「この身の始末をどうしよう」
私は映画がとても好きで出来れば毎日でも観たいと思っている。
仕事は疲れるけれど長い時間働かないので、毎日でも映画を見る時間を作る事が出来るのが幸いだ。
冒頭のセリフは最後の忠臣蔵という邦画で出て来たもの。
桜庭ななみという女優の演技力を見せつけられた気がした。
このセリフを他の女優が言っていたら、私の心には残らなかったかもしれない。
言い回しが心の底から惜別を佇ませていたし、人生には抗いようのないものがあるのだと、そう言っているようにも思えた。
悲しいものや寂しいものが綺麗なのはなぜだろう?
人は誰でも生きる中で傷付くし、疲れる。
傷付いているだけでは、疲れているだけでは美しさは出てこない。
傷や疲労は生々しすぎるのだ。
そういうものが好きな人もいるのだろうけれど、私はそのタイプではないらしい。
作り笑いをしている中学生の頃の写真を見ている時のような、どうにもならないけれどただもの悲しい雰囲気が好きなのだ。
この写真を高校生の自分が見ても生々しい。
つい昨日の事だからだ。
しかし、ここまで時間が空いてしまうと、あの頃の自分と今の自分がほとんど繋がらない。
共通点らしきものなんてほとんどなくなっているのだから。
考え方も話し方も仕草も、何もかもが変わっている。
だから、そういう写真を見ても私の心は痛まない、ただささくれのように細やかな刺激があるだけ。
傷付いただけでは美しくない。
その痛みを受け入れようとし始めた時、ようやく寂しさが顔を出す。
この痛みと生きるしかない、受け入れるしか選択肢がないのだと思った時、痛みが諦めへと変わり始める。
諦めきってしまうのは違う、廃人まっしぐらの道に綺麗なものは何もない。
傷付きたくない、期待を諦めるしかない、それでも誰か傍にいて欲しい、それでも今は痛みが酷いから期待を持てるほど勇気が出ない云々。
そういう感情の相克の中でしか、私たちは生きる道を与えられていない。
その激しい感情の混淆が落ち着きを見出す場所が、切なさや悲しさ、寂しさなのだと思う。
「この身の始末をどうしよう」という言葉が、あの雰囲気が生まれるのはこの地点なのだ。
私はこれまで何を諦め、何を期待したのだろう?
諦めたもの、手放したものを数える行為そのものが何となく寂しい。
手に入れているものを数えるのではなく、私はいつまでも幻想の中に浸っていたいらしい。
私はやはり小説ではなくても良いから、文学の世界で生きていきたい。
世俗に染まろうと2年ほど思考回路を切り替えてみたものの、少しでも感動するものに出会ってしまうとその気持ちが首をもたげて来る。
最後の忠臣蔵もそうだし、先日放送されていたTHE Wもそうだし、関取花の曲もそうだ。
私の心を揺さぶるものが多い、多すぎる。
本当に私の手に届かない夢ならば諦めも付くけれど、こういうタイプの直感がある時にはどこかに居場所があるはずなのだ。
私のこれまでの人生の中ではこういうタイプの直感が外れた事がない。
文学の世界ではないかもしれないけれど、何か芸術の世界に私が見落としているものがあるはず。
早くそこを見つけて、呼吸をしたい。
私の精神は窒息しかけているような窮屈さに耐えきれずにいる。
この記事を書きながらずっと聞いていた曲を貼り付けておくので、寂しくなりたい人は聞いてください。