の場合もあるのだろうけれど、その場合には問題視などされず、ただの遊び人と名付けられるだけだ。

 

私は遊び人ではなかったけれど、同じような育ち方をした異性とただ堕落していくためだけに、そうした関係に陥った事がある。

 

一応、付き合っているという体だったので、遊び人ではなく普通の彼氏のように見えていたのかもしれない。

 

同じような傷を持つ人間同士は、きっと距離が必要になるのだろう。

 

おそらく、家庭で深い傷を負った人たちは、何かの濃度が高いのだ。

 

所謂普通の人たちならば気にならない程度の濃さなのに、傷を持っている人間同士が惹かれ合うと、その堕落の速度や深度が急激に増していく。

 

肉体関係は生の象徴であり、常に死が内在している人間同士の場合には行為が逸脱してしまう危険性を孕んでいるし、そうしたいという欲求をおそらくお互いが持っている。

 

自分をとことん破滅へと追いやりたいという衝動が、異様な行動に通じていくのだろう。

 

幸い、私はその泥沼に足を絡めとられる事はなかったけれど、私の周りにはそうした男女がいた。

 

芸術方面の人たちであれば、そうした逸脱も芸術へと昇華させる事が出来るのだろう。

 

しかし、普通の人たちにはそれが出来ないからこそ、泥沼にはまってしまう。

 

異性の体を通じてしか得られないもののために、自らの精神を切り売りしていくのだ。

 

だから、肉体関係は危険なのだ。

 

知らない間に自己の抱える不安に飲み込まれ、翻弄され、気が付けば廃人のようになっている危険性がある。

 

生まれ流れにして備わっている性質や、避ける事が出来なかった不幸によって目を出した性癖などに罪はあるのだろうか?

 

それが気になって仕方ないのだ。

 

結論から言えば、私はそれが罪だと思っていない。

 

しかし、どうしてなのか道徳心の強い人にそうした性質が宿ったり、目を出していたりもする。

 

本来であれば哲学的な思索に耽り、人生や死、世界や心の事を考えていたいのにもかかわらず、気が付けば性的な事ばかり考えてしまうのだ、という話を耳にした事がある。

 

さらにその想像は一般的なものではなく、一見すると色情魔のようにしか見えないものだ。

 

そんな自分が許せず、死にたいという話だった。

 

おそらく、誰であってもあらゆる性癖の萌芽を持っているのだ。

 

性癖だけに限らず、あらゆる可能性を持って人は生まれて来る。

 

偶然と呼ぶしかない出来事や、きっかけによって萌芽が成長してしまう事もあるのだと思う。

 

それが罪だとするならば、それは道徳如きの罪であり、人の罪ではない。

 

道徳心は社会を安定させるために必要であり、倫理観は内なる自己を正しく制御するために必要なものだ。

 

そして、道徳心も倫理観も人間が定めたものである以上、必ず不完全に終わる。

 

自然は人間如きの賢しらを認めない。

 

道徳的に見て罪だとされようが、自然は一顧だにしないのだ。

 

生まれた性質が求める力の前に、人間の道徳心などは雲散霧消するしかない。

 

とりわけ、性欲、食欲に関わる力の強さは群を抜いている。

 

精神的に弱っている状態で肉体関係を持つのは、あまりにも危険なのだ。

 

自分と相手を破壊する力が、そこに生まれる危険性が高いから。

 

それと同時に人は生きたいという欲求と、死にたいという欲求の相克の中でしか生きる術を与えられていない。

 

ともすると、破滅的な肉体関係を持ったというのは、人としてのあるべき姿だったのかもしれない。

 

大勢が向いている生の方向ではなく、死へと突き進むという違いはあるけれど、どちらも人として当然持っているものなのだから。

 

ちなみに、私の周りには変わっていると言われる人たちが大勢いるので、性癖に関しても相当寛容になってしまった。

 

性癖に限定をするから下賤な話に転がるのであって、そういう人たちは大概他にもおかしいと思われるような面を持っている。

 

全体的に見れば性癖が変わっているのではなく、その人はこれで全体が調和しているのだと分かって来る。

 

