私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

夏目漱石の紹介文

最近になって私は自分の人生がなかなか捨てたものではないかもしれない、と思う時が多くなってきた。

 

もちろん、いつまで経っても仄暗い世界観は消えないのだけれど、そこに感情が引き込まれる事がなくなってきたのだ。

 

以前までは暗い世界観の中で絶望的なものを感じてしまうと、どうしても気持ちまで奈落へ落ちていくような気持ちになっていた。

 

しかし、今はこの位置から気持ちが動く事なく、ただ仄暗い世界を見れるようになってきたのだ。

 

暗い事を考えても気持ちが揺れ動かないのは、本当にありがたい事だ。

 

いつまでも考えていられるし、疲れない。

 

それに考えるのを止めれば、いつでもその世界観から解放される。

 

PTSDが治ったという事もあるだろうし、年齢が精神に凪をもたらしたと思えなくもない。

 

何にせよ、私は今の状態を気に入っている。

 

我が敬愛する夏目漱石は人生は穴を掘っているようなもので、ツルハシがガツンと何かにぶつかるまで降り続けなければいけないのだ、と言っていた。

 

この何かというのはたとえば、自分の人生を懸けても良いと思える大切なものであり、自分の居場所、揺るがない自己評価などそういう雰囲気のものだったと思う。

 

これには条件も付いていたはずだ。

 

誰もがそうしなければいけないのではなく、草枕の冒頭にもあるように

 

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

 

というタイプはここだと思える場所、住みやすい場所が見つかるまでツルハシを振り続けなければならないと言っていた。

 

たとえば、普通に学校へ行って楽しく過ごし、恋愛やら友人関係で悩み、その苦しみを友人や家族、恋人などに慰めてもらいつつ就職をして、学生時代の経験をしっかりと生かした社会人になれるタイプには、ツルハシなど必要がない。

 

居場所はもうそこにあるのだから、地中に埋もれているあるかどうかも分からない朧気なものを信じて、自分が何者なのかを知る必要などないからだ。

 

だから、夏目漱石は講演の中でそんな必要がない人である事は喜ばしいと言っていたのだ。

 

しかし、学校へ行っても居場所がなく、友人に囲まれていても気持ちが落ち着かず、何をしていても精神が疼痛を発しているようなタイプは、つまりどこにも居場所がなく、自分の中にすら自分を置いておく事に抵抗を覚えるタイプの人間には、ツルハシが必要なのだと言っていた。

 

これだ、ここが自分の居場所だ。

 

そう思える何かが見付かるまで、ツルハシを振り続けるしかない、私のようにと夏目漱石は言っていたのだ。

 

とても辛い話ではあるけれど、こうした話をしっかりと噛み砕き反芻する事が出来るのは、それだけ私の精神が落ち着いている証。

 

それが嬉しいと思うのだ。

 

以前であれば夏目漱石が感じたであろう辛苦の一部が私の中に入り込み、それに翻弄されて疲労困憊していた。

 

もちろん、今でもそうなってしまう時が全くないわけではないけれど、気を付けていれば飲み込まれずに済む。

 

夏目漱石はストレスで800mlもの吐血をして、生死をさまよった経験を持っている。

 

明治から文明開化と称して日本が金儲けに奔走し、西洋風の強欲が日本をあまねく侵食していく中で、夏目漱石はまさに精神を摩耗させながら生きたのだ。

 

煙突から上がる煙が「もっと金が欲しい」と言っているように見える日常の中で、彼は苦しみ続けた。

 

私は彼ほどの哲学者ではないにせよ、何となく共鳴している部分があると思っている。

 

私も私の信頼している先輩も、V・フォー・ヴェンデッタが好きな薬学生の友人も、みんな疲れている。

 

もしかしたら、私たちはツルハシが必要な少数に属するタイプの人間で、だからこそ疲れているのかもしれない。

 

普通の人が当たり前に与えられている居場所や、健康的な自己評価がなく、それを見付けるためにツルハシを振り下ろし続けているのだから、疲れていない方が不自然なのだ。

 

夏目漱石は金にとことん無頓着だったらしい。

 

妻が小遣い袋にお金を入れておくと、いつまでもそのお金が減っていかない、という話もあった。

 

彼は国から勲章を与えられた時、勲章をやるからありがたく頂け、という態度に苛立ち、頑として拒絶した人だ。

 

さらに話が面白いのだ、講演集の文字起こしを読んでいるだけ笑えるのだから、実際に聞いていたら爆笑できただろう。

 

