かなり前からアリストテレスのニコマコス心理学や、孔子の中庸の話に惹かれている。
こじつけかもしれないけれど、私が今東洋医学や東洋の占いについて勉強をしているのは、この影響だと言っても良い面がある。
要はバランスを取れと言っているのだ。
たとえば、平穏な時には乱暴者として扱われている人であっても、戦時には勇敢な兵士として扱われる。
たとえば、平穏な時には優しい人が、戦時には臆病者だと罵られる。
どんな時でも優しければ良いわけではないのだ。
どんな時でも勇敢であれば良いわけではないのだ。
私たちの眼前に広がる世界は、1秒として同じ相貌をしていない。
細かく言えば私たちの体を作っている細胞は、毎秒細胞分裂のどこかの段階にある。
この細胞分裂の流れが止まらないという事は、つまり私たちの体は生まれてから死ぬまで変化し続けるという意味なのだ。
私たちの体ですら、諸行無常の流れに絡めとられている。
体に英気が充満しているのであれば何かしらの行動を取るのが良いのだろう。
憔悴しているのであれば休むのが先決になる。
人生というのは結局のところ、バランスをいかに取るのかという点に掛かっているのではないか、と私は思っている。
絶対的な善がない以上は、その都度その都度これが次善なのではないかと見当を付けながら、私はこれからも何か行動を起こし、失敗してそこから学んでいくのだろう。
とことん疑った方が良い状況、相手もいるだろうし、騙されても構わないと全く疑わずに接した方が良い人や、状況もあるのだ。
相手によって態度を変えるという意味になるけれど、これは決して長いものに巻かれろという意味ではない。
人生は1秒として同じ状況を用意してはくれず、経験は未来に対して答えではなく、参考にしかならない。
人は誰しもが正解かどうか分からない道を歩かざるを得ず、失敗を山のように重ねて死へ向かっていくのだ。
その有様は当事者からすればたまったものではないけれど、傍観者として見れば悲ししくもあり、楽しくもあるだろう。
人生とはまさに悲喜劇なのだ。
少し話がずれるけれど、私は東洋哲学でいうところの金の属性であり、対応している感情は悲、憂である。
私に最も近い感情は悲しみであり、憂鬱なのだ。
その理由は真実を見る傾向にあるからだとされている。
真実は誰にとっても苦しく、辛いものであり、希望など稀にしかない。
それを見てしまいやすい性質にあるからこそ、私は悲しむ事が多いし憂鬱になってしまう。
ちなみに東洋哲学では七情と言って、怒る、喜ぶ、驚く、思う、憂う、悲しむ、怖がるという感情がそれぞれの性質に対応している。
五行学説で生まれた日から計算出来るものだから、興味がある人はネットで調べてみると良いかもしれない。
木が怒り、火が喜び、驚き、土が思う、憂う、金が悲しむ、憂う、水が恐怖、驚きの感情を持っている。
相当話が脱線したけれど、私はよく何かしらについて憂いている。
人生を明るく、楽しく生きようとする人たちが多い中で、私は常に日陰を探しているのだ。
私は私の日常を壊すものを、どこまでも避ける傾向にあるらしい。
日常を壊すものというのは、心を乱すものと言い換えても良い。
制御できないほどの喜びを与えるものも、苦しみを与えるものも、私は全て嫌っているのだ。
過剰な喜びは急激な喪失感を与えるし、激しい苦しみはまた戻って来てしまったのかと精神の四肢を脱力させる。
楽しい事も苦しい事も、穏やかなものであればそれで良い。
私はもう良い思いをしなくても良いから、懊悩の世界に戻るのだけは避けたい。
人生は苦しみの連続であり、それに耐える道しか私には見付からない。
もういい年をした大人になったのだから、うまく隠せるようになったけれど、私の中身など自殺未遂を繰り返していた当時から、何も変わってなどいない。
苦しくて仕方がないわけではないけれど、人生に喜びを見出そうなどとは思えないのだ。
激しく脱線した記事になってしまったけれど、これ以上支離滅裂にならないようにここでやめておこう。