八月という事で戦争にまつわる話をもう少し進めてみようかと思ったのですが、それは今回やめておく事にしました。
最近、私がよく感じている事について書き進めようかと思います。
私が最近よく感じるのは目的とは何なのだろうか? という点です。
目の前の事に追われ続けていると、どうしてもそれが「何のために?」という目的の部分が朦朧としてきます。
遠くにあるものというのはそれだけ視界から外れやすいですから。
どうしても目の前にある手段の方へと意識が集中しがちなのです。
気持ちはよく分かります。
しかし、それが何のための行動、意識なのかという点が朧げになってしまっては、行動や意識そのものの価値が忽せになってしまうのではないでしょうか。
まずあるべきなのは状況を踏まえた立ち振る舞いではなく「本来、俺はこうしたいんだ!」という意識だと思います。
もちろん、それは最終的に行動を起こす段になれば状況を加味し、本来の理想通りにはならない展開を迎えるでしょう。
だからと言って「本来、俺はこうしたい!」という目的や理念の部分を失ってしまっては、風が右なら右を向き、左なら左に阿る風見鶏にしかなりません。
状況と理想の間での摩擦の中で戦っているのだと思えばこそ、そこに「その人らしさ」なるものが滲み出てくるはずです。
そして、この「その人らしさ」という部分こそが、いわゆる自分探しなどの目的でもあるところの「自分の人生」を生きている証に他なりません。
個性を妙に称揚したいわけではないのですが、私が違和感を覚えるのは「自分らしさ」を自分にとって都合の良いもの、受け入れやすいものだとしている風潮です。
私が敬愛している哲学者キルケゴールは、絶望している人間は自分の救われたい方法で救われたいのであり、それ以外の方法では救われようとしないのだ、と言いました。
これに似たような構図があるのではないでしょうか。
個性と呼ばれるものは所与のものですから、自分の都合や好みに合わせて整形出来るものではありません。
しかし、人はこれを求めます。
自分らしさとは約めれば「自分の欲しいもの」以外の何物でもありません。
こんな個性は欲しくなかった、と思うものもあるはずなのですが、それには光が当たらないように無自覚のうちに行動しているのでしょう。
その心性の中にあるものは、自己を最上のものとしておく近代的な考え方なのです。
選択の自由や権利云々によって汚された精神の瞳に映るものは、自己にとって都合の悪いものを捨象したものばかりになります。
自由なるものはどこにもないのだという地点から自分や世界を見つめた時、見えて来る光景は相貌を変えるでしょう。
もちろん、その中には受け入れがたいものがありますが、甘美な妄想よりも辛辣な現実の方がおそらく後代のためにもなると思います。
さらに言えば辛辣が現実ですら個人に都合よく切り取られたものと言える面がありますから、そうなるとこの世に真理などない、という話になります。
この話はどうしても本題と脱線してしまうのですが、面白い部分だと思います。
今回の記事で言いたかったことというのは、目的意識の重要性と、現実と理念より生まれる摩擦に耐え得る自己を作るためには例え都合が悪かったとしても、所与の個性を認める忍耐力を養う必要があるという事なのです。
これ以上散らかる前に終わりにしておきます。