愛を求めて生き続け、その期待が無残に裏切られて満身創痍のまま、絶望の淵から飛び降り命を終える。
そんな人生であれば、ある意味でそれは救われているようにも思う。
なぜなら、愛は空虚で存在しないのだと、本気で信じる事が出来るのだから。
しかし、現実はそれほど甘美な絶望を与えてくれない。
自己陶酔したまま死ぬことを許さない。
愛が欲しいと思えば目の前に差し出される。
たとえば、動植物から無償の愛が私へ向かって注がれる。
真剣に絶望するために、真剣に希望を探せば必ず見つかってしまうのだ。
世界は白とも黒とも言えない、マーブルペイントを施す斑に染まった水のように濃淡の差がある。
真っ黒だと思いたいのに、そうではない現実。
白く生きていきたいのに、重油のように粘着質な黒がまとわりつく現実。
疲れ果てるのは、当然の事なのかもしれない。
辛く、苦しい人生をそれでも生きようと思うのなら、精神力がこれでもかと摩耗していくのだ。
もうダメだと思った時には必ず希望が目の前にある。
希望を掴もうとすれば、それは霞のように手からすり抜けていく。
死にたいと思うのではなく、自分を消したいと思う。
いや、それほど強い思いは抱いていない。
掴もうとした霞のような希望が、まるで自分のように感じられるのだ。
あるようでない、ないようである。
あやふやで頼りなく、それでも自己に縋って生きるしかない不安定さ。
私は一体誰の人生を生きているのだろう。
私は一体、何へと向かっていくのだろう。
恋人もいる、愛してくれる大切な恋人が。
趣味もある、夢中になれる大事な趣味が。
生きる力もある、このままなら自殺せずに生きていくだけの力が。
それなのに精神の四肢は脱力していて、立ち上がろうと思うだけで動かない。
目の前には多くの人がいるのにもかかわらず、助けてくれと言う気力さえもなく、ただへたり込み眺めているだけの私。
時として世界の動きが緩慢に見え、時としてその速さを目で追う事も出来なくなる。
私はいつまでここに腰を下ろしているつもりなのだろうか。
優しい人たちが私の事を気に掛けてくれるけれど、差し伸べられた手の掴み方なんてとっくに忘れてしまった。
手を差し伸べられると、その手を掴んだ時の安心感よりも、放された時の絶望感が先立ってしまう。
それならば握らない方が良いのだろう、と反射的に考えてしまうのだ。
私は本当に苔のように生きていきたい。
目立たず、日光に当たる事もない日陰で静かに呼吸だけをしていたい。