お暑い中お集まりいただきありがとうございます、こんな暑い日に狭い場所に集められて、皆さまさぞかし不愉快だろうとは思いますが、それはこちらとて同じ事なのですからお互い様です、お互いの利益のためにさっさと話して終わりにしてしまいましょう。

 

そんな事を言ってから講演を始めるのだから、彼は相当面白い。

 

夏目漱石の紹介記事みたいになってしまった事を反省しつつ、今日はここらへんで終わりにしておく。

諦念

最近、よく穏やかになったとか、感情を出すようになったと言われる。

 

これまでと最近で変わった事は、諦観しているという事だ。

 

何についてという具体的なものはなく、ただただ漠然と諦観している。

 

知識についても技術についても、人に対しても自分に対しても。

 

絶望感とまではいかないけれど、全てのものは空蝉の中にあり、虚構であり虚像なのだと思うと、熱意や情熱が静かに冷えていく。

 

ただ淡々と毎日が過ぎているので、感情の起伏が少なくなっているのだけれど、そうなると感情が出ているように見えるらしい。

 

ありきたりな表現になるけれど、私は仮面をつけていてその下に隠れている素顔が誰にも見えないような感覚がある。

 

それが嫌だというわけではないし、居心地の悪さがあるという事でもない。

 

むしろ、この感覚には慣れている。

 

小さい頃から感情を隠す事がうまかった。

 

人は決して自分を見る事がないのだと思うと、色々な物事を割り切れるようになっていった。

 

諦めていたと言った方が適切かもしれない。

 

だから、諦観を強く滲ませたまま生活をするのは慣れている。

 

それならそれでそっとしておいて欲しいと思う事がある。

 

感情がよく分かるようになったと言われてしまうと、執着心がなくなってしまうのだ。

 

生きている事への執着心が。

 

死にたいわけではない。

 

別に死んでもいいか、と感じられるのだ。

 

それが悪いとは言えなけれど、私としてはいよいよ居場所がなくなってきたかなと思ってしまう。

 

そもそも、私に居場所などあった時期が存在したのだろうか?

 

いつになっても、どこへ行っても私には居場所がない。

 

よく人生は旅だとか、刺激を求めようとか、変化を起こそうなどという話を耳にするけれど、こっちからすれば御免被りたい。

 

旅をする事によって何かを得られるのは、帰る場所があるという前提だ。

 

刺激が良いものに感じられるのは、絶対に揺るがないものを持っているという前提だ。

 

変化が起きても耐えられるのは、何かあれば守ってもらえるという安心感があってこそなのだ。

 

そういうものを持っていない人間はまず前提から作らなければならない。

 

帰る場所を作り、揺るがないものを見付け、自分を守れるだけの力が必要になる。

 

家を作っている時に台風が来るというのは刺激や変化だけれど、それが良い事なはずはない。

 

話が脱線してしまったけれど、今の私は今まで通り宙に浮いているような状態なのだ。

 

仮面をつけているような感覚があると書いたけれど、ではその仮面を外せるのかと言えばそうではない。

 

例えるのなら、私の顔面を覆う仮面は皮の下にある。

 

外そうと思っても外せないもので、貼りついているのではなく、私の一部となっているのだ。

 

笑っている仮面だとすれば、本当の私が泣きたいと思っても、その笑顔が消え去る事が永劫ない。

 

怒っている仮面であれば、誰かを励まそうと思って近付いても、あちらの方から避けられる。

 

私がこの仮面を外すためには、顔面に激しい衝撃を自分で与えて砕くしかない。

 

自分諸共、破砕するしかないのだ。

 

もちろん、そうなれば私の素顔も同時に瓦解する。

 

結局のところ、私は仮面と共存するしかない。

 

どのようにしても、私の素顔が人から見られる事などないのだから。

 

これが諦観を生んでいる元凶のような気がする。

 

さらに悪い事に、こういうタイミングでは良からぬ異性からの良からぬ誘いがあるものだ。

 

もちろん断っているのだけれど、私がそう簡単に浮気をするような男だと思っているのだろうか。

 

なぜ女は構ってもらおうとする時、自分の性別を武器にするのだろう。

 

なぜ内面で勝負を賭けて来ないのだろう。

 

そのくせ遊ばれたと嘆いてみたり、男は体にしか興味がないと毒づいている事がある。

 

遊ばれたくないのなら、遊びに誘わなければ良い。

 

体に興味を持たれたくないのなら、肉体関係を望まなければ良い。

 

私はきっと、普通の男ではないのだろう。

 

そういう事で満たされたり、慰められるタイプではないのだ。

 

