私は幼馴染にすら「お前が考えている事は分からない」と言われてしまう人間だ。
そもそも私は自分の話をする事が得意ではないし、自分について理解して欲しいとも思わない。
人それぞれの世界観の中で、好き勝手に人物評を作り上げ、都合よく「相手にとっての私」が練り上げられていくのだから、説明をする事自体が徒労だと思っているのだ。
好きなように思ってくれて良いというのが、私の正直な感想だ。
しかし、私が自分の考えについて口にしない事には他にも理由がある。
それは自分自身でも複雑であり、説明出来るように思えないのだ。
もちろん、気まぐれにその時々で言う事や考える事が異なるわけではない。
むしろ、恐ろしいほどに私の考えは変わらないので、複雑であっても説明をする気にさえなれば言葉に出来るかもしれない。
しかし、複雑であり説明する分量として膨大なので、それに付き合ってまで私の考えを理解したいと思う人がいないのではないか? という不安が、私の中にあるのだ。
さて、ここまで前置きした上で、今日は出来るかどうか分からないけれど、私の考えの根幹について言葉にしていこうと思う。
途中で挫折をする自分が容易に想像できるのだけれど、やってみない事には始まらない。
私について好きな考えを持ってもらって構わないと思いつつも、伝える努力を怠る癖を少し直したいところもある。
結論から言えば、私が最も重要だと考えているものはバランスだ。
なんだ、大したことないじゃないかと思われるかもしれないが、ここからが大変なのだ。
例えば勇気は美徳とされ、臆病は悪徳だ。
例えば乱暴は悪徳であり、慎ましさは美徳だ。
具体的な状況を想定しながら話を進めていくと、1人の男が別の男に対して気絶するほどの殴打を加えたとする。
これは乱暴であり、悪徳だ。
しかし、殴られた男が殺人を犯し逃げている途中であったとしたら。
この場合、殺人犯を取り押さえるために殴打を加えた人間は勇敢であり、これは美徳なのだ。
行動を見ていると同じ事をしているにもかかわらず、悪徳が美徳へ、美徳が悪徳へいくらでも変わり得る。
つまり、全ての価値を決定するのは「如何なる状況であるのか?」というこの一点なのだ。
良い人、悪い人などいないという話もここから生まれる。
良い人になれる状況が善人に与えられていたのであり、悪い人に成り下がる状況がその人に悪人に与えられていたと言える。
この話をすると良い人はいるし、悪い人も歴然としている、という話をされる事が多いのだが、その話が間違っているわけではない。
しかし、脱線が酷くなってしまうので今回は触れないでおきたい。
要は状況が人や物の価値を決定している重要な要素なのだ、という点を強調したいだけだ。
では、状況とは何か? と考えていくと、言葉になどできないものだと分かって来る。
なぜなら、状況は刻一刻と変化しており、具体的な状況というのはその場にしか現れない生き物のようなものなのだから。
状況が如何なるものかを判断するのは、その場にいる人間にしか出来ない。
状況が右に傾けばその場にいる人間がまっすぐ立とうとした時は左に重心が傾く。
さて、ここまで書くのに1時間経過しているという事で、私の頭はパンクしてしまったのでまたの機会に説明を続けられたら良いと思う。