今日は一番古い幼馴染と居酒屋を回って来たのですが、そこで結構面白い話になりました。
ケアやサポートをするべき相手に対して先回りしてするべき事、すべきではない事を伝える行為は相手の失敗する権利を奪っているのではないか? という話だったのです。
帰りの電車内でずっとこの事について考えていたのですが、なかなか面白い話だと思います。
仮に人が失敗から学ぶ事によって成長するのだと仮定すれば、その成長の機会を誰かの判断によって奪う事に繋がりかねません。
失敗をする事も人の生きる道の中ではとても重要な要素を持っています。
私たちは自分の失敗を反省する事によって同じことを繰り返すまいと思うのです。
ただ理屈を教わっただけで〇〇はいけない事なのだ、と思うのではなく、そこに宿る失敗から受けた痛みや苦しみ、後悔という実感があればこそ繰り返すまいと感じるのでしょう。
骨を折った事のある人とそうではない人では、骨折について語る時の心情が全く異なります。
それと同様に私たちは生きている以上、この実感こそが最も重要なのではないでしょうか?
例えば道理という言葉があります。
江戸時代の日本では活道理(かつどうり)と死道理(しどうり)という概念がありました。
現実に即してよく応用が利いている道理を活きている道理、つまり活道理と名付けたのです。
死道理はその正反対で理屈としては正しくても、現実に応用が利いていない道理であり、それは死んでいるから死道理と呼ばれていたのです。
私たちは当然生きています。
そして、社会を構成しているのは生きている私たちです。
生きている私たちが作る社会もまた生きており、そこに通用するのは生きているものだけだといって良いでしょう。
その上で考えてみると、実感のある話や経験とそうではないものも同じような関係にあるのだろうと思います。
失敗には辛く苦しい実感が伴います。
出来ればしない方が良いでしょう。
しかし、不完全な人間である私たちは失敗を避けて通れず、だからこそせめてそこから学ぼうとするのです。
もちろん、どれほどの失敗や後悔を重ねても私たちは新しい失敗を繰り返すものです。
何をしても失敗をするのなら、学ぶ努力それ自体が無駄ではないか? という話もよくあります。
失敗をするか否かという問題も重要ですが、失敗をしないためにどれほど奮闘したのか? という点はさらに重要です。
出来る事を尽くしても失敗をしてしまう、それが人間というものです。
しかし、結果として失敗ばかりならば成長する努力を放棄するというのでは、私たちは一体何のために生きているのか分かりません。
人間の人生は失敗や挫折が多くありますが、だからこそ味わい深いものへ変わっていくのです。
そこに漂う後悔や悲しみ、怒りや落胆の実感があればこそ、他人の失敗に寛容になり、本当の意味で許せる心が養われるのではないかと思っています。
もし、失敗をしない人生を歩んだとしたら。
そんな自分を本当に人は愛せるのでしょうか?
一見すると正しく「見える」だけの理屈にしたがって、失敗も出来ないような環境に置かれ、一面的な正しさだけを妄信し、自分にとってではなく誰かにとって都合の良い「正しさ」の中できっと心は窒息していくでしょう。
大きく言えば、自分の人生を歩むというのはまだ見ぬ目標へと続く獣道を歩いているようなものです。
そこに正解はありません、あるのは必死に足を踏み出そうとする自分だけです。
その一歩は目標から遠ざかる方向へ出てしまうかもしれない。
それにも気付かず、必死に体力を削っているのかもしれない。
それでもその方向が正しいのだと信じる力が、人生を歩む力なのだと思います。
こちらの道が正しいのだと先回りして言われてしまうのは、その必死な自分が嘲笑されているようにすら感じられる時があるでしょう。
私なら「お前は俺の道を歩いた事もないくせに、何を分かったような口を利いているんだ」と怒鳴りたくなります。
相手を一人の人間として、自分と同じ土俵に立つ人物として尊重するのであれば、過度な手出しは無用なのだと感じました。
なかなか難しい事ではありますが。