私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

Even though I'm sacrifice

今日は最近気に入っているこの曲を聴きながら、久しぶりにブログを更新する事にした。

 

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最初から脱線してしまうけれど、エヴァネッセンスはずっと前から好きなバンドで、何度も繰り返し聞いてしまう。

 

救いようのない雰囲気がたまらなく良い。

 

ところで、年末年始は大忙しだった。

 

28日から先ほどまで仕事で気が付いたら大晦日も正月も終わっていて、いつの間にか日常が始まっている。

 

正月ボケという単語を聞いても、私にはあまりしっくりと来ないけれど、そういう生活が性に合っているとも思う。

 

私はとことん人に合わせるのが嫌いなようだ。

 

人が休んでいる時には仕事をしていたいし、人が仕事をしている時には遊んでいたい。

 

たぶん、夜がとことん好きになったのもこういう理由のような気がする。

 

中学時代から夜遊びを始めて、夜の静寂や世界に自分だけという雰囲気がとても好きだった。

 

誰もいないところが、私は好きなのだと思う。

 

だから、居場所を用意されると困るのかもしれない。

 

私に居場所がないのではなく、私から避けている面がある。

 

今まで落ち着ける居場所なんてどこにもなかったし、だからどこへ行っても落ち着かない。

 

居場所を与えられても、そこでの過ごし方が分からないのだ。

 

人が集まると自然に空気が出来上がる。

 

その場の空気が。

 

そこでは言える事が自然に制限されて、当たり障りのない人間でいるようにと強要されているような気分になる。

 

人と自分は異なっているという考えなくてもわかるような事が、人が集まるというだけで不可解なもの、批判されるべきものになる。

 

面倒を避けたい気持ちは分かる。

 

摩擦だってなるべく少ないほうが良い。

 

それは分かる。

 

しかし、私には余裕がないのだ。

 

私の中から生まれたものでも何でもない、たとえばネット上の情報を鵜呑みにしてペラペラと話していたり、身近な人の下世話なゴシップに終始しているその時間にいったい何の価値があるというのか。

 

そんな事をしている時間など、私には用意されていない。

 

どんなに卑劣でも良い、歪んでいても良いから、相手の経験や無視出来ない感情から生まれた言葉を聞きたい。

 

しかし、どこへ行ってもそこまで本心を話している人など見つからない。

 

酒を飲めば本音が聞けるなどと言うのは、ほとんど寝言に近いと思っている。

 

酔っている時の自分を思い出せば誰だって分かるはずだ。

 

ただ支離滅裂に話しているだけで、全く思考などしていない事が。

 

私もよく理論武装をしているから、本音だけで話しているわけではない。

 

しかし、いわゆる「自分の居場所」と呼ばれているところでは、往々にして自分をどこまで殺せるのか、強い者にどこまで阿る事が出来るのかが競われている。

 

私はそれが虚しいと思うのだ。

 

自由だなんだと世間ではよく言うけれど、人間の本性の中には服従したい欲求がある。

 

自由を自ら放棄して寄らば大樹の陰で生きていくために、誇りを簡単に捨てる人間のいかに多い事か。

 

彼らは一体、誰の人生を生きているのだろうか。

 

誰かの言葉を借り、誰かの顔色を窺い、自らの言葉を話さず、人生に責任を持たず、コソコソと隠れて小さな悪事に明け暮れるその人生は、一体誰のためのものなのか。

 

最近、ようやく自分に居場所がない理由が分かった。

 

最初からないものを探しているから、見つからないだけなのだ。

 

それはおそらく、誰であっても同じなのだと思う。

 

ただ一つ、精神の中にだけ居場所が用意されている。

 

高遠に広がる際限のない闇の中央に、方角さえ分からないまま私は立ち尽くしている。

 

そこが居場所なのだ。

 

四月に薬膳の資格試験があり、さらに上級の資格を取ろうと思っているけれど、こんな資格だって死ねば土塊にすらならない、単なるお飾りだ。

 

もちろん、受験勉強はしているし落ちるつもりはない。

 

しかし、所詮は人生などお飾り、虚構でしかないのだ。

 

私は一体、誰の人生を歩んでいるのだろう。

 

何のためにここまで努力を重ねているのだろう。

 

いつか必ず死に、すべてを手放すのにどうして持ち物を増やそうとするのだろう。

 

人生は矛盾に満ちている。