昨日から恋人の友人2人が泊まりに来ていたので、料理をしたり洗い物をしたりとなかなか忙しかったように思う。
しかし、パパっと美味しいものを作って出せるようになったあたり、自分の成長を感じて嬉しい思いがした。
昨日泊まりに来た2人はちょくちょく我が家にやって来る。
とても良い人なので人見知りの私としても結構助かっているし、塩を入れ忘れたカルボナーラを食べても美味しいと言ってくれる優しい2人である。
私は恋人に対していつでも友人を家に招いて良いと言ってくる。
恋人の友人に対して何か氏らの執着があるという話ではなく、人をいつでも招ける家にしておきたいのだ。
私は問題のある家庭には家族以外の人が出入りし辛い事を知っている。
それは私の育った家もそうだったし、幼い頃に私の周りにいた友人の中にもそうした過程で育った人が多かった。
いつでも、誰かが来れる家というのは健全な証のように感じているからこそ、私はいつでも恋人の友人を招いて良いと言っているのだ。
そうして、私は健全な家に住んでいるのだと実感出来る。
恋人の友人を利用している形にならないようにするためにも、私は料理を作ってもてなしている。
そうでもしなければきっと罪悪感に負けてしまうだろう。
と言っても、私からおいでと言う事はなく、向こうから来たいと言った時に受け入れている形なので積極的に利用しているという話にはならないのだろうけれど。
今日の昼過ぎ、昨夜私が作っておいたサンドイッチをたいらげた恋人と、その友人たちが遊びへ出かけた。
何となく一仕事終えたような気持ちになった私は先月から始めている副業を進める事にした。
35歳までに年収1000万という目標を掲げているので、GWであっても完全に休みにならない。
しかし、血眼になって副業を進めるほど集中力はなかった。
15時過ぎに私は散歩をするために玄関を出て行った。
こんな明るい時間から表を歩く事は普段全くないので、いつもの風景にもかかわらず新鮮味が溢れている。
私は目が人よりも明るい茶色なので日光が後頭部まで突き刺さるように感じてしまう。
サングラスでも買おうかと思いながら、私は川を目指した。
いつもジョギングで使っている道は川沿いにある。
小高い作りになっており、川を見下ろすような形で延々と道が続いているのだ。
いつもは夕暮れからこの道に入り、刻一刻と濃紺に染まる空を眺めながら走っている。
しかし、今日は遠くまで見えた。
当然の事なのだけれど、日光に照らされている景色はどこまでも明瞭に、私の視界に移るものを浮かび上がらせていた。
GWの真っ只中という条件も手伝って、いつもならほとんど人がいない道なのに多くの人が走ったり、歩いたり、犬の散歩をしていたり、道の端に立ち止まり撮影をしている。
私は気分が良い時に散歩をすると、老人にも抜かされてしまうほど鈍重に歩く。
速度があまりにも遅いので筋力をとても使う歩き方なのだけれど、それでも私は鈍重に体を動かす。
自然と呼吸が深くなっていき、指先が空気に溶けていくような軽さに包まれるのが好きなのだ。
ゆっくりと動いていると、体の境界線と空気が混じっていくような、不思議な感覚がやってくる。
それが何とも言えない快感なのだ。
そして、いつも走っている道から離れ、私は川岸へ向かった。
日光を受けた川面は緩やかに光っている。
ここから200mほどしか離れていない場所を何度も走っているのに、初めて見る光景が眼前に広がっているのが不思議だった。
少し離れただけ、少し方向を変えただけなのに、私は全く見た事のない光景の中にいるのだ。
そんなものなのかもしれない、と私は何となく言いたくなった。
同窓会で同級生たちと「あの頃は若かった」だの「大人になった」と軽口を叩いていても、その実大して変わってなどいないのだ。
大人になったように思い込んでいるだけで、少し方向と距離を修正すればいつだって「あの頃」に戻れる。
体裁を整えるのが上手になっただけなのだろう。
そう思うと人が何となく愛おしい存在にも思える。
必死になって虚勢を張り、守る価値があるかどうかすらも疑わしい自尊心を守るためにあれやこれやと権謀術数を駆使するのだから。
幼い頃から現在に至るまで歩いた道のりは大した事がなく、昔と全く違うものを見ているようで角度を変えれば全く同じなのに。
そんな事を考えていると、外へ出て来たのに家にいるのと同じように考えているの馬鹿馬鹿しくなってしまい、慣れ親しんだジョギングコースへ戻って散歩を再開した。
いつもコウモリが飛び交っている空は突き抜けるような青さを佇ませ、初夏すら感じさせる日差しが少しだけ私の苛立ちを誘う。
空ばかり見て歩いていたのは、すれ違う人の多さを気にしない為でもあった。
私は人の顔をじっと見てしまう癖があり、すれ違う人に嫌そうに顔をしかめられる事がある。
だから、私は散歩の時は空を見ているし、普段は伏し目がちにして歩くようにしている。
なるべく人の顔が視界に入らないようにしたいのだけれど、やはり気が付くと見ているのだ。
気の強そうな人、怒りやすい目の人、背中の筋肉が弱い人、鬱なのか顔に生気がない人もいた。
ジョギングコースを遠くまで眺めてみると数えきれないほどの人がいる。
その1人1人がそれぞれの世界観の中で生きているのだと思うと、本当にこの世というのは不思議なものだと痛感した。
戻っているのか、向かっているのか。
同じ道を使っている人であっても目的や方向が異なればただ歩行しているだけなのに表現が異なる、受け止め方が正反対にすらなるのだ。
人と人が理解し合う事など土台不可能だと思い知らされたようにすら感じる。
それでも人は誰もが孤独感に耐えられない、誰かとどうにかして繫がりを持ちたいものなのだ。
だからこそ、私たちはあの手この手で人と繋がろうとする、お互いに異なる世界に生きている人間同士だと薄々自覚しながらも言葉によって相手との間隙を埋めようとする。
言葉というのは言の葉という意味だけれど、葉には病葉もある。
病に侵され、生気を失ったものも言葉に出来てしまう。
おそらく、一般的に考えれば陰口や人を傷付けるような言葉が病葉のような言の葉なのだろう。
心の表面すら撫でない、自分にとってただ遠くに感じられる言葉もそうなのかもしれない。
ふと視線を上げると、東京とは思えないほど自然に包まれている光景が視界に入った。
川を包み込むような山々が新緑に染まり、その上には白の強い水色の空が被さっている。
どれほど美しくても手の届かない新緑、空。
何気なしに私の人生とどこかが重なり合っているように思えた。
美しいものの数々がこの世にはあるけれど、私はそれを遠くから眺めているだけ。
手に入れようともせず、近付こうともしない。
けれど、美しいものをただ眺めている。
やはり、私は一人が好きなのだろう。
美しいものを求めて人は努力を重ね、大枚を叩くけれど私はそうせず、ただただ眺めているだけで良いのだ。