おかしいところがなければ、辛過ぎて耐えられなかった経験などを持っているのだから、逸脱はむしろ当然なのだ。

 

性の話に限らず、自分がいわゆる普通の人や、社会通念から外れている事を責める必要などどこにもない。

 

人は常に自然に導かれて、たとえ自分の思った通りではなくても、必ず変化や成長を遂げるものなのだ。

 

社会通念や道徳観念などの人工物に遮られて、自分自身の心が曇ってしまうくらいであれば、そんなものは唾棄してしまえば良い。

 

部分的には逸脱していたとしても、全体がそれで調和するのなら必要なものだと言って良いはずなのだから。

 

その逸脱が性に関する部分でも良いだろうし、仕事に関する部分でも構わない。

 

自分と世界を調和させるために必要なものは、自分以外には決して知り得ない。

 

周りの人と同じように、という事が叶わなくても、それはそれで問題など全くないのだ。

 

自分らしさというものが私には分からないけれど、少なくとも逸脱に罪はない事だけは分かる。

 

何が言いたいのか分からない記事になってしまったけれど、これからギャング・オブ・ニューヨークを見てデカプリオに惚れ直すつもりなので、今日はここまでにしたい。

ソクラテスの弁明

今日は仕事がないのでしっかりと受験勉強をしようと思っていたのに、低気圧のせいですべての計画が狂ってしまった。

 

低気圧がやって来ると頭痛が酷くなり、どうしても勉強に集中出来ない。

 

集中していくと時間を忘れられるのだけれど、こういう日は5分経つのが苦痛で仕方ない。

 

困ったものである。

 

しかし、嘆いていても何も始まらないので、指の体操を兼ねてブログを更新する事にした。

 

私が哲学に没頭するようになったのは、今から六年ほど前の事だ。

 

大学生の頃には哲学というよりも心理学ばかりやっていて、哲学にのめり込んでいたとは言えない。

 

私が初めて読んだ哲学に関する本は「ソクラテスの弁明」という薄い、定価でも200円程度の薄いものだった。

 

内容は古代ギリシャソクラテスが青年を惑わした罪人として法廷に立ち、そこで完璧な論理を使い自らを弁護したにもかかわらず、死刑判決を下された時の様子を記したもの。

 

あの本の中で主張されていた非常に重要で、非常に素朴なソクラテスの意見とは、Aについて知っている人の方が、Aについて知らない100人よりもAについて正しい意見を持ち、行動が取れるという事だった。

 

Aにはたとえば青年が当てはまるだろうし、薬学、血を抜いてくれる整体、伝統芸能、ピアノ、執筆を入れてみても良いだろう。

 

私は薬学部に通っている友人よりも伝統芸能に詳しいけれど、薬学については明らかに彼女の方が詳しい。

 

だから、伝統芸能ならば私の方が正しい知識を持ち、行動が取れると考えて間違いないし、薬学ならば彼女の方が正しいのだ。

 

ソクラテスは素朴だけれど、とても大切なこのことを主張して陶片裁判によって死刑を下された。

 

悪法も法なりとして、ソクラテスは逃げ出せた状況にもかかわらず、毒を煽り生涯を終えたのだ。

 

ソクラテスにとって肉体とは魂の牢獄であり、彼は死を待ち侘びていたらしい。

 

魂は純粋に善なるものを志向しているのにもかかわらず、肉体には食欲、性欲、名誉欲などの欲望がすぐ宿り、それに翻弄されてしまう。

 

善へと向かう魂は、欲へと向かう肉体という牢獄に閉じ込められているのだから、そこから解放されるのは喜びなのだと本気で信じていたそうだ。

 

これはソクラテス独自の発想ではなく、ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスが、自ら創設した教団の中で主張していたものを踏襲したものらしい。

 

私はソクラテスの弁明を読んだその時から、哲学の虜になってしまったのだ。

 

何という雄々しき生き様だろう、と感動したし、善なるものを求め続ける気高さのようなものを、あの本から感じ取っていた。

 

当時、どれほど大人数から否定されようとも、2500年以上も世界中の人から敬愛されるほど、十分な魅力を持っていた人物こそ、ソクラテスだったのだ。

 

