私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

恨み言

二月に講演をしてみないか? というお誘いをもらって講師を務める事になった。

私としては人前で話すような大人物ではないと思っていたし、そもそも人前に立つのが極端に苦手なのでどうしようかと迷ったけれど引き受ける事にした。

機能不全家庭で育った私が闘病を経て、支援をする側へ移動したその経緯は話す価値があるという事らしい。

 

私は今でもボランティアを続けている。

先日もなぜか怒りの矛先を向けられ性犯罪被害者に対する理解が足りないと詰問されてしまった。

私としてはまだまだ若輩だし、精神の領域について知らない事が多すぎるので人前で話す資格があるかどうか判然としない。

けれども、大人になってから案外適当な人がプロとして働いている事実を知ったので、私でも別にいいのかな? くらいには思える。

 

商売は本当に苦手だ。

私から見てガラクタであっても、それに価値があると誰かが感じたのならば10万で購入する事はおかしな話ではない。

そうやって価値のないものにしか見えない何かが、言葉や雰囲気に装飾されて世に出ていく。

私としてはそんな金稼ぎに奔走している人たちの様子を見て、反吐が出そうになる事が今でもある。

 

商売が苦手なのではなく、商売人が苦手なのだろう。

あれやこれやと大げさに装飾をしながら話を膨らませていくその様は本当に下劣だ。

人生経験も人との触れ合いも何もかもが、一つの儲かるストーリーに繋がっている。

こんなに辛い事があった、でもこんな風に立ち直る事が出来た。

あんなに苦しい事があった、でもこれのお陰で成長できた。

 

そんな話を聞くたびに、私の精神が凍っていくのが分かる。

心が凍ると相手からのどのようなアクションであっても、私には全く無意味なものにしか感じられない。

称賛も罵倒も何もかもが鳥の鳴き声のように、駅の中で聞こえる人の足音のように、手を洗う時の水の音のように、何の意味も持たない音へと変わる。

 

金や酒、女(男)が好きな人間の顔には特徴がある。

こういうものが好きな顔付をしている人たちに対して、大抵私は嫌悪感を抱く。

女(男)が好きなだけなら良い、酒が好きなだけでもまあ許容範囲だ、しかしそこに金が好きという要素が加わると一気に顔付きが腐っていく。

狒々のように顔が緩みつつ、鮮魚店のような生臭さがその顔付から漂っている。

そのくせ当人たちは人からの目を気にして装飾品や髪型、服装にやけに金を掛けているのだ。

汚物を装飾したところで、豪華な汚物にしかならないという事実を彼らは知らないのだろうか?

それとも自分の顔付きが何を物語っているのか気付いていないだけなのだろうか。

何にせよ、私から見れば裸の王様にしか見えない。

 

私としては出来るだけ穏やかに、金の心配をしない程度の稼ぎの中で生きていきたい。

金を思い切り稼ごうとすれば、私も腐るしかない。

そんな風になっては生まれた意味すら見失ってしまいそうだ。

 

私は欲に塗れるには神経質過ぎる、潔癖過ぎる。

私自身の中にも欲があるにもかかわらず、私はそれを肯定できない。

昨夜見た「三度目の殺人」という素晴らしい映画の中では、贖罪や裁きがテーマになっていた。

私は私の中にもある欲望を許せないからこそ、欲望をあからさまに肯定している商売人たちを裁こうとしているのかもしれない。

 

人は必ず死ぬ。

生まれた時に何も持っていないように、死ぬ時には生きている中で得た全てを捨てていくのだ。

友人も愛する人も趣味も体も、もちろん金も捨てて旅立つしかないのだ。

いつか捨てると分かっているのに、それでも得ようとしているのはなぜなのだろう?

生きるというのは誠に業が深いものなのだ。

 

堕落していく事でしか生きていけない人間の一人である自分を、切なく思うしかない。