私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

現代版陰陽師

最近では計画通りに事が運ぶ試しがほとんどなく、目の前にあるものに関連して勉強をする方式に変えました。

 

移動中や予定がない日には予定していた通りに勉強すれば良いのですが、そうならない時には最近した会話の中で薬膳が出てきたら薬膳の、整体が出て来たら整体の勉強をしています。

 

早く哲学の世界に戻りたいと思っているのですが、なかなかそうもいかないのが現状なのです。

 

以前までなら計画した通りに進まない現状に苛立ちを覚えていたはずですが、最近ではいい加減な性格になったのかまぁいいや、で済んでいます。

 

仕方ないとはいえ、一貫性がなくてんでバラバラの勉強をしているのは効率が良くありません。

 

ですから、毎日どれも少しずつやるようにして、日によって重点を置く場所を変えています。

 

さて、そんな風に生活の仕方を変えたのですが、整体に関しては知識よりも技術力が重要になるものです。

 

本と向き合うよりも、体を触っている方が良いわけなのですが、毎日誰かと会って整体をして、というのは現実的に暇が取れません。

 

これでは技術力が上がらないので困ってしまうな、と思っていたのですが、まさに灯台下暗し

 

私も体を持っているのです。

 

しかも都合が良い事に坐骨神経痛やら肩こりやらで悩んでいる、整体向けの体ではありませんか。

 

こんなに良いサンプルを自分が持っていたなんて……と八月の夜空に我が感動の嗚咽が木霊し、高尾山の烏天狗が満月を背中に高笑いを上げ、八王子市内では恋人たちが愛の言葉をささやき合ったと言われています。

 

一週間前から就寝直前に30分程度の整体を自分の体にしています。

 

すると、どういう事でしょうか。

 

14歳の時、空手の稽古中に背骨が折れた時から始まった我が恐るべき腰痛が、二年前には1ヶ月も寝たきりになっていたあの腰痛が、あれよあれよと楽になるではありませんか。

 

人生の半分を蝕んでいた腰痛が、これほどあっさりと楽になるなんて驚きです。

 

ふぅむ、これは本当に信じられないくらいの効果ですね。

 

次はいつ寝たきりになるのか、という恐怖から解放されただけでも、世界が明るく見えます。

 

これだけでも整体の勉強をした甲斐がありました。

 

ちなみに肩こりは三日で消滅しましたが、整体だけではなく真向法と運動を続けている影響もありますね。

 

自分で出来る範囲というのはこれまで気付いていないだけで、本当に広かったようです。

 

話がそれますが、九月の末に面白そうな陰陽五行の占い講座?を受ける事になっておりまして、先日から東洋医学で使わない部分の陰陽五行学説について、サラリと勉強しています。

 

そこで陰陽師の話が出て来るのですが、どうやら陰陽師というのは今で言うところの万事屋、何でも屋だったのだそうです。

 

そうであれば現代版陰陽師を目指したいな、と思いまして。

 

ハチの巣駆除とか電子機器の修理、配管工事などは出来ませんが、心身の健康に関しては現代版陰陽師を目指してみても楽しそうだと感じました。

 

そのためにもまずは物書きの仕事に邁進し、東洋医学と整体、思想と哲学を修めつつも、小説家を目指さなければなりません。

 

やる事がたくさんありますが、どれも楽しそうなので今から気持ちが浮ついてしまいます。

 

30代後半からは空手五段を目指すべく、稽古を始めなければ間に合いませんしね。

 

ふぅむ、案外やる事が山積していますが、楽しそうなので良しとしましょう。

 

さて、今日はゴーストバスターズを観てきます。

 

みなさんも穏やかな平日をお過ごしください。

体から出る声

さて、ようやくブログを更新する暇を手に入れて、ウキウキしながらキーボードを叩いております。

 

仕事も納品が終わり、自分の好きなように文章を作れるというのは、なんてすばらしい事なのでしょうか。

 

今日、ブログを更新している喜びが一入なのは、理由があるのです。

 

実はこれから書く文章は七月の末から感じていた事であり、しっかりと考えが整理出来るまで書かないでおこうと思っていました。

 

それがようやくまとまったように感じたからこそ、今日の更新に至るわけでございます。

 