生死、善悪、美醜、真偽という全ての物事の基盤となっているものが何かを突き止めようとする試みこそ、哲学の醍醐味であり、さらにそこに納得出来る答えなどないという事実も既に分かっている。

 

それでも私は生死について考えてしまうし、それを止めようとも思えない。

 

気になって仕方がないのだ。

 

私はなぜ生まれ、なぜいつかは死ぬと分かっているくせに生きようと思っているのか、その理由が気になって仕方がない。

 

私は人生そのものが仄暗く、陰気なものだと考えている。

 

以前ならすぐにでも死んでやりたいと思っていたけれど、今はそう思わない。

 

しかし、私の目に見えるものは相も変わらず霞が掛かっている、判然としない。

 

その割に諦めきっているというわけでもなく、好機とみれば行動を起こしている時もある。

 

私は人生の中にある濁流に飲まれ、それに翻弄されているのかもしれない。

 

時に流れをうまく掴んで、上手に泳いでいるように見える時もある。

 

しかし、それは結局のところ吉野弘が言ったように、落下しているのに飛翔していると信じている状態に過ぎない。

 

人はこれでもかと堕落を続ける人生を歩むしか、生きる道を用意されていないのだ。

 

そんな人生に何の意味があると厭世的になるのだけれど、それならばなぜ私は努力を続けているのだろうか?

 

勉強も運動も稽古も、おそらく人並み以上にやっている。

 

人生が汚濁に塗れ、手に入れたものを全て失う結果になると分かっているのに、なぜこうした努力をしているのだろうか。

 

最後に大好きな詩を載せておこうと思う。

 

ドラッガーが晩年にしたためたものらしい。

 

もう一度人生をやり直せるなら・・・・

 

今度はもっと間違いをおかそう。

 

もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。

 

絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。

 

この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

 

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。

 

もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。

 

もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう

もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。

 

もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。

 

もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。

 

もう一度人生をやり直せるなら・・・・

 

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。

 

私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?

 

自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・

 

もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。

 

人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。

七情

かなり前からアリストテレスのニコマコス心理学や、孔子の中庸の話に惹かれている。

 

こじつけかもしれないけれど、私が今東洋医学や東洋の占いについて勉強をしているのは、この影響だと言っても良い面がある。

 

要はバランスを取れと言っているのだ。

 

たとえば、平穏な時には乱暴者として扱われている人であっても、戦時には勇敢な兵士として扱われる。

 

たとえば、平穏な時には優しい人が、戦時には臆病者だと罵られる。

 

どんな時でも優しければ良いわけではないのだ。

 

どんな時でも勇敢であれば良いわけではないのだ。

 

私たちの眼前に広がる世界は、1秒として同じ相貌をしていない。

 

細かく言えば私たちの体を作っている細胞は、毎秒細胞分裂のどこかの段階にある。

 

この細胞分裂の流れが止まらないという事は、つまり私たちの体は生まれてから死ぬまで変化し続けるという意味なのだ。

 

私たちの体ですら、諸行無常の流れに絡めとられている。

 

体に英気が充満しているのであれば何かしらの行動を取るのが良いのだろう。

 

憔悴しているのであれば休むのが先決になる。

 

人生というのは結局のところ、バランスをいかに取るのかという点に掛かっているのではないか、と私は思っている。

 

絶対的な善がない以上は、その都度その都度これが次善なのではないかと見当を付けながら、私はこれからも何か行動を起こし、失敗してそこから学んでいくのだろう。

 

とことん疑った方が良い状況、相手もいるだろうし、騙されても構わないと全く疑わずに接した方が良い人や、状況もあるのだ。

 

相手によって態度を変えるという意味になるけれど、これは決して長いものに巻かれろという意味ではない。

 

人生は1秒として同じ状況を用意してはくれず、経験は未来に対して答えではなく、参考にしかならない。

 

人は誰しもが正解かどうか分からない道を歩かざるを得ず、失敗を山のように重ねて死へ向かっていくのだ。

 

その有様は当事者からすればたまったものではないけれど、傍観者として見れば悲ししくもあり、楽しくもあるだろう。

 

人生とはまさに悲喜劇なのだ。

 

