私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

いないはずの人物

誰が好きで家族を、肉親を恨むだろうか。

 

誰が好んで家族を悪く言うというのか。

 

どれほど愛されたいと願っても、それが虚しい願いであり、永遠に手が届かないものだと分かった時の絶望を、一体誰が、同じ世界を見た人間以外の誰が理解してくれると言うのか。

 

同じ世界を見た人たちはいわゆる「普通」ではない。

 

「普通」の世界から好きで飛び出したのではなく、振り回されるようにして弾き飛ばされたのだ。

 

その嘆きを口にすれば「普通」ではないレッテルを貼られ、重たい人間だと毛嫌いされ、ただでさえ必要とされていないにもかかわらず、その上から欠陥品だと烙印が押されるようなものではないか。

 

私は吹き飛ばされた場所から「普通」の世界が見える位置までしか歩み寄る事ができない。

 

私は好きで「普通」ではない人間になったのではなく、「普通」ではない人間のいる「普通」ではない環境の中で「普通」ではない経験を通じて、喉から手が出るほど欲しかった「普通」を手放さざるを得なかった。

 

私の立っている位置から「普通」の世界を見ると、歪が歪だと理解されていない事がよく分かる。

 

誰もが違う価値観を持っていると言いながら、異なるものに対する執拗な攻撃が止まないのは何故なのか。

 

誰もが幸福を求めていると言いながら、その中身が金しかないのは何故なのか。

 

私にはおぼろげにだけれど、分かっているつもりでいる事がある。

 

「普通」の外に広がる世界など、あってはいけないのだと誰もが無自覚の内に思っているのだ。

 

「普通」の中身は色々なものが入る。

 

たとえば、法律もそうだ。

 

法律の脆さを痛感するのは、法律に守られない状況があると知った時しかない。

 

警察は必ず事後的に動く。

 

目の前に刃物を持っている男がいて、その男が今まさに私の首を切ろうと振りかぶった時、法律は何の役にも立たない。

 

その時、私が取るべき行動は法律を守って、相手の心身を尊重して話し合いを始める事ではない。

 

逃げ果せる自信があるのなら別だが、その時に私は相手を殺す決意をしなければ、私の生命が奪われるのだ。

 

法律が私を守らない時、私が死んだ後にしか効力を発揮しないと分かったその時、私は法律の外にいる。

 

そこでは私が自分の頭で考えて、自分の体を使って切り抜けるしかない。

 

もしくは、蹂躙されるしかない。

 

どのような扱いにも耐え、私は精神を異形へと変えながら、一見すると人に見える「何か」になるしかない。

 

この時、法律が私をどのように守ってくれるのだろうか?

 

「普通」に考えれば、こんな事は大げさな話で全く日常的ではないと一蹴される。

 

一蹴されてしまうのだ。

 

「普通」の外に世界が広がる事を許さないのは、「普通」ではない世界で頼れるものが己しかないという不安や恐怖かもしれない。

 

そうやって「普通」の世界から吹き飛ばされた人たちは、世間的に消えていく。

 

いないはずの人物へと変わるのだ。

 

話を聞いてもらう、ただこれだけの事でさえ涙を流して喜ぶ人がいるのは何故なのか。

 

いないはずの人物は、いる事を認めてもらえただけでも涙を流す事がある。

 

世界はいないはずの人物の悲鳴や慟哭を無視する事によって成り立っている。

 

虐待を受けた人物はテレビや小説の中だけで存在が許され、目の前に現れる事は許されない。

 

「普通」の外にいる人など、いるはずがないのだから。

 

私にはいつまで経っても、世界が良いものだと思えない。

 

私にはいつまで経っても、自分が良いものだと思えない。

 

以前のように実際に死ぬ覚悟で何かをするつもりはないけれど、私はただ茫然と「普通」の世界を眺め、そんなものだと言うくらいしか、力が残っていないのだ。

私と植物の友情について

今週のお題「植物大好き」

 

それが今週のお題なのだそうだ。

 

植物にまつわる思い出はそれほど多くないし、人生を通じてそれほど植物と関わってきた経緯もない。

 

それなのに、植物と耳にすると必ず思い出す場面がある。

 

生まれも育ちも東京にもかかわらず、田園風景の中で育った私は雨が降る前の植物が出す匂いが好きだった。

 

あの匂いは青臭く、どこか不快感を与えるものだったけれど、植物と会話をしているような、そんな気分になれたのだ。

 

これから雨が来るよ、早く屋根のある場所に行かないと。

 

そう言われている気分になった。

 

無言の、種類も名前も分からない、入り乱れた雑草が口々にそう言っているように感じられた。

 

結局、その不思議な感覚に酔って植物の前で立ち止まってしまい、雨に打たれる事が定番になってしまったのだから、本当に植物がそう注意を促していたとしたら、とんでもなくバカな子供に見えていた事だろう。

 

ペトリコール、ジオスミン、これが雨の匂いの正体となっている物質なのだそうだ。

 

私は28歳だが小学生の頃にはインターネットが普及していなかったし、携帯電話も見た事がなかった。

 

分からない事を調べるというのは骨の折れる作業であり、そこまでして雨の匂いを解明しようとは思わなかったし、何より因果関係を知るよりも、私は話し相手が欲しかった。

 

幼い頃から本心を言えない環境で育ち、学校ではとにかく明るく振る舞い、学校を出ると一言も話さず、家の中ではできるだけ空気になるように努めるしかなかった。

 

暴力は目立つものへと向かっていくものだと知ったのは、いつの頃なのかさえ覚えていない。

 

気が付けば、私はピエロのように演技する子供になっていた。

 

学校では明るいピエロ、家庭では空気になるピエロ、生活のどこを見ても「私」はいなかった。

 

親、同級生の顔色を窺い、求められる成果を挙げ、少しでも他人より秀でていなければ存在価値がないと、そう確信していたのだ。

 

自分が何を言いたいのか、何をしたいのか、そんな事は周囲から求められるものと比較してほとんど無価値なもの。

 

いつの間にか、私は自分の言葉を、他人の期待などの手垢が付いていない、ただ素直な自分の言葉を全く忘れていた。

 

小学四年生の頃が最初だったと思う。

 

雨が降る直前、植物が私に語り掛けているように感じたのは。

 

植物は私に期待しない。

 

植物は私を罵倒しない。

 

植物は私を殴らない。

 

植物はただ植物として、私に危害も利益も与えない、ただ静かな友人として目の前にいてくれた。

 

もちろん、声には出さなかったけれど、私は本心を植物に伝えた事があった。

 

同級生には言えない、本心を。

 

殴られるのはもう嫌だ、怒鳴られるのはもう嫌だ、学校へもう行きたくない、全てに対して疲れてしまった、どうして自分は生まれたの? 

 

返答などあるはずがなく、ただ静かに植物は匂いを発していた。

 

これから雨が来るよ、早く屋根のある場所に行かないと。

 

そう植物は私に言い続けていたように感じる。

 

だから、私は雨が嫌いだった。

 

植物が匂いを通じて私に意志を伝えてくれるのは、雨が降る直前、束の間だけ。

 

雨が降り始めれば、雨音に植物の言葉がかき消され、私の静かな友人が沈黙してしまう。

 

私は雨に打たれながら少しの間、未練たらしく植物の前に立ち、それから五時の鐘が鳴るまで雨宿りをしていた。

 

「植物大好き」というわけではなかったと思う。

 

しかし、あの植物たちのお陰で陰惨な時期を乗り越える支えを得ていたとも思う。