いやー、ルンルンでござる、もうここで記事を終わりにしても良いくらいの達成感がありますが、ご覧になっている方々の不完全燃焼を解消すべく、これから筆を進めて参りたい所存。

 

私は言葉に関しては非常に強いこだわりを持っています。

 

色々な形態、形式の言葉があるなぁ、と思って毎日何気なく生きてるだけで楽しめるのですが、最近個人的大発見がありました。

 

通常、言葉は頭の中で考えられたもの、という印象があります。

 

理論的であり、より分かりやすくするための道具という雰囲気です。

 

これを仮に頭から出る言葉だとすると、たとえば感嘆詞が付くような「おお!」「すごい!」などの言葉は明らかに思考に先行して、言葉が出ていますので、これを体から出る言葉だと言えそうです。

 

これはすごく面白い事で、体から出る声はタイミングも対象も人それぞれに違うらしいのです。

 

音に反応を示す人もいれば、動きに刺激される人もいますし、間や空白に感動する人もいました。

 

面白いな~、と思っていたのですが、その後にいつも通り落胆する出来事が待っておりまして。

 

確かにその瞬間は十人十色の反応を示していたのに、影響力のある人がその後に何かを言うと、そのとーり! と追従してしまうらしいのです。

 

その時、自分の体から出た声よりも、こうした方が良いだろうと頭で考えた声に従っています。

 

そのように自分自身が何に感動し、どこに関心を持ったのかを忘れてしまうなんて、もったいない事ではないかと思うのです。

 

オチとしては寄らば大樹の陰、長いものに巻かれろ方式に絡めとられて、感性が殺されていく様を見ただけなのですが、その過程には体から出る声なるものがあると確信出来るタイミングがありました。

 

普段、人と同じ事ばっか言いやがって、強い奴にばっかへりくだりやがって、と隅で体育座りをしている私ですが、その過程ではしっかりと個々人の感性を示していたのですね。

 

それに気付かなかっただけだったのかと思うと、人生の楽しみ方を見失っていたような気がして、何となく反省したくなります。

 

何か圧力が掛かってしまうとすぐに変質してしまうほど、個々人の感性というのは儚いものなのかもしれません。

 

これは私の推測ですが、相手の事を知ろうと思うのならリラックスした状態、普段の状態や言葉、態度が重要になるのでしょう。

 

そこに誰かの手垢が付いていない、何かが見えるような気がします。

 

ところで、体から出る声の例を取ってみてもそうですが、自分の好きなものは何か、なんて考える暇というか必要などないのでしょう。

 

これによく似た経験をした事があります。

 

たとえば、伝統芸能で狐やら獅子舞やらをやる時に、舞台に立てば体はどう動けば良いのかを知っているのです。

 

それなら練習は必要ないじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、全くそうではありません。

 

体は元からどう動くべきなのかを知っているにもかかわらず、普段から心と体が綺麗に連結している人はほとんどいません。

 

むしろ、心若しくは体を抑制する事が多いのです。

 

つまり、どう動けば良いのか知っているけれど、その通りに動かないように生活の間で訓練されていると言ます。

 

それによって多くの利益が生まれますが、それと同時に連結や一貫性が損なわれ、酷い場合には人生から現実味が失われる事もあるのでしょう。

 

ですから、練習を通じてしっかりと心身の連結を取り戻し、体が動きたいように動ける状態を作り上げる必要があるのです。

 

そのために体を鍛え、そのために体の声を聞かなければなりません。

 

普段の生活の中では知識は武器になりますし、自己を抑制する力が社会性や経済基盤、信用などを培う力へと変わります。

 

それと同時に自己の同一性や一貫性を損なわせてしまう、危険な要素にもなり得るのです。

 

どちらも重要ですから、また例の如く結論は調和させる事が大切というところに落ち着きます。

残穢

今週のお題「映画の夏」

 

先日、地元の後輩から勧められた映画がある。

 

残穢(ざんえ)という映画だ。

 

後輩は穢の意味が分からなかったらしいけれど、私には見覚えのある感じだった。

 

浄土真宗ではこの世を穢土(えど)と呼ぶ事があるらしく、汚れた土地である事を説くと言う。

 

内容を聞くところによるとホラー映画らしく、私はホラー映画の類がとても苦手で1人で観る事ができない。

 

とても面白いと言われても、全く見る気がしないまま話を聞き流していた。

 

すると、後輩は「残穢」が映画化される前、原作の小説でハマったのだと言う。

 

小説でホラー?