少し話がずれるけれど、私は東洋哲学でいうところの金の属性であり、対応している感情は悲、憂である。

 

私に最も近い感情は悲しみであり、憂鬱なのだ。

 

その理由は真実を見る傾向にあるからだとされている。

 

真実は誰にとっても苦しく、辛いものであり、希望など稀にしかない。

 

それを見てしまいやすい性質にあるからこそ、私は悲しむ事が多いし憂鬱になってしまう。

 

ちなみに東洋哲学では七情と言って、怒る、喜ぶ、驚く、思う、憂う、悲しむ、怖がるという感情がそれぞれの性質に対応している。

 

五行学説で生まれた日から計算出来るものだから、興味がある人はネットで調べてみると良いかもしれない。

 

木が怒り、火が喜び、驚き、土が思う、憂う、金が悲しむ、憂う、水が恐怖、驚きの感情を持っている。

 

相当話が脱線したけれど、私はよく何かしらについて憂いている。

 

人生を明るく、楽しく生きようとする人たちが多い中で、私は常に日陰を探しているのだ。

 

私は私の日常を壊すものを、どこまでも避ける傾向にあるらしい。

 

日常を壊すものというのは、心を乱すものと言い換えても良い。

 

制御できないほどの喜びを与えるものも、苦しみを与えるものも、私は全て嫌っているのだ。

 

過剰な喜びは急激な喪失感を与えるし、激しい苦しみはまた戻って来てしまったのかと精神の四肢を脱力させる。

 

楽しい事も苦しい事も、穏やかなものであればそれで良い。

 

私はもう良い思いをしなくても良いから、懊悩の世界に戻るのだけは避けたい。

 

人生は苦しみの連続であり、それに耐える道しか私には見付からない。

 

もういい年をした大人になったのだから、うまく隠せるようになったけれど、私の中身など自殺未遂を繰り返していた当時から、何も変わってなどいない。

 

苦しくて仕方がないわけではないけれど、人生に喜びを見出そうなどとは思えないのだ。

 

激しく脱線した記事になってしまったけれど、これ以上支離滅裂にならないようにここでやめておこう。

デイジーは有能

以前から思っていたことだけれど、人の人生には自由なるものがあるのだろうか?

 

私が今言っているのはいわゆる「自由」の事であり、たとえば望むような人生を歩む事が出来るという類のものだ。

 

私はこれが嘘だと思っているのだ。

 

どう考えても望んだように生きる事は不可能であり、それを認めるのは充実した人生を歩むために、大変重要だと考えている。

 

言葉にすると陳腐だし、現代を生きる人間がそんな前近代的な発想でどうするのか、と呆れられてしまうかもしれない。

 

たとえば、生まれ持っているものは選べない。

 

顔も性格も身長も運動神経も視力も聴力も、何もかもが既に与えられている状態で生まれて来るのだ。

 

世界とはつまり自己の感覚を通じて感知する範囲に収まるものなのだから、感覚とは世界そのものだと言って良い。

 

つまり、私たちは世界観を既に与えられて生まれている。

 

そして、その世界観から抜け出る事がないまま、瞑目する時を迎えるしかないのだ。

 

既に与えられている世界観の中でだけ生きている様のどこに、自由なるものがあるというのか。

 

既に制限されているのに。

 

それが悪いとは思っていないし、むしろそれで良いと思う。

 

いくら自由だと盲信する人であっても、空を歩く事は出来ないし、深海で生活を送る事も出来ない。

 

私たちは「出来る範囲内」「選択肢が許す範囲内」で生きているだけであり、それは自由とは言わない。

 

さらにその選択肢を選ぶ時の動機は無条件ではなく、選択肢にすら条件が課されている。

 

たとえば、どれほどお腹が空いていても定食を5つ平らげる事は難しい。

 

自分自身がどれほどの食事を取れるのかという条件によって、頼める量が決まって来る

 

また食事に払える金額という制限もある。

 

本当は2つの定食を頼みたいけれど、お金がないから1つにしよう、という感じに。

 

これを細分化して考えていくと、空腹を満たしたいならそれほど食べたくはないけれど、量が多いものという選択肢になるし、アレルギーのものが入っていればどれほど食べたくても頼めない、という事も分かって来る。

