今度、虐待児の支援をしたいという人と話す機会があるのだけれど、私としてはどうしたら良いのかよく分からない。
私は専門家としてそうした人たちに関わっているわけではないし、あくまでもボランティアという範囲でコソコソ動き回っているだけだ。
その道の先達のように扱われる事について、私はあまり自信がないし、そんな風になりたいと思っているわけではない。
ナイチンゲールが言ったように経済的基盤を持たない慈善活動は頭打ちになる、という現実は嫌と言うほど知っている。
おそらく、もう専門家として関わっていかなければいけない段階なのだという事も自覚している。
そのために様々な技術を磨いてきたのだから。
それでも私はボランティアの枠を出ようとは思わない。
結局のところ私の精神にはスラムの血が溶け込んでいるのだ。
お金を払える人達に私の支援は必要ないと、そう思っているところがある。
金を出せばいくらでも支援が受けられる。
それが叶わない経済的困窮の中にいる人たちに、僅かでも何かしたいというのが私の願いでもある。
きっとかつての自分を投影しているのだと思う。
刀折れ矢が尽きた状態で背負うものばかりが重く圧し掛かっている人に何かしたい。
そう思い続けているのだけれど、やはりここに来て資金繰りなども考えなければならなくなったのは、そろそろボランティアの領域を出ろという事なのかもしれない。
もう少しだけ、この地点でウジウジと考えていたいのが本音。
さて冒頭の話に戻るのだけれど、なぜ彼女は虐待児のケアをしたいのだろう?
何か支援をしたくなるような背景があるというわけではないらしい。
もちろん、やりたい人はやれば良いので私はそれを止めようとは思わない。
しかし、気になるところはやはりある。
本当に居丈高な言い方になるし、お前は何様なんだと言われるのを承知で書くけれど。
本人が持っている問題を何かに投影をしたり、何か自分の問題以外のものに焦点を当てる事によって目を逸らしている人たちもいる。
これは悪い事とは言い切れない。
時間を掛ける必要がある人の場合、何か他に集中するものが見つかるのは良い事だからだ。
こうした良い面はあるにせよ、やはりどこかの時点で自分自身と向き合わなければならない。
そうしなければ痛みや不快感はいつまでも付きまとうし、何をいくらやっても満たされないだろう。
こうした活動に打ち込みたいという熱烈な人に対しては何とはなしに、自分の不安定さを何かに打ち込む事で見えなくしようという雰囲気を感じてしまう事がある。
やらない善よりやる偽善の方が優れているというのは分かるから、私は行動しようと思う人を止める事はないけれど。
茫洋としている何かが私の中にはある。