今週のお題「映画の夏」
先日、地元の後輩から勧められた映画がある。
残穢(ざんえ)という映画だ。
後輩は穢の意味が分からなかったらしいけれど、私には見覚えのある感じだった。
浄土真宗ではこの世を穢土(えど)と呼ぶ事があるらしく、汚れた土地である事を説くと言う。
内容を聞くところによるとホラー映画らしく、私はホラー映画の類がとても苦手で1人で観る事ができない。
とても面白いと言われても、全く見る気がしないまま話を聞き流していた。
すると、後輩は「残穢」が映画化される前、原作の小説でハマったのだと言う。
小説でホラー?
ホラー小説がある事は知っていたけれど、とりわけ興味を持った事がなかった。
後輩の趣味とは共通するものがあるからこそ、初めてホラー小説を読もうかと思ったのだ。
秀逸な小説であり、映画も切れ味が鋭かったように思う。
内容それ自体も楽しめたのだが、私の頭に残っている言葉だけが気になって仕方がない。
触穢(そくえ)という言葉だ。
穢れに触れるという意味で、感染してしまうのだと言う。
穢れに感染し、人によっては呪いが掛けられたような状態になってしまう。
曰くを背負った人、建物、土地などと接触する事を通じて、呪いが降り掛かってしまうらしい。
その呪いが濃縮される過程は筆者の憶測とはいえ、非常に説得力がありいきなり毛先を誰かに抓まれるような、そんな恐怖感があった。
激しい恐怖ではなく、え? と振り返りたくなる不安感。
残穢は触穢を題材にした小説であり、白いワンピースを来た黒髪ロングのおどろおどろしい女に追いかけられるホラーより何倍も恐ろしかった。
小説を読み終えてから、私は穢れには触れたくないと思ったけれど、ここで疑問が浮かんだのだ。
穢れに触れたくないという思いは、自らが清らかという前提だ。
自らが清らかでまだ穢れていないからこそ、穢れに触れる事が恐ろしいのではないか?
泥だらけになってから泥が付く事を気にする人はいないのと同様だ。
おそらく、穢れはこういう無自覚の部分から生まれる。
悪い事をしてやろうとか、このくらいなら許されるだろう、などと全く思わない無自覚の悪意。
まばたきをする時のように、イヤホンを付けて再生を押す時のように、特に用事もないのにスマホを取り出す時のように。
そのくらい当たり前に誰かが呪いたくなるほどの悪行を、無意識にできてしまうのが人の恐ろしいところなのかもしれない。
そして、生まれた穢れに触れたくない、とそう思うのだ。
何という傲慢さだろうか。
自分が関与したかもしれない呪いや恨みをまるで自然災害かのように感じ、近付きたくないと思っているのだから。
もし、私が呪いを生んだ張本人だとしたら。
私は理解して欲しい、話だけでも聞いてもらいたい。
確かに呪いを身の内に宿しているけれど、それには理由があるのだと言いたい。
もしかしたら、呪いというものは恐るべきものではなく、悲しむべきものなのかもしれない。
呪いというおどろおどろしいものの影には、純真や篤実、堅忍があるような気がする。
その誠実さが裏切られ蹂躙された時、人は何かを恨む。
自分でも止められない感情の動きが、心身を滅ぼしながら呪いを形成していくのかもしれない。
そう思うと触穢それ自体は不幸であるにせよ、根は悲しむべき人や現象が眠っているのだろう。
人の世はいつでも虚しいものなのかもしれない、と「残穢」を見て感じた。