 

最終的に私たちは条件によって「選ばされている」のであり、自由に「選んでいる」のではないと気付くのだ。

 

人生はまさにこうしたものの連続であり、全く自由などというものからは程遠い。

 

繰り返しになるけれど、私はそれで良いと思っている。

 

自由という言葉は往々にして欲望の隠れ蓑になっているのだ。

 

あれが欲しい、これが欲しい、こうしたい、ああしたい。

 

そうした欲望を制限する情動を、自由という耳触りだけが良い言葉が駆逐していくのだ。

 

人は自由なのだ、望む事は善なのだと思い込むと、いつの間にか欲望は叶えられるべきもの、叶える事が幸福な事だと感じるようになる。

 

手に入らないものでも簡単に望むようになり、手に入らないものが手に入らない事によって深い絶望感を覚えてしまう。

 

身の丈を知る、分相応というのは嫌な響きかもしれない。

 

しかし、それは自己防衛として役立つ感覚であり、自分自身が地に足を付けて過ごすために重要な心構えなのである。

 

私には何が出来て、何が出来ないのか。

 

それを知る事がとても重要なのだ。

 

夢は大きく、と言うけれど、そんな必要はない。

 

出来る事が大規模になってくれば、自然に夢が大きくなっていく。

 

その大きな夢を咀嚼し、消化出来る器があってこそなのだ。

 

いくら栄養満点だからと言って、赤ん坊に蜂蜜をやるとどうなるのか。

 

栄養価がそれほど高くなくても、赤ん坊にとって十分なだけの栄養があればそれで良い。

 

自由の概念は過剰な栄養、つまり毒となって働くのだという事を忘れないようにしたい。

 

さて、私はダウントンアビーの続きを見なければいけない。

 

なぜなら、我が愛するデイジーがパットモアさんと喧嘩をしているから。

 

デイジーは有能だから、そろそろキッチンメイドを卒業したいんだってさ。

マシューは事故って死んだらしい

無事に原稿の納品が終わったので、今日はいつもなら書かないような話をしてみたいと思う。

 

お金にまつわる話、経済とは何かについて思っているところをまとめてみたい。

 

経済学と言えばいくつもの数理モデルを駆使して、演繹的に答えを導き出されるいわば自然科学のようなものだと思われる事が多い。

 

しかし、実際には社会科学であり、計算で答えを導き出す事が出来ない分野なのだ。

 

さらに厄介な事に現実にはいつでも不確実性というものが付きまとう。

 

たとえば、関東大震災が明日来るかもしれないし、このまま50年来ないかもしれない。

 

未来は決して予測できるものではないのだから、計算の土台となっている前提がないという話になるのだ。

 

つまり、金の動きも予想は出来ないという事になる。

 

では、なぜ様々なモデルが生み出されるのかと言えば、そうしたモデルがあると仮定した方が儲けられる人たちがいて、そのプロパガンダのようなものとして使われる事が非常に多い。

 

計算によって導き出せる答えがある分野に、扇情的な情報など必要なはずがない。

 

この事からも経済学は自然科学ではなく、社会科学であるという意味がよく見て取れる。

 

さて、経済学が計算によって成長するものではなく、人の情緒によって予測不可能な動きを見せるという事が分かったところで、本題に入って行きたい。

 

経済とは元々経世済民という四字熟語を短縮したものである。

 

世を治め、民を救うという意味の言葉で、熊沢蕃山という江戸時代の人物が唱えた言葉。

 

その言葉の本義を考えるのであれば、経済学は世に人に資するものでなければいけないのだ。

 

経済の状態を景気と呼ぶけれど、この気はまさに気分、気持ちの気である。

 

人の気持ちによって経済は動いていくというのは良い表現だ。

 

たとえば、一万円というのは紙の別名なのだけれど、なぜ紙に一万円分の価値があるのだろうか?

