私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

理性と本能

最近、理性と本能について考える事が多くなりました。


これまでは漠然と考えているだけだったのですが、先ほどとあるツイートを見たのです。


その内容というのは異性同士で惹かれ合うのは遺伝子を残すために当然だが、同性同士で惹かれ合うのは相手に惹かれているのだから本当の愛だ、というものでした。


このツイートはそのものに反論があるというわけではなく、昨今こうした風潮が強くなっているなと感じているのです。


こうした風潮というのは理性的である事は本能的である事よりも上等だと暗に仄めかしたり、明に断言するという流れの事を言っています。


先ほどのツイートでもやはりそうした雰囲気が漂っています。


さて、ここで私が気になるのは理性的であるという事は、本能的である事よりも本当に上質なものなのかどうかという点です。


結論から言えば、無個性によって理性が称揚されているだけだと考えています。


順を追って説明をしていきます。


まず人はなぜ理性的なものに惹かれるのか? という点についてです。


端的に言えば、人が理性に惹かれる理由というのは格好が付くからだと考えています。


格好が付くと言ってしまえばあまりにも大雑把なのですが、本能には理由がありません。


本能というのは理由がない情動だからこそ本能と言えるのであって、そこに明確な言葉によって説明が可能な理由があるのならば、それは本能ではなく理性に基づいた心身の動きとなります。


つまり、理由は分からないけれどそうなっている抑えきれない衝動のようなものです。


もちろん、一面的な説明をする事は可能でしょう。


たとえば、恋人と別れてしまったから悲しいと本能の動きを説明する事は出来ますが、これは一部を説明しているだけであってその全てを明らかにしているわけではありません。


物事は必ず多面的であり、さらに見る角度によって一面であってもその意味合いや価値の比重が変化するのですから、言ってしまえば尤もらしい言葉を後付けして本能的なものから生まれた情動などの体裁を整えているだけです。


ここからも分かるように人は本能によって揺り動かされているという自分を隠そうとするのです。


服を着るようなものでしょうか。


一人の時なら裸でも構わないけれど、人前に出るのならば相応の服装が必要になります。


本能をそのまま誰かに開陳するのは躊躇われるけれど、理性の衣を与えれば人に見せても全く恥ずかしくないものになりますし、その衣装が上等なものであればあるほどむしろ見せたいという思いが生まれてきてもおかしくありません。


それと似たようなものなのかもしれません。


ですから、理性というのは社会的な生き物として生きていく我々にとって、最低限身に着けておかなければいけない暗黙知のようなものです。


理性的であればあるほど、そしてその理屈が洗練されればされるほど価値のある衣や装飾品と同じような効果を発揮します。


だからこそ、理性的であることは人を魅了するのでしょう。


美しい人や服飾品に惹かれるのと同様の理由によって。


先ほどのツイートの内容に関しても、私が感じたのは確かに本能、つまり性欲によって異性を求めているよりも相手の精神性に惹かれているとした方が洗練されているように感じます。


しかし、現実はそう簡単にはいかないというのも事実なのです。


なぜなら、どれほど理性を洗練させたとしてもそれはやはり衣装であり装飾品だからです。


それを身に着けている本人には微々たる変化も及ぼさない、自分の外側からの評価が変化するだけだとも言えます。


また先ほども多少触れましたが、理屈というのは必ずと言って良いほど後付けされたものです。


初めにあるのは本能の動きであり、それは快、不快のようにとても単純ではあるけれど強烈な情動だといって良いでしょう。


そして、そこから生まれた心性を「人に見せるために」必要なものとして理屈を洗練させていくという流れがあります。


つまり、我々は社会的存在である事よりも優先して「本能的な動物」なのです。


ですから、理性的なものは確かに洗練され体裁を美しく整えてくれるものですが、それが現実に必ずしも通用するとは限らないという展開になります。


なぜなら説明やコミュニケーションというのは言語などを含む表現によって行われますが、その行動の核となる部分は本能であり、そして本能の動きは理性の働きよりも強力だと言えます。


一見すると理論と理論がぶつかっているように見えるような場面であっても、何枚か皮を剥いてみればただ本能同士が衝突しているだけという事も少なくありません。


時として机上の空論と呼ばれるのは現実に通用しないものの事なのです。


ちなみに荻生徂徠は現実に通用しない机上の空論になっている理屈を死んだ道理だと考え「死道理」、そして現実にしっかりと噛み合い効果的な影響を与える理屈を活動している道理として「活道理」と名付けました。


それでも私たちは言語コミュニケーションを含む表現によって自分の気持ちを伝え、相手の心を理解するしかありません。


特に言葉によるコミュニケーションでは顕著ですが言葉を理解しようとする理性の働きに没頭してしまうと、相手が言葉という理性を使って「相手の本能的なもの」を訴えているのだという点を見落とします。


おそらくディスコミュニケーションはここから生まれていると思うのですが、脱線してしまうのでこれはまたの機会にしておきます。



人が理性に包んで見えなくした本能を訴えているのだという点はとても重要です。


この点を明確にしておくと最初の方の文章とも絡んできますが、人がなぜ理性に惹かれるのか? という理由の一部が炙り出されるようにして見えて来るからです。


服の例えなどからも明らかなように理性的であるというのは「自分を見る人」に対する表現の一種だと言って良いでしょう。


つまり「人からどう見られるのか?」という点に比重が掛かっているのが理性の側面なのです。


必然的に本能というのは「自分の事を自分自身がどう思っているのか?」という側面を持ちます。


私がずっと抱いている理性の方が本能よりも上等だとする流れに対する違和というのは、理性的であるという自分をいわば演出する事によって相手から見た時自分がどう映るのか? という観点に極端な偏りがあるように思えるからこそ生まれたものなのです。


自分の人生を自分で生きている実感や覚悟などの薄まりをそこに感じてしまいます。


いつでも本能的であれとはもちろん言いませんし、そうなった場合には明日にでも法令違反で塀の中へ行く羽目になりますから、そこまで極端な事を訴えたいわけではありません。


人からの見た目や評価にばかり気を配り、自分の人生の舵を明け渡してはいませんか? という点を訴えたいのです。


自分自身の決断だと考えるからこそ、それは従えない、それは受け入れるという判断も出来ますしその結果として起きる出来事に対しても自分自身が受け止めようと思えます。


個性を発揮していく、自分の人生をしっかりと生きているという実感を得るためには一身が独立しなければなりません。


個性の話に深入りするとまた脱線するので今日はやめておきます。


最終的に自己の判断や行動の結果の責任や実りを引き受けるのは自分自身でしかありません。


どのように評価されている人間であろうともそれが不文律なのです。


理性的な面を磨くのであれば、それに似付かわしい本能が求められると言って良いでしょう。


また今日は触れられなかったのですが、本能には人が嫌忌する要素が多分に含まれますから、そうした意味でも本能の彼岸にある理性が称賛を受けているという面もあります。


特に性的な部分などに関してはこの傾向が強いのかもしれません。


あちこちへと脱線をしてしまいましたが、結論としては「人からの見た目」を整える方向に考えが偏っていった結果、そこには多くの人に認められる「無個性」な自己が出来上がっているという話でした。