気品とは何かについて最近よく考えるのです。
ようやく夏が終わり、祭りに忙殺される日々から解放されました。
毎年五月からの九月に入るまでは祭りの事ばかりが頭を過ぎります。
15歳の頃から踊りの先生をしているので、それなりの数の子供を見てきたのですが、その中で一人一人が異なる性質や才能を見せてくれるのが楽しくて仕方ありません。
その中でも上品な踊りが出来る子供が稀にいるのです。
ちなみに祭り囃子でするような踊りというのは、性格がそのまま出ます。
大人になっても性格がそのまま表現されるので、普段強がっているような人であっても踊ってみるとどういう人なのかがよく分かるのです。
ですから、上品な踊りが出来るという事は、生来持っているものが気品あるものなのでしょう。
じっとその子供を観察をしてみると、上品さというのは綺麗に型にはまる事のようにも思えるのです。
型にはまるというのは現代社会では忌避されがちなものでもあります。
自由や個性の重要性は声高に叫ばれますが、型にはまるというのは自分の人生を生きていないかのようにすら言われるのです。
しかし、既にある型にはまろうとする時、ありのままでは必ずその枠の外に飛び出す部分や不足している部分があります。
だからこそ、人工的に研磨したり何かを加える事によってその型が綺麗に表現されるように努めるのが稽古の意味です。
綺麗に型にはまるためには尋常ならざる努力を要します。
それが無意味なはずがありません。
ましてや、自分の人生を生きていないというようにすら言われる事が、個人的に悲しいと思っています。
なぜその型が生まれたのか? という点を見落としているように感じるからです。
伝統芸能や武道などの場合には長年掛けて先人たちが研究し、最も重要な要素のみを残しているものが型となって残っています。
つまり、これ以上に洗練されているものはないのです。
洗練されているからこそ、無駄もありません。
時として、その無駄のなさは冷酷非情にすら感じる事がありますが、人情味などを求めていては必ず無駄が残ります。
そうして何百年と掛けて培われてきたものが型なのです。
最初から綺麗にはまれるはずがありません。
つまり、この場合の気品というのは無駄のなさ、洗練されている様子だと思って良いのでしょう。
綺麗に型にはまれるほど自分を鍛え上げたという雰囲気が、そこに気品を生むのかもしれません。
個人的には空手でも型の選手をしていましたし、伝統芸能でも踊りのように目立つものをしていますから、型がいかに重要なのか自覚しています。
しかし、世間では個性や自由を礼賛する雰囲気が芬々としているのです。
私自身が上品な人間ではありませんから、あまりにも気品を大切にしていてもおかしな話ではあります。
それでも気品のあるものを見ると心が動かされるのは、ないものねだりなのかもしれません。