 

ホラー小説がある事は知っていたけれど、とりわけ興味を持った事がなかった。

 

後輩の趣味とは共通するものがあるからこそ、初めてホラー小説を読もうかと思ったのだ。

 

秀逸な小説であり、映画も切れ味が鋭かったように思う。

 

内容それ自体も楽しめたのだが、私の頭に残っている言葉だけが気になって仕方がない。

 

触穢(そくえ)という言葉だ。

 

穢れに触れるという意味で、感染してしまうのだと言う。

 

穢れに感染し、人によっては呪いが掛けられたような状態になってしまう。

 

曰くを背負った人、建物、土地などと接触する事を通じて、呪いが降り掛かってしまうらしい。

 

その呪いが濃縮される過程は筆者の憶測とはいえ、非常に説得力がありいきなり毛先を誰かに抓まれるような、そんな恐怖感があった。

 

激しい恐怖ではなく、え? と振り返りたくなる不安感。

 

残穢は触穢を題材にした小説であり、白いワンピースを来た黒髪ロングのおどろおどろしい女に追いかけられるホラーより何倍も恐ろしかった。

 

小説を読み終えてから、私は穢れには触れたくないと思ったけれど、ここで疑問が浮かんだのだ。

 

穢れに触れたくないという思いは、自らが清らかという前提だ。

 

自らが清らかでまだ穢れていないからこそ、穢れに触れる事が恐ろしいのではないか?

 

泥だらけになってから泥が付く事を気にする人はいないのと同様だ。

 

おそらく、穢れはこういう無自覚の部分から生まれる。

 

悪い事をしてやろうとか、このくらいなら許されるだろう、などと全く思わない無自覚の悪意。

 

まばたきをする時のように、イヤホンを付けて再生を押す時のように、特に用事もないのにスマホを取り出す時のように。

 

そのくらい当たり前に誰かが呪いたくなるほどの悪行を、無意識にできてしまうのが人の恐ろしいところなのかもしれない。

 

そして、生まれた穢れに触れたくない、とそう思うのだ。

 

何という傲慢さだろうか。

 

自分が関与したかもしれない呪いや恨みをまるで自然災害かのように感じ、近付きたくないと思っているのだから。

 

もし、私が呪いを生んだ張本人だとしたら。

 

私は理解して欲しい、話だけでも聞いてもらいたい。

 

確かに呪いを身の内に宿しているけれど、それには理由があるのだと言いたい。

 

もしかしたら、呪いというものは恐るべきものではなく、悲しむべきものなのかもしれない。

 

呪いというおどろおどろしいものの影には、純真や篤実、堅忍があるような気がする。

 

その誠実さが裏切られ蹂躙された時、人は何かを恨む。

 

自分でも止められない感情の動きが、心身を滅ぼしながら呪いを形成していくのかもしれない。

 

そう思うと触穢それ自体は不幸であるにせよ、根は悲しむべき人や現象が眠っているのだろう。

 

人の世はいつでも虚しいものなのかもしれない、と「残穢」を見て感じた。

8月6日

 

8月6日と言えば広島、9日と言えば長崎に原爆が落とされた日として、日本人の記憶から消し去られる事がないでしょう。

 

今日は戦争について考えてみたいと思いますが、政治的な話題に口を挟むつもりはありません。

 

私は大抵、精神的な部分に関心を持つので内面に関わる話が多くなります。

 

私は戦争が世界からなくなる事がないと感じているのです。

 

日本は例外的な面がありますが、世界の歴史では戦争がなくなる事はありませんでした。

 

戦争は権力者が起こすもの、という考えを持っていますが、権力者によって庇護されている庶民としての面がある以上、権力者や庶民という立場の違いに焦点を当てるよりも、彼らと我らで共有しているもの、同時に戦争を担う理由を見詰めたい気持ちになります。

 

我が国で言えば日本人であるという事が、権力者と庶民が共有しているものです。

 

日本人として世界の中を生き抜こうとした時、私たちは時として戦う必要性に駆られます。

 