 

その価値があると人々が信じている間は、一万円札にはその価値が与えられる。

 

その価値がないと思われた瞬間に、同じ紙で交換出来るサービスやものの量が減り、質が劣っていく。

 

金の価値が減り過ぎればインフレに、減り過ぎればデフレになる、どちらも不景気。

 

一万円の紙の質が変わったわけではなく、人の価値観が変化しただけで景気が良くも悪くもなる。

 

堅苦しく言えば経済とは思想の事なのだ。

 

どのような世界観を持っているのかという点と、望ましいと考える世の中の形は必ず似通ってくる。

 

たとえば、自由を追い求めれば政府のように強力な力を持つ機構は、邪魔立てするものになる可能性が高くなる。

 

よって、政府は必要最低限の事をやれ、民間に口を出すな、貧乏人は自己責任、金持ちになりたいのなら結果を出せ、努力が報われると思うな、自己責任なのだから、という風潮になる。

 

今の世の中はこの状態である。

 

勝てば官軍負ければ賊軍という考えが、あまねく浸透しているのが現在の日本であり、世界の趨勢なのだ。

 

そこに人としての誇りや矜持は塵ほどもなく、稼ぐ金=人の価値に成り下がっているのだ。

 

繰り返すが、経済は思想である。

 

思想である以上は概念であり、絶対的な答えではないのだ。

 

恐ろしい事に勝てば官軍という流れが世界の趨勢になり、それに対する強い反発としてトランプのような人物が台頭してきた面がある。

 

世界平和も人類平等も素晴らしい考えだけれど、まずは自国の平和、身の周りの公平の方が遥かに大切なのだ。

 

それがおそらく人として当然であり、冷たいのではなくそのようにしかならない。

 

喉が渇ききっている時、自分の募金で飢えを満たした子供がいるという事実よりも、コップ1杯の水を求めるのが自然なのだ。

 

そこに善悪はない。

 

経済の話から相当外れてしまうけれど、明治以降この方、日本は進む道を大きく誤ったのだ。

 

勝てば官軍と言うのは日本人的な思想、精神性から程遠い感覚ではないか。

 

国破れて山河在りという感覚、誇りさえ守れば負けたとしても後に続く人が現れる、自己の生の儚さなどを魂に刻み込んだ日本人が、勝てば官軍などと口にするようになれば、もう世も末である。

 

日本人の精神性をなくしてしまえば、日本列島に住む単なる人なのだ。

 

経世済民を唱えた熊沢蕃山が、今の日本を見たらどれほど嘆く事だろう。

 

結果ではなく過程を重視するのであれば、勝てば官軍などと口にする事の愚かしさを実感出来るはずなのだ。

 

もちろん、勝負事に関してはそこまでシビアな感覚が必要だと分かっているけれど、何をしてでも勝とうと思えば、この世は地獄になる。

 

いや、この世が既に内包している地獄的な面が強調される。

 

結局、この世は地獄であるという事実を隠し、見ない振りをする事によって成り立っている。

 

経済の話から非常に離れてしまったけれど、今日はここらへんでおしまいにしたい。

 

なぜなら、ダウントンアビーの続きを見たいのだ。

 

戦争で生き残ったマシューに子供が生まれ、その喜びで有頂天になり脇見運転をしていたら事故って死んでしまったらしいんだよ、嫁もびっくりの展開だわ。

マシューが帰って来たらしい

ずっと更新したいと思っていたのだけれど、受験勉強やら仕事やら伝統芸能の舞台の準備やらで、ゆっくりとブログを書く余裕がなかった。

 

そんな前置きはどうでも良いのだけれど、今日は何を書こうかと思っていると、ふと思い出した事があるので、その記事を書いてみたい。

 

社会や犯罪などに関する論文を読んでいた時、ある行為が犯罪だから非難されるのではなく、ある行為が大勢に批判される事によって犯罪になっていくのだ、という内容の記述を目にした事がある。

 

たとえば、昔は電車内でタバコを吸う事も許されていたそうだ。

 

私が大学生の頃までは駅のホームに灰皿が置いてあった。

 

しかし、現在電車内でタバコを吸ったとすれば、間違いなくツイッターフェイスブックなどのSNSに晒しあげられて、ともすると殺人犯よりも酷い非難の的にされるかもしれない。

 

犯罪ではないけれど、犯罪「的」な行為として指弾されるのだ。

 

結局、人の世は情緒によって支配され、動いている。

 

