私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

自宅傍の公園で

先週から毎日のように違う人に会い違う話をしていたのだけれど、私にこんなに多くの友人がいただろうか? と自分を笑いたい気持ちになった。

 

それと同時にこんなに毎日誰かに会っていると、私が私ではなくなるような感覚に陥り、昨日と今日会う予定だった人とは会わない事にした。

 

人には系統があるらしく、人と会って気力を養うタイプと気力を失うタイプがいるのだそうだ。

 

私は明らかに後者なのだ。

 

人と会う事で気力を養う人と失う人がいるという話を耳にした時、精神を紙やすりで撫でられたような不快感があった。

 

人と一緒にいるのが好きだという人は、誰かからの気力を奪う事で英気を養っているのだと思う。

 

人と出会う事の素晴らしさ、人と関わる事の充実感、人と繋がる事で生まれる可能性。

 

そんな話を耳にするたびに嘆息が漏れる。

 

そういった事柄を強調すればするほどに利用される人間、搾取される集団を求めているように見えてしまうのだ。

 

もちろん、これは私の持っている被害妄想なのだけれど、世の中は私が想像している以上の汚濁の中にある。

 

自分を善人だと思い込む詐欺師が跋扈している世間。

 

疑って掛からなければ守れない自分。

 

本当は、きっと人生はもっとシンプルで、もっと生きやすいもののはずなのだ。

 

しかし、私はその道を逸れてしまった。

 

社会の波や流れに乗る事はもちろんできず、しかし社会の外で生きる術も道もない。

 

嘆息を漏らしながら、ただ傍観しているしかないのだろうか?

 

それが嫌だから色々な事に手を出してはいるけれど、満足するというのには程遠い現実が目の前にある。

 

世間的にはそう見えないらしいけれど、私はきっと欲の塊でやりたい事や望みが人並み外れて多いのだろう。

 

手に入らないものの数に打ちひしがれ、これまで失ったものの重さに耐えかねている。

 

それならいっそ絶望感に潰されてしまえば良いものを、私はおそらく桁外れの生命力を持っていて潰されないのだ。

 

一つ不安なのは私は絶望感を糧にして生きているし、実現しようと奮闘している事が現実のものになったとしたら。

 

私は何かを徹底的に壊してしまうのではないか、という事だ。

 

それは人かもしれないし、社会のある部分かもしれない。

 

絶望感を糧に生きている人間が力を持ってはいけないのだと思うけれど、私は欲深いので力を手に入れるまで諦める事がない。

 

これまでもそうだったように、これからも私は力を求めて何かをするのだろう。

 

虚しい人生だ。

 

私は小さな丘の上でただ静かに夜景を見ているだけの一生でも構わないのに。

 

誰とも会わず、話さず、理解せずされず、ただただ静かに夜景を見ているだけで良いのに。

 

我が家から10分ほどの場所にある夜景スポットでそんなことを考えていた。

 

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