正義と正義がぶつかっている、という話ではなく、日本人として避けられない障害が出て来る場合があるのです。

 

たとえば、身近に大切な人がいてその大切な人が亡くなった後、故人が大事にしていた宝物があったとすれば、それは残された人間が何に代えても守りたいものとなります。

 

装飾品や血縁者かもしれないけれど、郷土や文化のような概念として存在するものかもしれません。

 

それがネックレスだったとしましょう。

 

他にもたくさんもらっているのだから、この際たかがネックレスくらい取り上げても、それほど問題ないだろうと思っている人がいて、それを寄越せと言ってくる。

 

しかし、他にものは渡せたとしてもこれだけは渡せない、もし強引な手段に出るのなら刺し違えてでも戦う必要性が出てきます。

 

もちろん、政治的な話題に手を出すのなら、これほど爽やかではなく目も当てられない唾棄すべき動機が見えてくる場合がありますが、そちらの方面に触れるつもりはありません。

 

あくまでも私たちにとっての戦争とは何なのかを知りたいのです。

 

抗いようのない運命があると、私は思っています。

 

友人としての私、恋人としての私、師匠としての私、弟子としての私、そして国としての私。

 

時と場合によって私たちは国家という概念のために戦う必要性を与えられます。

 

存在しないもののために、殺し合わなければならない事があるのです。

 

しかし、そのような世界しか人には作れないからこそ、戦争がなくなる事がない面もあります。

 

さらに国家によってどれほど私たちの生活が守られている事でしょうか。

 

私が安心して芸事に打ち込み技術力を向上させ、恋人の話に耳を傾けてうなずき、友人と冗談を言い合って抱腹する事ができるのは、国家という概念があってこそなのです。

 

私がこのように穏やかな生活を送るためのインフラは、誰が整備してくれたものでしょうか。

 

治安は誰が守り、公共機関は誰が運営しているのでしょうか。

 

全ての事柄が連環の中にあるのなら、戦争がある世界を作っている一因が私にもあなたにも、そして誰にでもあるのです。

 

私たちの心の中から怒りや嘆きなどの負の感情がなくなる事はなく、強欲や怠惰のようなものも消える事がありません。

 

自分だけの事であっても悪い部分を抑え切れない人間が、数えきれないほどいる世の中で抑え切れない怪物が生まれない方が不自然です。

 

その1つとなっているのが戦争なのだと、私は理解しています。

 

避けられない悲劇の中で散華された方も大勢おり、その生き様や死に様から何を学ぶべきなのでしょうか。

 

幼い頃、旧日本軍は天皇を崇拝する狂信者だと聞かされたことがあります。

 

確かにあまりにも強い勢いで特攻隊を礼賛していた地元のおじいさんもおり、幼い頃は恐怖感を覚えたものです。

 

風の噂ではそのおじいさんの友人が特攻隊だった、との事でした。

 

しかし、私があのおじいさんの立場だったとしたら。

 

特攻隊というぼんやりとしたイメージではなく、旧知の友人の顔や性格、話し方や風貌、家族構成など血肉の通う記憶があったとしたら。

 

友人が250㎏の爆弾を積んだ特攻機で敵艦を目指していく、その様を想像した時。

 

おそらく恐怖に震えた事でしょうし、もっと生きていたいと思っていたかもしれない。

 

それでも散華する道しか与えられなかった友人に対して、私が残された立場ならば是が非でも肯定せざるを得ません。

 

私の友人は立派に、雄々しく散ったのだと言うしかありません。

 

本当は違うだろうと思っていても、そう言うしか道がないのです。

 

もちろん嘘としての面を持っている言葉です。

 

真実ではないかもしれません。

 

しかし、嘘だろうと分かっていても、踏み込んではいけない領域があるのだと、私はこの件で学ぶ事が出来ました。

 

子供の心の中でサンタクロースが空から落ちないようにするためには、全ての嘘を暴いてはいけない、という言葉を思い出します。

 

私たちは誰しもが物語の中で生きており、それぞれの思いが錯綜し時には摩擦を起こし、悲しい事に武器を手にして対峙する事もあるのでしょう。

 

私の物語は時として国の物語となり、翻弄されてしまう事もあるのでしょう。

 

