休みの日になるとどうしてもブログを更新したくなってしまう。
仕事がある日だと嫌というほど文章を書いているし、疲れているという事もあって自分の書きたいような事を書けない。
休みは貴重な自分の文章を書ける時間がたくさんあるので、それが一番嬉しい事かもしれない。
私は散歩をするのが好きでよく物思いに耽りながら川沿いを歩いていた。
今の家に越す以前は川がとても近くにあり、清流の音を聞きながらただぼんやりと過ごすのが本当に好きだった。
梅雨の時期になると蛍が飛ぶほど水が清く、夜になると奈落のように黒くなる川の表面が光を少し反射させていた。
あの場所でタバコを吸いながらココアを飲んでいると、私はこの時間を味わえただけで心でも良いくらいだと満足感を噛み締める事が出来たのだ。
私は特に死にたいとか、生きたいとか、そうした欲求がないのかもしれない。
あと10分の命ですと言われたら、出来るだけ身に周りを片付けてその時を静かに待つ事が出来ると思う。
それなのに文章を書きたいとか、音楽を聴きたいとか、そうした雑念の強さだけは尋常ではない。
執着をしているという事なのだろうか?
であれば、私は生を渇望している事になる。
渇望。
今何気なしに書いたこの言葉、渇望。
なんて良い言葉なのだろうか。
私が最近、何かを渇望した事があっただろうか?
それほど切実に誰かを、何かを求めた事があっただろうか?
おそらく、あるのだと思う。
私は期待する傍からそれが裏切られ、私が描いていた珠のように美しかった希望が無残にも散り散りになっているその様を見るのが嫌なのだ。
何かを渇望しようと思った矢先に、おそらくは反射のようにしてその期待を抑圧している。
期待をした後には悲しい思いが待っているというのが私の経験則であり、人生。
おそらく、多かれ少なかれ成人している人間は同じような面があるように感じられる。
大人になるという事は期待をしなくなるという事なのだろうか?
私はそうは思わない。
世間の同い年以上の人間を見ていると期待をしなくなっているのではなく、ただ鈍麻しているだけのように感じられる。
悲嘆に暮れずに済むために、懊悩の底に落ちないように、憎しみで自分を灰にしないために、大人になれば必ず保険を掛ける。
人生の中にある起伏を少しでもなだらかにしようと東奔西走しているうちに、人は疲れ果てていくのだ。
疲れている時には感情が鈍磨する、反応出来るものが少なくなる。
眠りに落ちる直前、誰かに話しかけられた時のように、刺激を受けた事を自覚していても体は動かない。
そう思うと人が動物である事を諦める点に、社会人の本懐があるのだろう。
何と切ない事だろうか。
私が愛する小説家、重松清は喉の内側を伝う涙があるのだと言った。
泣いているように見えなくても、大人はそのようにして泣いているのだと。
美しい表現だと思い、私はその言葉を何度も何度も往復した。
それでも私には分かる。
そんな大人などいるはずがないという事が。
大人になり家庭や子供を持つと、そのような感受性は殺さなければいけない。
仕事や金、対人関係に辟易としている最中で感受性は自分を殺す呪いにもなる。
あらゆる事に対して眠る直前の姿勢で臨まなければ、人の心など簡単に息の根が止まるのだ。
それが出来なければ社会不適合という烙印を押されるのだけれど、それに何の不都合があろうか? という気持ちがある。
私は社会不適合でおよそ一般的なものからかけ離れているらしいが、その状態に満足をしている。
夏目漱石は芸術家タイプの人間は「ものと自分の関係を味わう人」だと言った。
商人は「ものと自分の関係を改造する人」、学者は「ものと自分の関係を明らかにする人」。
私は何かを味わうというのがつくづく好きなようだ。
そう考えると私が川辺に座り込み、ただぼんやりと水の音とタバコがチリチリと燃える音をただ味わっていたのも理由が分かる。
皮膚の下に寒さが沁み込む今日のような日は、よくあの川へ行き煙なのか吐息なのか分からなくなっている白い気体をただ眺めていた。