私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

昨日の事

昨日は二月に大阪でした講演を、横浜でやって来た。

 

緊張をしていたのだけれど、それが周りにはそれほど伝わらなかったようで一安心しているところ。

 

遠くから来てくれた人もいて、本当にありがたい話だ。

 

しかし、講演というのは本当に厄介なもので、人前で話している時には私が好きな事を言える。

 

相当に配慮をしているつもりであっても、やはり講演が終わるとあれは違うと思う、お前の話にはあれが足りない、これが言い過ぎだ等々のご批判を頂戴しなければならない。

 

素直に言えば面倒なのだが、人前で話す事はそうしたリスクがあると自覚しなければならない。

 

無料だから適当でいいだろう、は通用しないのだ。

 

だからこそ、私は涼しい顔で批判を受けてただ聞き入れるような姿勢を取っていたけれど、どうやら昨日の相手は目的が批判ではなく中傷だったらしい。

 

最初は批判のような体裁を取っていたから私は大人しく聞いていたのだけれど、相手が黙って聞いてくれると分かると尊大になるのが人の常なのだろうか?

 

私は、私の口から出る言葉に対して責任を持ちたい。

 

話す内容については熟考を重ねたい。

 

誰かに言われたから変えました、というのは責任転嫁なのだ。

 

誰かに言われた事を私の口から出したのならば、それは私が責任を負うべきものになる。

 

だからこそ、批判などについては私の考えに即しているものであればそのまま受け入れるし、そうでないのなら私の目的を伝え、その指摘は受け入れるつもりはないと伝えなければならない。

 

本来、議論はそのようにして洗練されていくものなのだが、議論と口論の見分けが付かない人もいるのが悲しい。

 

私のイメージで議論というのは赤くなるほど熱を放っている鉄を何度も槌で打ち、鍛え上げていくものなのだ。

 

しかし、私に対して槌を振るおうとして来る相手もいる。

 

打つ場所を間違えているという私の言葉すら、相手には攻撃に受け取られてしまい、より熱狂的な反応を引き起こす。

 

不思議とそれでも機会が与えられるのであれば、また人前で話そうと思っている。

 

講演をした後、批判を加えようとする相手には共通点のようなものがある。

 

誤解を生まないように丁寧に話をしているつもりなのだけれど、そもそも話を聞いていないのだ。

 

大坂でも横浜でも喉まで上がって来たのは「その誤解をさせない為に〇〇という話をした」という言葉。

 

まずは受け入れる、聞き入れるというのが私の得意な方法なので、そうした言葉は伝えなかった。

 

話を聞かず、好きなように私の話を整形されて曲解されるのは、これまで掛けて来た労力を足蹴にされるようなものだ。

 

当然、私は怒髪冠を衝くわけなのだが、その相手が今日私に手紙を書いたから受け取って欲しいと言うのだ。

 

もちろん、私は受け取らないし、送りたいなら送っても良いが読まずに捨てると言うと連絡して来なくなった。

 

悪い事をしても後で謝れば何でも許してくれる相手だと思われるのは癪だし、私を勝手に聖人君子のように見ていた相手の落ち度だと思う。

 

 

 

 

 

批判は確かにあったのだけれど、それ以上に身に余る称賛も受けたので昨日は結果的にプラスが多かった一日だったように思う。

 

私が25年前からお世話になっている英語の先生が夫婦で来てくれたし、栃木から国境を越えて東京まで来てくれた人までいた。

 

また不思議なもので大坂のお坊さんと鎌倉にいる私の知り合いがFacebookで共通の友人を持っている事も分かった。

 

会場まで来たけれど持病が悪化してしまい帰宅した知り合いもいたので、そこは本当に残念だったと思う。

 

英語の先生には数年前から血の繋がっていない息子だと言ってもらえるようになり、相当に愛情を注がれている。

 

そんな人だから昨日は講演が終わった後に褒めちぎってくれた。

 

気恥ずかしい思いはするけれど、内心でこの人が母親だったのならば私の人生も陰鬱なものにならずに済んだかもしれない、と感じた。

 

講演を終えた後、栃木の友人から言われた事にハッとしたのだが、私はやはり自分の話を普段ほとんどしていないらしい。

 

らしい、というのは自覚を持っていないからだ。

 

私は幼馴染にすら「お前の事は分からない」と言われてしまうほど、自分の話をしていないらしいのだ。

 

私としては本能をむき出しにして生きているつもりなので、何も隠していない自覚を持っているのだが、どうやら周りから見ると秘密主義な人物に見えるらしい。

 

というのも、ボランティアをするようになってから、私は人の秘密をよく耳にする。

 

誰にも言われたくない事、誰にも知られたくない事。

 

そんなものが私の中には溢れるほどある。

 

そうした事をうっかり漏らさないように、とかなり神経を使っていた時期があった。

 

その結果、私は自分の話や考えている事を一切口にしなくなってしまったのだ。

 

承認欲求が横溢している世間で、その正反対へとひた走ったのだろう。

 

だからこそ、余計によく分からない人物に見えるのかもしれない。

 

しかし、今の自分は結構居心地が良かったりもするので、多分この先もこの調子で生きていくのだろう。

 

もっとたくさん文章を書きたいのだが、低気圧で頭痛が酷いので横になろう。