戦争は悲しむべき事です、それに間違いはありません。

 

しかし、人の人生そのものが悲哀に満ちた面を持っているのだと思い出せば、戦争だけを切り取って云々というのは不自然でもあります。

 

なんだか後味があまり良くない記事になりましたが、ここで終わりにします。

夏の夜

八月はなぜか気分が上がらない。

 

と言うよりも、夏らしく気分が上がらない感じだ。

 

夏は何もかもが活力を持つ。

 

明るい人が多くなるし、イベントもたくさんある。

 

お気に入りの散歩道を歩いていると蝉時雨が降り注ぎ、空を見ればいつもは穏やかでほとんど変化しないのに、入道雲があれよあれよと言う間に成長している。

 

夏は空まではしゃいでいて、気が付けばどこにも静かなもの、穏やかなもの、変わらないものと触れ合えなくなっているのだ。

 

そういう季節なのだと割り切ればそれで良いのだけれど、私のような日陰を好む人間は静かで穏やかなものが少なくなると、気持ちに余裕がなくなってしまう。

 

お前の居場所はないよ。

 

そう言われている気持ちになる。

 

だから、昼間はほとんど表に出ない。

 

仕事をしている事を口実にして、日が暮れてからしか外へ出ようと思わない。

 

夏の夜は嫌いではない。

 

空は相変わらずよく変化する雲を泳がせて、夜中なのに騒々しい雰囲気を出しているけれど、夏ほど昼夜の落差が激しい季節も珍しい。

 

昼間はこれでもかと騒ぎ立てていた蝉時雨も聞こえないし、ウキウキしている人たちも見当たらない。

 

雪駄を履いて歩いているとペタン、ペタンと音が響き、それ以外は何も聞こえない。

 

晴れている珍しい夜には月明かりが外灯のように眩しい事もある。

 

月光のせいでオリオン座が綺麗に見えなくなるのは残念だけれど、指紋まで見えそうなほどの月明かりが苛立ちや、ささくれ立った心を滑らかにしてくれる。

 

夏は月まで自己主張を強くするのかと思うと笑えるけれど、月はどこまで主張してもやかましくはない。

 

太陽は明るくよく響く声を、月は優しく囁くような声を持っているのかもしれない。

 

月光に吸い寄せられるようにして飛ぶ蛍を見ると、死んだ人の魂が蛍に乗ってまたあるべき場所へと帰っていく様子にも見える。

 

夏にお盆があるのは、もしかしたら必然なのかもしれない。

 

夏は夜だけ好きだ。

 

静かで切なくて、昼間にあれだけはしゃいでいた全てのものが息を潜める、

 

こんな風に穏やかで静かな日々が続きますようにと、祈りたくなる夏の夜。

 

夏はそれだけが救いだ。

スマホから初めての更新

悪が勝利するために必要なものは、善人が何もしない事だ。

本当にそうだろうか?

おそらく、そうなのだろう。

それでも世の中は回る、悪を自覚しない善人もどきによって。

私もきっと、その中の一人。

世の中は回る、悪を自覚しない私によって。

いつだって

私の目に見えるもの。

 

ブログのタイトルを決めるのに、それほど時間は掛からなかった。

 

私の目に見えるもの。

 

私の目に見えるものを、本当に他の人も見えているのだろうか?

 

笑っていないのに、笑顔だと思われたい人の顔が見えているのだろうか?

 

涙が流れないほどに悲しんでいるのに、泣かないなんて冷徹な奴だと言われている人の顔が見えているのだろうか?

 

私の目に見えているものだけではない。

 

私の耳に、肌に、心に感じるものを、他の人も感じているのだろうか?

