私には気に入っている散歩道がある。
そこは整備された広い道でランニングしている人もいれば、犬の散歩をしている人、ロードバイクで走っている人もいる。
それほど大きくはない川に沿って続く道を歩く事が、私が日頃から抱えている心労を和らげてくれるのだ。
散歩道沿いには大きな公園があり、そこでは老若男女を見る事が出来る。
先日、私が散歩をしている時だった。
私がいるのとは反対の岸に、幼稚園の年少程度に見える女の子がしゃがんで何かを取ろうとしている様子が視界に入って来た。
魚を取ろうとしているには、あまりにも緩慢で余裕のある動きなので、すぐにサワガニを取ろうとしているのだと分かった。
その女の子の少し後ろで、キャップを被った母親が体育座りをしながら眺めていた。
その様子になぜか視線が惹きつけられ、川の流れを見ている振りをしながら、親子を観察していた時だった。
女の子が短く悲鳴を上げ、川から手を引き抜くと指先にサワガニがぶら下がっている。
サワガニが女の子の指を挟んだのだ。
高い悲鳴を上げていたから女の子は思い切り動かしたかったのだろうけれど、筋力がまだないせいなのか手に付いた水滴を払うような弱さで指先を振ると、サワガニは呆気なく弧を描いて川の水面に波紋を作った。
瞬間、女の子は放心状態のようになり、サワガニがいなくなった指先を見ると安心したのだろう、大泣きしながら母親へ向かって走り出す。
母親は体育座りを解いて胡坐を掻き、女の子を受け止めるために両腕を開いた。
母親は泣き喚く女の子の体を抱きしめ、頭を撫で「もう痛くないんだから、泣く必要なんてないでしょう」と穏やかに言葉を放つ。
川を挟んだ向こう岸は私がいる世界とは全く異なっているように見えた。
女の子は泣きながら走っていけば、母親が受け止めてくれると確信していた。
母親に対する絶対的な信頼を、あの様子はまざまざと私に見せつけたのだ。
何かあった時には頼れば必ず助けてもらえる。
それも母親から。
私は三人兄弟の三男で、長男は幼い頃に大病を患い腎臓の一部を切除している。
その影響で私と次男は二人合わせても、長男と同じ価値を持たない存在としてだけ、家庭内に居場所を与えられていた。
長男は困る出来事と遭遇するのではなく、困りそうな段階で既に援助されていたけれど、私や次男が長男から怪我をさせられても、それほどの反応がなかった。
どれほど困っていても、苦しんでも、痛くても、自分の力で何とかするしかない。
そう思い始めたのは、いつ頃だったのかすら思い出せない。
あの女の子が私に見せてくれた母親に対する絶対的な信頼は、私が既に捨ててしまったもので、今となっては欲しいとも思わないガラクタへと相貌を変えたのだ。
最近、ようやく貯金が出来るようになり、予定では一年半後、彼女が大学を卒業した時に同棲しようと予定を立てている。
ようやく、勢いではなく安心して実家を出る準備が整ったのだ。
私はあの女の子のように親に対する絶対的な信頼を、持ち続けたかったのかもしれない。
しかし、それは私の人生にはさほど重要ではないもので、そういう運命の下に生まれたのだと思っている。
私が自分の子供を作るかどうか、今は全く分からない。
どちらかと言えば、欲しいとあまり思わない。
子供は好きだけれど、自分の子供は欲しくなどないのだ。
私の家系、血脈には呪いが掛かっているとしか思えない。
争いの本になる遺産や文化財も、全部寄付してしまおう。
美術館にあるものも、そのままにしておこうと思う。
血脈を必ず断絶させる。
私の人生はそのためにあったのだと、彼女に説得するつもりだ。