明日からまた仕事が始まるので休みの間にブログを更新しておきたいと思っていたけれど、休み最終日までダラダラしてしまうあたりがだらしないと思う。
しかし、最近は気温や気圧の乱高下でゾンビ状態になっていたので、そう考えるとブログを更新しなかったのは怠けていたわけではないと言えるかもしれない。
こんな風に自分への言い訳をしなければいけなくなったのは、一体いつからなのだろうか?
ブログを更新しなかったのは低気圧のせい、時間をうまく作れないのは忙しいせい、やりたいと口だけ開いて行動を移せないのは疲れているせい。
そんな言い訳を誰にしているのだろうか?
私の人生なのだから趣味や好きな事などは自分の好きな時に、好きなようにすれば良い。
出来ない事情があるのなら別にやってもやらなくても良いのだ。
それなのに些細な事柄に関してまで言い訳を探そうとしている。
充実した人生でなければいけないのだろうか?
人から見て幸福でなければならないのだろうか?
私は一体誰の人生を生きているのだろうか?
そう思うと中原中也の詩が頭に浮かんだ。
頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。
忙しくしていなければ落ち着かないというのは、私が不幸であるからだと言えるかもしれない。
幸福は休んでいるのだ。
明らかになすべきものを少しだけ持ち、それ以外をそれ以外だと考えられる人こそが幸福なのだろう。
趣味のくせにまるでやるべき事かのように考え、自分を追い詰めるための道具に変えている今の私はまさに愚鈍だと思う。
それでも私はやるべき事がなくなってしまうのが怖いと感じるのだ。
やるべき事がなくなった状態というのは用済みの烙印を押されたように感じてしまう。
数々のものに心を紛らし、目まぐるしいものに飛び付いては彼是と思考した気になる
そう言えば最近ニュースを賑わせている虐待の事件がある。
小学四年生の女児が父親から鬼畜の所業を受け、児相や母親からも見捨てられ無残に命を落としてしまった。
母親が悪い、いや児相がなっていないと世間が賑わっているけれど、1ヶ月後にこの事件を覚えている人が一体どれくらいいるのだろう?
人はそのようにして感情のはけ口を探しているのだろう。
少しタイミングがずれ、少し環境や状況が整えば自分が虐待をしたり、人を殺す十分な可能性を持っている人間だと気付かないまま、テレビに映る犯罪者が自己と隔絶された存在だと思い指弾する。
いつ自分が犯罪者として画面に映るか分からないという危険性を傍目にすらせず。
もし、亡くなった女児から私たちが学ぶ事があるとするのなら。
それは児相や母親を非難する要素を見付けようと目を皿のようにするのではなく、自分が同じような事をしないために何が出来るのかを探す事なのだ。
あの女児が私たちと同じ世界に生きていた人物だと思うのならば、ただ美辞麗句を並べ立てる私たちの偽善をより逞しくする存在ではなく、学びを与えてくれる存在だと信じるのならば、意識を外ではなく自己の内奥へと向けなければならない。
虐待の事件に限らず、何かしらの事件について世間が一様に同じ態度を見せている時、私の心は摩耗していく。
そのような感情的な態度が、自己に対して無批判な割には他者に対して必要以上に厳密な姿勢が弱いところにいる人やモノを潰しているのだと思う。
さて、ブログも更新したところで明日からの仕事を頑張ろう。
月末に待っている講演の準備も少しずつ整っている。