私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

性に関する話

普段はあまり書かないけれど、今日は性に関する話をしてみたい。

 

本来は薬膳の勉強を続けなければならないのだけれど、どうしても書きたい事があるとキーボードに触れてしまうらしい。

 

さて、性に関する話。

 

と言っても、世間でされているような下世話な雰囲気の話はできないし、そんな経験はない。

 

私は以前からセックスが相当危険なものなのだろう、という感覚を持っている。

 

心が不安定になれば肉体関係から異様に距離を取るか、異様に近付くかどちらかしかないのだ。

 

異様に距離を取る場合には人との触れ合いそれ自体を拒絶する展開すら待っている。

 

たとえば、同性から抱きしめられたり、手を握られる事にすら抵抗感を覚えてしまう人もいる。

 

若干、脱線するけれど急遽今月からスーパーカウンセラーと慕っている人が、弟子を取ってくれるのだとか。

 

今月から私も弟子入りする事になったのだけれど、その人曰く親からの愛情が不足している場合には、人との接触を避ける傾向が強くなるのだそうだ。

 

肉体関係以上に密接な接触はないのだから、それを避けてしまうのは当然なのかもしれない。

 

若しくは性依存になってしまうような人の場合には、自傷行為の一環として求めている場合が多いように感じる。

 

ある人は男を操作している優越感を得るために、ある人はそうしている間だけは解離せずに済むという安息のために、ある人は自分をどこまでも貶めるために、肉体関係を求めてしまう。

 

もちろん、男性の場合もあるのだろうけれど、その場合には問題視などされず、ただの遊び人と名付けられるだけだ。

 

私は遊び人ではなかったけれど、同じような育ち方をした異性とただ堕落していくためだけに、そうした関係に陥った事がある。

 

一応、付き合っているという体だったので、遊び人ではなく普通の彼氏のように見えていたのかもしれない。

 

同じような傷を持つ人間同士は、きっと距離が必要になるのだろう。

 

おそらく、家庭で深い傷を負った人たちは、何かの濃度が高いのだ。

 

所謂普通の人たちならば気にならない程度の濃さなのに、傷を持っている人間同士が惹かれ合うと、その堕落の速度や深度が急激に増していく。

 

肉体関係は生の象徴であり、常に死が内在している人間同士の場合には行為が逸脱してしまう危険性を孕んでいるし、そうしたいという欲求をおそらくお互いが持っている。

 

自分をとことん破滅へと追いやりたいという衝動が、異様な行動に通じていくのだろう。

 

幸い、私はその泥沼に足を絡めとられる事はなかったけれど、私の周りにはそうした男女がいた。

 

芸術方面の人たちであれば、そうした逸脱も芸術へと昇華させる事が出来るのだろう。

 

しかし、普通の人たちにはそれが出来ないからこそ、泥沼にはまってしまう。

 

異性の体を通じてしか得られないもののために、自らの精神を切り売りしていくのだ。

 

だから、肉体関係は危険なのだ。

 

知らない間に自己の抱える不安に飲み込まれ、翻弄され、気が付けば廃人のようになっている危険性がある。

 

生まれ流れにして備わっている性質や、避ける事が出来なかった不幸によって目を出した性癖などに罪はあるのだろうか?

 

それが気になって仕方ないのだ。

 

結論から言えば、私はそれが罪だと思っていない。

 

しかし、どうしてなのか道徳心の強い人にそうした性質が宿ったり、目を出していたりもする。

 

本来であれば哲学的な思索に耽り、人生や死、世界や心の事を考えていたいのにもかかわらず、気が付けば性的な事ばかり考えてしまうのだ、という話を耳にした事がある。

 

さらにその想像は一般的なものではなく、一見すると色情魔のようにしか見えないものだ。

 

そんな自分が許せず、死にたいという話だった。

 

おそらく、誰であってもあらゆる性癖の萌芽を持っているのだ。

 

性癖だけに限らず、あらゆる可能性を持って人は生まれて来る。

 

偶然と呼ぶしかない出来事や、きっかけによって萌芽が成長してしまう事もあるのだと思う。

 

それが罪だとするならば、それは道徳如きの罪であり、人の罪ではない。

 

道徳心は社会を安定させるために必要であり、倫理観は内なる自己を正しく制御するために必要なものだ。

 

そして、道徳心も倫理観も人間が定めたものである以上、必ず不完全に終わる。

 

自然は人間如きの賢しらを認めない。

 

道徳的に見て罪だとされようが、自然は一顧だにしないのだ。

 

生まれた性質が求める力の前に、人間の道徳心などは雲散霧消するしかない。

 

とりわけ、性欲、食欲に関わる力の強さは群を抜いている。

 

精神的に弱っている状態で肉体関係を持つのは、あまりにも危険なのだ。

 

自分と相手を破壊する力が、そこに生まれる危険性が高いから。

 

それと同時に人は生きたいという欲求と、死にたいという欲求の相克の中でしか生きる術を与えられていない。

 

ともすると、破滅的な肉体関係を持ったというのは、人としてのあるべき姿だったのかもしれない。

 

大勢が向いている生の方向ではなく、死へと突き進むという違いはあるけれど、どちらも人として当然持っているものなのだから。

 

ちなみに、私の周りには変わっていると言われる人たちが大勢いるので、性癖に関しても相当寛容になってしまった。

 

性癖に限定をするから下賤な話に転がるのであって、そういう人たちは大概他にもおかしいと思われるような面を持っている。

 

全体的に見れば性癖が変わっているのではなく、その人はこれで全体が調和しているのだと分かって来る。

 

おかしいところがなければ、辛過ぎて耐えられなかった経験などを持っているのだから、逸脱はむしろ当然なのだ。

 

性の話に限らず、自分がいわゆる普通の人や、社会通念から外れている事を責める必要などどこにもない。

 

人は常に自然に導かれて、たとえ自分の思った通りではなくても、必ず変化や成長を遂げるものなのだ。

 

社会通念や道徳観念などの人工物に遮られて、自分自身の心が曇ってしまうくらいであれば、そんなものは唾棄してしまえば良い。

 

部分的には逸脱していたとしても、全体がそれで調和するのなら必要なものだと言って良いはずなのだから。

 

その逸脱が性に関する部分でも良いだろうし、仕事に関する部分でも構わない。

 

自分と世界を調和させるために必要なものは、自分以外には決して知り得ない。

 

周りの人と同じように、という事が叶わなくても、それはそれで問題など全くないのだ。

 

自分らしさというものが私には分からないけれど、少なくとも逸脱に罪はない事だけは分かる。

 

何が言いたいのか分からない記事になってしまったけれど、これからギャング・オブ・ニューヨークを見てデカプリオに惚れ直すつもりなので、今日はここまでにしたい。