今週のお題「植物大好き」
それが今週のお題なのだそうだ。
植物にまつわる思い出はそれほど多くないし、人生を通じてそれほど植物と関わってきた経緯もない。
それなのに、植物と耳にすると必ず思い出す場面がある。
生まれも育ちも東京にもかかわらず、田園風景の中で育った私は雨が降る前の植物が出す匂いが好きだった。
あの匂いは青臭く、どこか不快感を与えるものだったけれど、植物と会話をしているような、そんな気分になれたのだ。
これから雨が来るよ、早く屋根のある場所に行かないと。
そう言われている気分になった。
無言の、種類も名前も分からない、入り乱れた雑草が口々にそう言っているように感じられた。
結局、その不思議な感覚に酔って植物の前で立ち止まってしまい、雨に打たれる事が定番になってしまったのだから、本当に植物がそう注意を促していたとしたら、とんでもなくバカな子供に見えていた事だろう。
ペトリコール、ジオスミン、これが雨の匂いの正体となっている物質なのだそうだ。
私は28歳だが小学生の頃にはインターネットが普及していなかったし、携帯電話も見た事がなかった。
分からない事を調べるというのは骨の折れる作業であり、そこまでして雨の匂いを解明しようとは思わなかったし、何より因果関係を知るよりも、私は話し相手が欲しかった。
幼い頃から本心を言えない環境で育ち、学校ではとにかく明るく振る舞い、学校を出ると一言も話さず、家の中ではできるだけ空気になるように努めるしかなかった。
暴力は目立つものへと向かっていくものだと知ったのは、いつの頃なのかさえ覚えていない。
気が付けば、私はピエロのように演技する子供になっていた。
学校では明るいピエロ、家庭では空気になるピエロ、生活のどこを見ても「私」はいなかった。
親、同級生の顔色を窺い、求められる成果を挙げ、少しでも他人より秀でていなければ存在価値がないと、そう確信していたのだ。
自分が何を言いたいのか、何をしたいのか、そんな事は周囲から求められるものと比較してほとんど無価値なもの。
いつの間にか、私は自分の言葉を、他人の期待などの手垢が付いていない、ただ素直な自分の言葉を全く忘れていた。
小学四年生の頃が最初だったと思う。
雨が降る直前、植物が私に語り掛けているように感じたのは。
植物は私に期待しない。
植物は私を罵倒しない。
植物は私を殴らない。
植物はただ植物として、私に危害も利益も与えない、ただ静かな友人として目の前にいてくれた。
もちろん、声には出さなかったけれど、私は本心を植物に伝えた事があった。
同級生には言えない、本心を。
殴られるのはもう嫌だ、怒鳴られるのはもう嫌だ、学校へもう行きたくない、全てに対して疲れてしまった、どうして自分は生まれたの?
返答などあるはずがなく、ただ静かに植物は匂いを発していた。
これから雨が来るよ、早く屋根のある場所に行かないと。
そう植物は私に言い続けていたように感じる。
だから、私は雨が嫌いだった。
植物が匂いを通じて私に意志を伝えてくれるのは、雨が降る直前、束の間だけ。
雨が降り始めれば、雨音に植物の言葉がかき消され、私の静かな友人が沈黙してしまう。
私は雨に打たれながら少しの間、未練たらしく植物の前に立ち、それから五時の鐘が鳴るまで雨宿りをしていた。
「植物大好き」というわけではなかったと思う。
しかし、あの植物たちのお陰で陰惨な時期を乗り越える支えを得ていたとも思う。