私が求めているのは、仮面によって出来た顔面の強張りを取ってくれる何かであり、それが肉体関係ではない事は明白だ。

 

今日も私にはぼやけた、自分の声がやかましく響く、居心地の悪い世界が広がっている。

 

そんな日々を過ごしているから、イルミネーションのLEDが小さいジェイソン・ステイサムになっている夢などを見てしまうのだ。

スマホから更新

スマホから更新している時は必ず短文になる。

 

 スマホの扱いはいつまで経っても慣れないものだ。

 

キーボードならいくらでも作れるけれど、こうやってスマホで文章を作るのは難しいし、手間がかかる。

 

結論はいつでも同じ、世の中は虚しいということだ。

 

何を考えても、見ても、聞いても、触っても。

 

私は虚構の中で生きているし、私の周りは霞ばかりだ。

 

それなのに感情だけはいつでも、これでもかと現実味を与えてくる。

 

人と触れ合う事を嫌うのは、親からの愛情が不足したまま育ったからだと言われた。

 

人肌から感じるあの熱は、いつでも私を解離させたし、激しい拒絶感を与えてきた。

 

虚構の中にいるはずなのに、私は今ここにいて、明日も多分生きている。

 

死と生、無と有がない交ぜになった、不思議な場所で明日も息をするのだろう。

 

全くどうでも良い事だけれど、トランスポーターをBGMにしてブログを更新するのが、なぜか贅沢な気がする。

美しいもの

迷ってしまう、というよりもどの道も袋小路に繋がっているような、そんな感覚が消えなくなったのはいつからなのでしょうか。

 

特に不快感や絶望感があるわけではないのですが。

 

人には全ての可能性が与えらえているという話があります。

 

大雑把に言ってしまえば制限しているのは自分自身なんだよ、という話です。

 

ですから、もっと自由に活発に行動できるようにしていきましょう云々と話が続くのです。

 

この話を否定したいわけではありません。

 

自分を制限している自覚が、私にはあるからです。

 

こうした流れの話では、おそらく意図的に社会性が捨象されているのではないかと感じています。

 

shouldやmustという概念こそが、自分に制限を掛けている発想の元凶だからです。

しかし、どれほど多くの選択肢を与えられていたとしても、電車に乗るのなら列に並ばなければなりません。

 

どれほど自由だと思っている人であっても、商品を盗む事は許されていないのです。

 

特定の誰かを利するためではないけれど、全体や社会という概念は個人の自制心によって価値あるものであり続けます。

 

もちろん、時としてその自制心を捨てる覚悟を持たなければなりませんが、それは自分勝手に振る舞って良いという意味にはなりません。

 

個人としてだけ人を見るのであれば、自由という概念はとても健やかなものに映ります。

 

しかし、全体の中の一部、連環の一つとして人を見るのであれば、自由の概念は大変危険なものでもあるのです。

 

隣の人が次にどう動くのか全く予想が出来ない状況下では、人の心が緊張や不安を滲ませます。

 

不安や緊張が集まった結果、無理やりにでも理解できるようにするために、より窮屈で統制ばかりの社会を望むようになるのです。

 

自由を求め自由に行動した結果、社会全体から抑圧される結果を生むというのは皮肉なものだと思います。

 

自由で平等な社会が行き着く先は共産主義であり、国家社会主義なのです。

 

自由は素晴らしいという話の前提はあくまでも個人としての自己を見た場合であり、その自由な自己を持っている他人を受け入れる度量が、私にも他人にもないのでしょう。

 

人に選択可能なものなど本当にあるのかどうか、以前から大変疑わしいと思っています。

 

なるべくしてなっている面が併存しているからです。

 

今、この文章は私が作っていますが、私が作らされているとも言えます。

 

思い付いた事を気ままに書いて支離滅裂な文章にならないように気を付けながら、私は文章を作らされているのです。

 

また選択可能だと思っているものの全てと言っても良いほどに、制限を受けた結果消去法的に選択が出来る状態のものばかりです。

 

私は先ほどまで薬膳の勉強をしていましたが、整体や哲学、神話の勉強をする事も可能でした。

 

しかし、薬膳を選んだのは試験があるからで、完全な自由意志による選択ではありません。

 

自由だと思い込む事は出来ても、それは真実ではないのです。

 

それが私には悲しいし、はっきりとした答えが出ない事だけがいつも分かります。

 

それでも人前で何かを発言するのなら、無理やりにでも意見を構築しなければなりません。

 

落としどころのない話は世間話であって、人前でするものではないのです。

 

