私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

社会性と個性

一般的に良いとされるものを決める事は出来ても、具体的に良いものを決めるのは状況次第なのだという話があります。

 

例えば、人の話を聞くというのは一般的に良いとされていますが、自分の意見を求められているという状況の中で相手の話を聞こうと黙り込んでいれば、それはまことに不誠実な対応として指弾されてしまいます。

 

具体的状況の中では善悪は必ず生まれるのです。

 

もちろん、その善悪も解釈次第というところがありますから、それぞれにとって良いものがそれぞれ存在するという話になり、あなたはあなたの、私は私の解釈によって善悪を判断すれば良いという事になってしまいます。

 

つまり、この観点から生まれるのはあなたと私との絶対的な隔絶であり、お互いを相容れない存在だと認めるという意味になるのです。

 

「あなたはあなたの好きにすれば良い、私は私の好きにします」と宣言をするようなものだと言って良いでしょう。

 

しかし、そのような考えのみに従って人が生きていく事はこの上なく困難なのです。

 

なぜなら、あなたは私に、私はあなたに影響を与えているのですから、お互いが全く異なる善悪の基準に基づいて行動をしてしまえば、相手の行動による不利益を自分自身が被るという展開になってしまいます。

 

最も分かりやすい例で言えば、相手は自己の利益のために私の所有物を手に入れたいと思い、そのために私の命を狙うという状況があります。

 

これは相手にとって善ですが、私にとっては所有物どころか命まで奪われるのですから最悪なのです。

 

しかし、あなたはあなた、私は私の善を求めてそれぞれ生きていけば良いという世界の中では、私のとって最悪な論理が通用してしまいます。

 

それ故に私は私の安全という善を求め、相手が攻撃を始める前に先手を打つという意味で襲撃するというのも認められるのです。

 

あなたはあなたの好きにすれば良い、私は私の好きにします、という話の恐ろしさはここにあります。

 

ですから、一見すると何も非の打ちどころがないようにすら感じられる個人の自由、人それぞれの解釈を認めるという話は「社会性」という観点から見ると大いに危険なものであり、むしろそれを抑制するところが求められるのです。

 

道徳心というのはこうした「社会性」を担保するために生まれたものだと考えて良いでしょう。

 

あなたはあなたの好きにして良いのですが、それは「誰かの不利益にならない」範囲内においてという条件が付きます。

 

この枠の中であれば何をしても構わないのです。

 

例えばこの枠の外に出れば法治国家では法の裁きを受ける場合もあります。

 

「誰も犯罪なんて犯さないでしょ」という話はもちろん理解出来ますが、この薄まった形、やんわりとした矯正、つまりあなたの好きにして良いという発想を抑制しようとする行動を、私を含めて人は非常に多く取るのです。

 

例えば陰口などもそうしたものですし、期待が裏切られたと嘆く行為もそうでしょう。

 

最近耳にした話だとフォロワーの中に相手がいるのに直接伝えず、ツイッターで批判めいた事を言うというのも、相手を操作しようとしている行動の1つです。

 

このような行動を通じて相手を制限しよう、何とか自分の心地良い範囲内に収めようとしている人は少なくありません。

 

誰もが人の自由な解釈など認めてはいないのです。

 

あの手この手で自分の思い通りに相手を整形しようとしている、相手にとってではなく「私にとって」良いものに改造しようとしているのです。

 

自由や人それぞれという話を耳にすると、どうしても贋物を見せられたような気になるのは「社会性」を無視しているからなのです。

 

社会性は強制を個性は任意を司ります。

 

この相克の中で人はバランスを取るしかないのです。

 

任意に傾けば放縦、放埓の限りを尽くす獣の道に堕落しますし、強制の道を行き過ぎれば精神性が失われ機械にも劣る機械もどきのような人ばかりになります。

 

どちらが良いとはっきりとは言えないのは確かなのですが、そこでいかにしてバランスを取ろうかと努力するか否かがとても重要な分かれ道になるのでしょう。

 

さて、今日これから考える材料は社会性と個性という事にしてみます。