 

私は変わり者だと言われる事が多いけれど、話してみるとほとんどの人が納得してくれる。

 

その目は全く納得していないけれど。

 

困っている人は助けなければと言うけれど、助けようとする人のいかに少ない事か。

 

友人や恋人を裏切るなんて最低と言いつつ、平気で傷付ける人間のいかに多い事か。

 

この世は辛く、苦しい。

 

生きる事は難しく、悲しい。

 

生きる事は良い事だと言われないのに、死ぬ事は、とりわけ自殺は悪い事だと言われている。

 

善の反対に悪があるのなら、生は善でなければおかしい。

 

そういう人間に限って、自分が辛い立場に立たされそうな時、生贄を喜んで捧げる。

 

自分よりも出来が悪く、批判されやすい人間をそっと用意する。

 

身近な人を大切に、とよく耳にするけれど、最もグロテスクな出来事は大抵、身近なところから起きる。

 

家族を大切に、と言うけれど、最も強い憎しみが生まれるのは濃密な人間関係からしかあり得ない。

 

家族を大切にする事が誰にとっても良い事ならば、わざわざそんな言葉が喧伝されない。

 

お腹が空いたら食べましょう、眠くなったら眠りましょう、なんて誰も言わないじゃないか。

 

当然の事、必要な事は言葉にされない、宣伝されない性質を持っている。

 

それならば、なぜ家族を大切にしようと喧伝されるのか、その理由が炙り出されてくるじゃないか。

 

家族こそ最も強い恨みや憎しみを生み出す関係であり、その憎悪は取り返しがつかない傷を残す。

 

だから、家族は大切にしましょう、という言葉が生まれる、喧伝される。

 

私が知っている理想的な家族の数と、私が知っている嫌悪感しか生まない家族の数は全く釣り合っていない。

 

私の目に見えている家族たちを見た時に、本当に大切にしようと言えるのかどうか。

 

辛過ぎる傷を負った人たちの声を聞き、本当に大切にしようと言えるのかどうか。

 

浄土真宗ではこの世は汚れた土地、穢土(えど)と呼ばれているそうだ。

 

最も助けが必要な時に、誰からも助けられなかった経験を何度もした人たちは、自力を信じるしかない。

 

血の滲む努力を重ね、能力を高め、周囲を圧倒する事さえ少なくない。

 

誰から見ても羨ましい立場にいる人間の目が、声がなぜあんなにも悲壮なのか。

 

開き直るしかなかったタイプは、たとえ従業員を過労死させても心が傷まない化け物にになる。

 

開き直るほど傲慢ではない優しいタイプは、人の痛みを我が物のように感じ、どこまでも清廉な精神を摩耗させる。

 

辛い経験は猛毒へと変化して、周囲へと伝染する。

 

虐待を受けた人間は子供に限らず、誰かを虐待をするか、それとも直接的な被害から免れた後、自らに対して虐待を続けてしまう。

 

その猛毒は解毒される時を迎えないまま、自分か他人か、それとも社会を滅ぼしていくのだ。

 

唯一、その毒が薄まるとすれば、他人からの愛情を受け取った時だろう。

 

愛情の定義なんて中学生じみた事なんて興味はない。

 

愛情を受け取るにはお互いが心を開き、信頼し、そこで真摯に関わっていくしか方法がない。

 

一方的なものではなく、相手の中でも自分の中でもなく、ちょうどお互いの中間に生まれるものが信頼、愛情、友情。

 

以前、虐待に関するテレビが放送されていた。

 

誰の心にもコップがあり、そこには水が注がれている。

 

虐待を受けた子供の心には、とても濃い赤いインクが垂らされて、透明だったはずの水が真っ赤に染まる。

 

その赤が消える事は一生ない。

 

愛情だろうが何だろうが、起きた事を消す力などない。

 

しかし、コップにたくさん水を注ぎ、赤を薄める事はできるし、そうでなければ辛過ぎると、虐待児のケアをしている人が言っていた。

 

私は彼と全く同じ意見を持っている。

 

おそらく、そこには私の願いも多分に入っている。

 

そうでなければ辛過ぎると、心からそう思う。

 

苦しむだけの命があってはならないと言うけれど、わざわざ言葉にされる事は現実がそうなっていないからだ。

 

苦しむだけの命がある世界でしか、私が生きる道はない。

 

辛過ぎると思う現実は、そこらじゅうに転がっているのだ。

 

私たちは地獄に落ちる事を恐れる必要がない。

 

なぜなら、この世こそが地獄なのだから。

 

私たちは天国へ行きたいと思う必要がない。

 

なぜなら、そんな場所はないのだから。

 

若い頃のように激しい痛みを覚える機会は激減した。

 

PTSDが完治した事も関係あるのかもしれない。

 

ただ、私の目に見えているものは何一つ変わらない。

 

私の目にはいつだって地獄が見えている。