自由を賛美するためには社会性を重視しない事が前提で、規律を尊ぶためには個人にそれほど焦点を当ててはいけない、と暗黙の了解がなされているのかもしれません。

 

それはあくまでもポジショントークなのではないか、とも思います。

 

どんな恨み言でも綺麗事でも、本物ならばそれで良いのです。

 

私には真実や本物を判別する力がないので、本物っぽい、らしさがあれば、それだけで良いのです。

 

ポジショントークの全てを否定したいなどとは思いません。

 

私だってやっている事がいくらでもあります。

 

そのたびに心が重くなってしまって、どんどんと言葉数が少なくなっていくのです。

 

話せば話すほど、情報量が多くなればなるほどに、空洞化が進んでいるような雰囲気があります。

 

我が郷土が生んだ希代の作詞家、八木重吉は及ばずともこの世に美しいものがあると分かりさえすれば……と書き残しました。

 

その気持ちが痛いほど分かります。

 

最後にその詩を引用して、記事を終わりにしたいと思います。

 

わたしみずからのなかでもいい
わたしの外の せかいでもいい
どこにか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分かりさえすれば、
ああ、ひさしくも これを追ふにつかれたこころ

5年後の自分

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

 

5年後の自分に対して言いたい事を考えてみても、具体的なものが出て来ない。

 

だから、今の自分がが5年前の自分に訊いてもらいたい事を考えてみた。

 

それを参考に5年後の自分に訊いてみたい事を見付けよう。

 

5年前の自分というのは23才で、人生の中でもトップ3に入る絶望的な時期だった。

 

夢は砕けたし目標も瓦解して、ほとんど廃人のように過ごしていた3ヶ月があったのも、ちょうどこの時期。

 

さて、そんな時の自分が今の自分を見たらどう思うだろう?

 

自分だとは思えないはずだ。

 

あの頃の自分に今の自分が言える事は何もない。

 

だから、5年後の自分に言いたい事も見つからない。

 

年数にこだわらずに考えて見ると、私には人生の中で戻りたい時期がない事を思い出した。

 

ほとんどの人は戻りたい「あの頃」を持っているのだけれど、私にはそれが全くないのだ。

 

良い思い出はある。

 

しかし、その頃に戻してやろうと言われたら即答で断る。

 

どの時期にも苦労があって、今を乗り切ればと人生のどのタイミングでも思ってきた。

 

その頃に戻るというのは良い事だけではなく、悪い事まで戻って来るという意味になる。

 

せっかく乗り越えた艱難辛苦が舞い戻って来ると思うと、いよいよ首でも吊ろうかと思ってしまうのだ。

 

おそらく、5年後から見れば今もそうなのだろう。

 

10年後でもこれは変わらないと思う。

 

私の人生はこういうものなのだ。

 

ただ1つだけ5年後の自分に訊きたい事が見付かった。

 

子供がいるのかどうか、これだけは知りたい。

 

おそらくいるのだけれどどう思っているのか、どう感じているのかを知りたい。

 

自分が親になるというのは、どういう事なのかを教えて欲しい。

 

それだけが気になる。

もののあはれ

アメリカの大統領がトランプになって、あんな差別主義者が大統領だなんてアメリカの民度が知れた、なんて話を耳にするようになった。

 

差別主義者だからという理由で差別している辺り、差別反対を訴える人たちはツッコミ待ちなのだと思う。

 

この世から差別が消える事はない。

 

そんな美しい世の中は空想上にしか生まれないのだ。

 

差別を肯定しているわけではない。

 

晴れた日の空が青いのと同じで、そういうものだと思っているだけだ。

 

そもそも人は平等ではないし、平等ではない場所で扱いを平等にしようとすれば、それが必ず差を生み出す。

 

差が与えられる人と与えられない人は区別される。

 

与えられる人は与えられない人たちから妬みや嫉みを買うだろう。

 

与えられる人たちは自分の努力を根拠にしたり、世の中は平等に出来ていない事を主張して正当化する。

 

一生終わらない理解不能な溝が、これまでもこれからも続いていくしかないのだ。

 

差別をなくそうと言っている人の気持ちが分からないでもないけれど、人間やめますか? みたいな話になってしまう。

 

生まれた環境だって一つの差だ。

 

これまでしてきた経験も同じく差になる。

 

人生の中には選択不能な不幸や幸福があって、それによって上昇する人もいれば墜落する人もいる。

 

虐待という問題に関わって来てから、久しく時間が経った。

 

その中で虐待児を助けようとしている人と会う機会も、それなりにあったのだけれど、そういう人たちの多くは差別をなくそう、平等な社会を実現しようなどと謳っていた。

 