気に入らないという感情がまずあり、その鬱憤の体裁を整えて正当な主張のように見せかけるのが理屈というわけなのだ。

 

結局のところ、人は感情から逃げる事が許されないし、それが出来れば人ではなく機械になるのだろう。

 

感情がなければ感動する事もないし、楽しむ事も出来ない。

 

それは確かにそうだし、よく分かるのだけれど、やはり邪魔なもののように思えてしまう。

 

楽しい事はそれほど多くなくて良いから、怯懦や憤怒からも解放されたいと思ってしまう。

 

少し脱線したけれど、つまり世の中で言われている悪というのは、結局のところ多数派の意見という意味なのだ。

 

大勢が批判していればそれが悪いものに思えるし、少数であれば黙殺して構わないとどこかで思っているのだろう。

 

最近は、と言うよりも生まれてからこの方ずっと人間関係が煩わしくて仕方がない。

 

偉くならないと意見が通らないというのは、確かにそうなのかもしれないし、多数派にならなければ身の安全が保障されない、というのも理解出来ないわけではない。

 

しかし、自分の意見を通すのは善だという命題を果たすため、地位を上げようとする時に周りを押し潰すような真似が許されるのかどうか。

 

誰のために、何のために地位を上げ、己の意見を通そうとしているのかが不明瞭になるとは思わないのだろうか。

 

多数派になれば身の安全が担保されるわけでもない。

 

どこにいたって、何をしていたって安全などとは言い切れないのだから。

 

多数派に所属する事で安全だと錯覚する事が出来たとしても、やはりそれは錯覚でしかない。

 

どの立場だろうが、仲間の数がどの程度であろうが、やるべき事は何も変わらないのだ。

 

変わるのは概念としての部分で、それはたとえば社会、たとえば国家、たとえば世間体やいわゆる「普通」などと呼ばれている。

 

偉くなったら「みんな」の見る目が変わる、とか。

 

味方が大勢いると強くなった「気がする」とか。

 

実際には偉くなった自分を見る「自分の目」が変わっているだけであり、味方が大勢いると自らの欠点を省みる謙虚さを失い薄ら寒い安心感を得て、それを強さと勘違いしているだけなのだ。

 

何も変わっていないにもかかわらず、変わったように感じて行動を間違える、判断を誤る。

 

あの行為は犯罪的だ! と指弾していた人たちが間違った瞬間、周りにいたはずの仲間が雲散霧消するのが世の常であり、その良い例がネット上で散見される。

 

もちろん、ネット上だけでなく身の周りで良く起きる事なのだ。

 

勘違いや膨張したエゴを満たすために、特定の誰かを的に掛ける。

 

それがイジメなどに繋がり、たとえば相手が自殺などしようものなら、誰も悪くない場所まで引き下がろうとするのだ。

 

よくイジメを題材にした小説では、自殺したイジメられっ子の事を思い、イジめた側の人物たちが命の尊さを知っていく、という流れがあるけれど、実際にそんな事が起きるはずがない。

 

都合の悪い事は忘れるように出来ているのが人間であり、イジメで人を死に追いやった過去を隠そうと試みるだろうけれど、正面から向かい合う人間がいるとは思えない。

 

もちろん、2,3週間くらいは反省するのかもしれないけれど、結局のところ「自分の」運が悪かったで済ませてしまうのだろう。

 

そう思うと自分も含めて人間は、多くの不条理を抱え、それをいちいち正当化させて生きている事がよく分かる。

 

幸い、私は多数派に所属する事が少ないので、多数派や「普通」などの足を掬われやすい概念から遠ざかっている時が多い。

 

しかし、少数派に慣れてしまうのも困ったものなのかもしれない。

 

理解された時の反応に困るからだ。

 

理解されない事が当然だからこそ、理解や共感を示してもらうと硬直してしまう。

 

嬉しくもあるのだけれど、いまだに対応が分からなくなる事があるのだ。

 

きっとこれは一生続くのだろう。

 

取りとめもない記事になってしまったけれど、今日はここで終わりにしてダウントン・アビーというイギリスのドラマの続きを観よう。

 

