予定説
この世にはどうにもならない事がある。
私の世界観の中ではどうにもならない事”しか”ないのだ。
これはもちろん、暗い意味でもあるけれど明るい意味でもある。
どちらの意味にもなるので、明暗は特にないと思っている。
生まれる事が自分の意思ではない以上、その上に重なる全ての出来事はやはり運命と呼ぶしかなく、それは自分の意思ではないのだ。
どのような体を持つのか、どのような家庭で育つのか、そしてどのように生きていくのかすらも自分の意思とは全く関りがない要素によって決定される。
好物を自分で決められる人はいないし、誰に恋をするのかを決定できる人もいない。
告白されて自分から付き合おうと思ったのだから、それは自分の意思ではないのか? という話もあるかもしれない。
しかし、誰に告白をされるのかを決めていない上に、告白されて付き合おうかどうかを悩んだのであれば、やはりそれは相手の出方によって起きた出来事であり、自分で起こしたとは言い難い。
状況が、運命が自分に選択を迫ったのであり、自発的に選び取ろうとしていない以上そこに意志は介在しないのだ。
”自分で決めた”と思い込む事は出来るだろうけれど、そこには決定した意思らしきものはない。
もちろん、全ては運命の仕業だというのも思い込みなのだろうけれど。
どの角度から見るのかによって、物事が正反対に見えてしまうものなのだ。
そして、その角度は自分で決定できない。
生まれる、育つという過程の中で得た様々な感覚、経験が角度を作っていくのだから。
結局、私はニヒリズムの連環から抜け出すこと能わず、このまま生きていくのだろう。
私はそれに満足というわけではなく、そういうものなのだと受け入れる心積もりなのだ。
そうした運命なのであれば、それを受け入れようと思っている。
全ては予め決められており、何が出来るのか出来ないのかすらも決定されている。
もちろん、私の賢しらが及ばない広範囲に渡って決まっているので、何が出来るのか出来ないのかについては、私が決める事は出来ないし、知覚すら不可能だ。
それならば、やってみるだけやってみようと思う。
やってダメなら諦める、出来るのなら続ける。
つまり、ここでニヒリズムから脱する事が出来るのだが、やりたい事は何でもやってみようという話に繋がっていくのだ。
全ての物事は所与のものとして決定されているのだから、やりたくても出来ない事がある。
やりたくなくても出来る事がある。
やりたいか否かよりも、出来るかどうかにまずは重点を置いてみたい。
これが私を貫く考えであり、長年持ち続けて来た大切な信念なのだ。
その根底にあるのは無我であり、我だけではなく全てのものが虚構という発想だ。
無常なのであればこそ、全てのものはその瞬間だけに現われる蜃気楼のようなものでしかない。
今を生きるという事こそが人生なのであれば、その蜃気楼を愛する事が人生を愛するという意味になる。
次の瞬間に消えてしまうと分かっているからこそ、人は物語を作る、あれこれと理屈をこねて次の瞬間に失われるものを心に残そうとするのだ。
10年前からずっとあなたを知っているというフィクションは、それだけ愛着を持っていますという意思表示になる。
10年前のAさんと、今のAさんは全くの別人にもかかわらず、同じAさんを知っているという幻想を抱くのだ。
そう思わなければ、今のこの瞬間しかないのだと分かってしまえば、人生を生きるのはあまりにも辛過ぎる。
人は物語の中に生きているのだから、全員小説家みたいなものなのかもしれない。
それを文字起こし出来る人間が、小説家として生きていくのだろう。
結びが小説になってしまったのは、今日こそ書くぞと気合を入れていたのに一文字も書けなかった自分を慰めるためなのかもしれない。