来月から講演をする1年が始まる。
私のような若輩に何を伝えられるのだろうか? と考えていると何を話せば良いのか分からなくなってしまう。
話をもらったのは10月なのに来月に話す内容がまだ決まっていないのは不安で仕方ない。
ぼんやり本棚を眺めてみると哲学、心理学、社会学、歴史、神話、文化に関する本がずらりと並んでいる。
そのどれもに付箋が貼ってあり、重要な箇所はすぐに見返せるようになっているけれど。
結局のところ、これだけの本を読んでみたところで私は自分の言葉を紡ぐしかないのだ。
誰かの言葉を借りて、それらしい事を言おうと思えばすぐにでも出来る。
けれど、それでは意味がない、それは本を読めばわかる事であり私が私の言葉で話す必要がないのだ。
私が話す言葉はどこまでも私の匂いが沁み込んでいるものでなければならない。
借り物の美しい言葉ではなく、歪で直視すること能わないほどグロテスクであっても、私の主観によってしっかりと濾過されたものでなければいけないのだ。
そんな風に考えてみると、私の主観は私によって作られていない事実が面白くもある。
私は私の主観を通した言葉こそ借り物ではない、私自身の言葉だと思っているのに、その主観というのは経験や生まれ持った感性から生まれている。
私は経験を選べなかったし、どのような感性を持つかも選んでいない。
その不可避のものを通じて生まれた言葉が私の言葉であるのなら、私は話しているのではなく話を「させられている」。
どんな言葉を使うか選んでいるのではなく「選ばされている」。
自分が選ばされた言葉を見つけようと必死になっている今の私が滑稽ですらある。
それならばそれで明日一日で講演の内容を決めてしまおう。
話の流れを作っておいて、木曜日までに肉付けをしてしまえば終わりだ。
私は今まで何に悩んでいたのだろう。
こんな簡単に解決する悩みだとは思わなかった。