マシューがね、戦争から帰って来たんだって、遂に。

ぷっぷくぷー

最近は四月にある受験勉強へと向けてずっと薬膳に関連する事ばかりしているので、物書きとしては落ちぶれつつある。

 

指の体操のためにも無理やり記事を更新しなければならないので、ざっくりとした世界の話をしてみたい。

 

トランプ大統領が誕生してアメリカファーストという言葉が世間で乱舞している。

 

アメリカの大統領がアメリカを第一に考えるというのは、あまりにも当たり前過ぎているのだけれど、これが強く支持されるという事はつまり、これまではアメリカが第一ではなかったと感じる国民の多さを証明している。

 

世界の警察を自称していたアメリカもアジアから米軍を引き下げざるを得ないほど金がなくなり、日本は自分で自分を守らなければならない国へと変化している。

 

ありきたりな右っぽい話に入って行くつもりはないので、ここで注目する点を変えてみたい。

 

つまり、アメリカに金さえあれば米軍をアジアに駐留させる事が可能だった、という意味でもあるのだ。

 

なぜ世界的にこのような不景気なのかと言えば、最近読んだある本によると経営と営利が分離した事による弊害が極まっているからだという事だ。

 

株式会社が生まれた時から、今のような状況が生まれるという問題意識を持っていた慧眼を持つ人物がいたらしい。

 

以前までは経営者が経営をし、組織の中長期的な成長を目指して方針を打ち出す事が出来たのだとか。

 

しかし、企業は株主の所有物としてみなされ、配当をどんどんと釣り上げた結果として、組織を中長期的に成長させるために経営と、目先の利益だけを求める営利とが分離していく流れが生まれた。

 

つまり、企業は株主に配当を与えるためだけの組織へと成り下がり、株主はそれが我々の権利なのだと肩で風を切り、企業から搾れるだけ搾ろうと傲慢になる。

 

さらに株主は今すぐに利益が欲しいのだから、企業が潰れようがどうしようが頓着しない。

 

企業の財産を切り売りさせてまで配当を求めていくのだ。

 

投機にそこまで金を注ぎ込める大金持ちはさらなる金持ちになり、多くの国民のようにそこまで富裕でなければ搾取される対象にしかならない。

 

たとえばFXなどのように投機には、参加者が多ければ多いほど良い。

 

儲けるチャンスが広がるのだ。

 

だからこそ、FXのCMがこれでもかと流されたり、資産運用云々と喧伝されるのだ。

 

端的に言えば他人の財布に手を突っ込み、どれだけ多くを奪えるのかという闘争が行われている。

 

契機が悪くなっていくと人は警戒心を強くするのだから、金を搾り取る事も容易ではない。

 

だからこそ、混乱を起こし社会や生活を不安定化させる。

 

不安定な状況、混乱している状態では冷静な判断力を失いやすい。

 

つまり、金を搾ろうとする側からすれば、それが好都合なのだ。

 

富とは生み出すものであり、他人の分を奪い取り、誰かを貧困化させて自分だけが勝ち残るというイカサマの別名ではない。

 

結局、世界は富を生み出す事はなく、他人から奪えるだけ奪おうという下卑た精神によって、不況の最中にあるのではないか。

 

現在日本はデフレと呼ばれる不景気によって苦しんでいるけれど、デフレがもたらす最大の悪影響は憂鬱なのだと言われる事がある。

 

閉塞感から身動きが取れなくなり、活動が縮小していく事によってさらに金が回らなくなりさらに心身が固くなっていく、という悪循環。

 

恐ろしい話なのだけれど、現在世界中で起きている事はこういう事態であり、出口はトランプが握っている可能性がある。

 

端的に言えば、世界中の人々が幸福になる前提として、私が幸福でなければならない。

 

国単位で言えば隣国よりも、まずは自国の事を優先して考え、自国民を潤わせる政治家がいなければならない。

 

現状では世界で最強の軍事力を持つ米国こそ、世界を牛耳る国であり、その大統領であるトランプは世界最強の権力者となった。

 

トランプが自国を最優先しようと言うのなら、もう流れは変わっている。

 

さて、まだまだ書き続けたいのだけれど、出掛ける時間が来たので今度また。