私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

読書家なのに書評していない事実に気付いた

私は自分で文章を書くのが好きだ。

 

自分で文章を書く、と言うと「そんな事は当たり前じゃないか」と思われるかもしれないけれど、これは私にとって非常に重要な事。

 

自分の中から出てきた言葉を、自分のしたいような文脈で、自分の思いに即して書くのが「自分で文章を書く」という事なのだ。

 

だからこそ、世間のニュースを取り扱ったり、書評はあまりしてこなかった。

 

と言うのも、その場合はニュースあってこその文章、本ありきの言葉になるからだ。

 

つまり、自分の中から出て来たというものではなく、何かから刺激を受けた衝撃によって零れていく言葉であって、それは私の中から溢れたものではない。

 

私が文章を書く時、イメージとしてはコップに少しずつ水が溜まっていき、表面張力まで使って耐えてきた、抑えてきた思いが遂に最後の一滴でグラスの肌を撫でて零れていく。

 

そうなるともう文章書き終えるまで私の指が止まる事はない。

 

しかし、ニュースや本ありきの文章はそうではない。

 

まだグラスの半分も思いが溜まっていないのに、グラス自体を揺さぶって無理くり水を零しているような雰囲気がある。

 

なので、私はあまり書評などをしようとは思わなかったのだけれど、今はかなり関心を持っている。

 

読んだ本そのものが幹になり、そこから派生していく枝が私の感想のように思えたのだ。

 

本そのものには全く変化はないし、以前から私が思っていたようにやはり本ありきの文章には違いないけれど、枝ぶりは人それぞれであり、そこから出て来る感想には個性がありありと顕現している。

 

ちなみに私が諸表をしなかった理由は小説をそれほど読まないからでもある。

 

私が好んで読むものは文化論や哲学、心理学に関係するものであり、どう表現しても重量感がある。

 

仕事以外でそこまで本気になって文章を書く気にならないし、ただの説明や補足に堕落する気しかしなかったので書評などは控えようと思って来た。

 

私の人生は分水嶺に差し掛かっているのかもしれない。

 

私は今、とても小説を読みたい。

 

真実を見極めるとか、現実に即して有効な知恵を手に入れるとか、そうした事に時間や労力を使うのではなく、ただただ感動するためだけに時間と労力を使いたい。

 

さて、というわけで私の好きな小説を紹介してみたい。

 

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私が本気で小説家になりたいと思ったきっかけを作ったのは重松清の青い鳥。

 

彼の小説は短編集になっている事が多く、ご多分に漏れずこの本も短編集だ。

 

タイトルにもなっている「青い鳥」という話が私にとって衝撃的だった。

 

内容はいじめによって自殺未遂をした生徒が出たクラスの話。

 

大した事だと思っていなかった、アイツはずっと笑っていたのだから本気で嫌がっているはずがなかった。

 

都合良く解釈し続けた果てに、同級生が自殺未遂をしてしまった。

 

その重責をクラスの誰もが背負っている、まるでクラスの空気は重油に塗れているかのような汚臭と重量に包まれている。

 

この小説を読んでいる時、私の頭の中には柴田淳の「未成年」がずっと流れていた。

 

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中学生という半分死へ足を踏み入れている時期、見過ごすにはあまりにも重いクラスメイトの自殺未遂、繊細な時期に訪れた破壊的な重圧。

 

そこに現れた吃音の臨時教員、村内先生と生徒たちの話が掲載されている。

 

いじめとは何か? という問いに対する一つの答えがこの中に出て来た。

 

それと同時にいじめは決してなくならないだろう、という気分にもさせられてしまった。

 

人にはどうしようもない悪の部分があり、それを拭い去る事など決してできない。

 

生きる事は辛い。

 

この小説に出て来る中学生たちもそうなのだろうし、私個人を見てもやはりそうだ。

 

特に自殺願望が強いとか、病んでいるというわけではない。

 

ただ、生きる事は辛いのだ。

 

あらゆる重圧の中、必死になって生きる道を探し安住するところが見付かればすぐに寿命がやって来る。

 

今の苦労は10年後に覚えてさえいないかもしれない。

 

そして、振り返り人生の軌跡を眺めた時、私は生まれた良かったと言えるのだろうか?

 

やはりと言うべきか、私は過剰な感受性を持っているらしい。

 

多少、人より記憶力も良く生まれてしまったせいで、私には忘却から来る救いをそれほど感じられない。

 

忘れるから生きていけるのだ、人は。

 

傷付いた記憶も、嬉しい事も、全てをニュートラルへと戻せるからこそ人は「恐ろしいほどの逞しさ」を手に入れる事が出来る。

 

それを愚かだと言った哲学者もいるけれど、忘れるというのは生きる術でもある。

 

自己の持つ醜さを、繰り返した過ちを、反吐が出る打算を忘れるから、私たちは何十年という年月「自分」に耐えられる。

 

1秒として離れる事の出来ない「自分」を許し、慈しむ事が出来る。

 

全てとは言わないけれど、私は記憶の匂いまで思い出す事が出来るのだ。

 

もちろん、声も雑音も日の傾きも座っていた場所の感触も、何もかもが鮮明に映像のように見える事がある。

 

それに加えて、私には思春期よろしく過剰な感受性が備わっている。

 

こうやって書き出してみると、私が人と関わるのを極端に苦手だと感じる所以も見えて来るような気がする。

 

私はおそらく、人が羨ましいのだろう。

 

どうせ忘れる事が出来るんだから、と。

 

忘れる事が難しい私には少しのつまずきが、ささくれが、10年後の自分を苦しめる要因になる。

 

瞬間冷凍された記憶が年老いた私の首を絞めるかもしれない。

 

そう思うと、私の肩に自然と力みが生まれる。

 

そんな私の目から見るとあらゆる人がリラックスをして過ごしているのだ。

 

間違えてもやり直せば良い、というのは当然その通りなのだが、その根底には時間が嫌な事を忘れさせてくれるだろう、という楽観が揺蕩っている。

 

私に与えられていない救いを、誰もが当たり前のように持っているのだと見せつけられているようにすら感じ、私の精神は硬直の度合いを強めていく。

 

そうして私はまた周囲に対する壁を厚くし、一人の世界へ没入していくのだ。

 

 

 

 

中学時代、青い鳥に出て来るような出来事はなかったにせよ、異なる形での煩悶、辛酸があった。

 

せめて当時、私の記憶力が人一倍良いという事だけでも知っていれば、嫌な記憶を減らす事が出来たかもしれない。

 

先日、何年かぶりに「生まれ変わったらどうなりたい?」という質問をされた。

 

私は苔になりたい。

 

日陰でひっそりと、何もものを言わない苔。

 

目立つのを極端に嫌うくせに講演をしてみたり、こうしてブログに文章を書いているのだから人というのは本当に矛盾をしている。

 

久しぶりに書き出して止まらない状態になり、私の気分はとても弾んでいる。

 

1週間に1度で良いから、こういう日が欲しいものだ。