その実、虐待児に限らず弱い立場の人を守っている自分に、とことん酔っていただけだという事もよく分かった。

 

もちろん、そうではない人も少ないけれどいる。

 

しかし、たとえば虐待防止の活動に関わる事によって、就活に有利になるだとか、虐待防止を謳う団体の周知に奔走して、最も重要な虐待や虐待児に関心がないとか、そういう事が世の中に蔓延している。

 

結局は弱い立場の人を守るという体裁で、自分の価値を高めたいという事なのだ。

 

だから、差別はなくならない。

 

差別を肯定する人たちのせいだけではないのだ。

 

差別を否定している人たちですら、搾取出来る対象を見付ければ骨までしゃぶろうとしている。

 

差別が良いとは思わないけれど、差別をなくせと叫んでいるにもかかわらず無意識的に差別をしている人たちの群れを見ると、地獄というのはこの世の別名なのだと改めて痛感してしまう。

 

自分の力で生き抜くしかないと思うと、どうしても誰かを踏み台にしなければならない。

 

人より上に行くのなら、したくなくても必ずそうなってしまうのだ。

 

生きるという事は傷付ける事であり、傷付けられる事なのだと信頼出来る人が言っていた。

 

その連環から逃れる術を人は持たない。

 

その虚無感、焦燥感、絶望感を受け入れる事でしか生は持続しないのだ。

 

本居宣長が静かに訴えたもののあはれは、おそらくこういうものなのだと思う。

 

虚無や焦燥、絶望が深ければ深いほど自己が融解していく。

 

完全に融解した時に残る何か、心とも自己とも呼べない「存在」によって認識されるものこそ、もののあはれ

 

人生に救いを求めても、それは悲しみに変わるだけだ。

 

それでも生きている間は生きる道を歩く事になる。

 

今日も人生は暗いし、虚しいけれど落ち込んでいるわけではない。

 

そういうものだと思っているだけだ。

まほろ駅前多田便利軒

お題「何回も見た映画」

 

映画は本当に好きだから、何度も見た映画がたくさんある。

 

結局、思い付いた好きな映画の紹介になってしまうのだけれど、その前に最近は体調を崩す事が多くなった。

 

今も酷い風邪を引いていて、熱が高いし喉も痛い。

 

そんな時、何となく見る事の出来る映画が嬉しいものだ。

 

アクションやミステリーは元気がある時に、思い切り感情移入して見るから楽しいのであって、体調が悪い時に距離を置いて見てしまうと本当につまらない。

 

大好きなアクション俳優ジェイソン・ステイサムが単なるハゲにしか見えなかった時、熱がある時にはアクション映画を見ても楽しめない事を痛感した。

 

彼の名誉のために書いておくけれど、ステイサムは単なるハゲなどではない。

 

彼は動けるハゲであり、戦うハゲであり、スタントマンを使わないハゲなのだ。

 

つまりハゲなのだ。

 

そんな最近、よく見てしまう映画は「まほろ駅前多田便利軒」という映画。

 

邦画はあまり見なかったのだけれど、最近は何となく字幕を追う事にも疲れてしまい、邦画を見る機会が多い。

 

今、邦画を見る方が多い、と爆笑ギャグを飛ばそうかと思ったけれど、これ以上ファンが増えても困るのでやめておいた。

 

まほろ駅前多田便利軒は場末の街で便利屋を営む2人の話で、元々は小説なのだそうだ。

 

気が抜けた、それでいて鋭いトラウマの痛みが眠る空気。

 

何となく育った町に似ている雰囲気があって、すごく良いなと思ったらそれもそのはず。

 

なんと舞台になっている架空の街まほろ市は、私が生まれ育った町田市をモデルにしているらしいのだ。

 

育った町に雰囲気が似ていない方がおかしかった。

 

そんな奇妙な繋がりもあって、まほろ駅前多田便利軒は何度も見てしまう。

 

自己陶酔が行き過ぎている自覚はあるけれど、行天という登場人物がどうしても自分に被るのだ。

 

雰囲気といい、話し方といい、顔が男前でないところを除けば一致する部分が多いような気がする。

 

行天はニートを楽しめるらしいけれど、私にはそれが出来ないところも異なっている。

 

違いはその程度で、あのうだつの上がらない町の空気に馴染み、厭世的なのか楽天的なのか良く分からないあの雰囲気が、どうしても憎めないのである。

 

さて、まだまだ書きたい事はあるけれど、熱が上がって来たので寝る。