私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

デイジーは有能

以前から思っていたことだけれど、人の人生には自由なるものがあるのだろうか?

 

私が今言っているのはいわゆる「自由」の事であり、たとえば望むような人生を歩む事が出来るという類のものだ。

 

私はこれが嘘だと思っているのだ。

 

どう考えても望んだように生きる事は不可能であり、それを認めるのは充実した人生を歩むために、大変重要だと考えている。

 

言葉にすると陳腐だし、現代を生きる人間がそんな前近代的な発想でどうするのか、と呆れられてしまうかもしれない。

 

たとえば、生まれ持っているものは選べない。

 

顔も性格も身長も運動神経も視力も聴力も、何もかもが既に与えられている状態で生まれて来るのだ。

 

世界とはつまり自己の感覚を通じて感知する範囲に収まるものなのだから、感覚とは世界そのものだと言って良い。

 

つまり、私たちは世界観を既に与えられて生まれている。

 

そして、その世界観から抜け出る事がないまま、瞑目する時を迎えるしかないのだ。

 

既に与えられている世界観の中でだけ生きている様のどこに、自由なるものがあるというのか。

 

既に制限されているのに。

 

それが悪いとは思っていないし、むしろそれで良いと思う。

 

いくら自由だと盲信する人であっても、空を歩く事は出来ないし、深海で生活を送る事も出来ない。

 

私たちは「出来る範囲内」「選択肢が許す範囲内」で生きているだけであり、それは自由とは言わない。

 

さらにその選択肢を選ぶ時の動機は無条件ではなく、選択肢にすら条件が課されている。

 

たとえば、どれほどお腹が空いていても定食を5つ平らげる事は難しい。

 

自分自身がどれほどの食事を取れるのかという条件によって、頼める量が決まって来る

 

また食事に払える金額という制限もある。

 

本当は2つの定食を頼みたいけれど、お金がないから1つにしよう、という感じに。

 

これを細分化して考えていくと、空腹を満たしたいならそれほど食べたくはないけれど、量が多いものという選択肢になるし、アレルギーのものが入っていればどれほど食べたくても頼めない、という事も分かって来る。

 

最終的に私たちは条件によって「選ばされている」のであり、自由に「選んでいる」のではないと気付くのだ。

 

人生はまさにこうしたものの連続であり、全く自由などというものからは程遠い。

 

繰り返しになるけれど、私はそれで良いと思っている。

 

自由という言葉は往々にして欲望の隠れ蓑になっているのだ。

 

あれが欲しい、これが欲しい、こうしたい、ああしたい。

 

そうした欲望を制限する情動を、自由という耳触りだけが良い言葉が駆逐していくのだ。

 

人は自由なのだ、望む事は善なのだと思い込むと、いつの間にか欲望は叶えられるべきもの、叶える事が幸福な事だと感じるようになる。

 

手に入らないものでも簡単に望むようになり、手に入らないものが手に入らない事によって深い絶望感を覚えてしまう。

 

身の丈を知る、分相応というのは嫌な響きかもしれない。

 

しかし、それは自己防衛として役立つ感覚であり、自分自身が地に足を付けて過ごすために重要な心構えなのである。

 

私には何が出来て、何が出来ないのか。

 

それを知る事がとても重要なのだ。

 

夢は大きく、と言うけれど、そんな必要はない。

 

出来る事が大規模になってくれば、自然に夢が大きくなっていく。

 

その大きな夢を咀嚼し、消化出来る器があってこそなのだ。

 

いくら栄養満点だからと言って、赤ん坊に蜂蜜をやるとどうなるのか。

 

栄養価がそれほど高くなくても、赤ん坊にとって十分なだけの栄養があればそれで良い。

 

自由の概念は過剰な栄養、つまり毒となって働くのだという事を忘れないようにしたい。

 

さて、私はダウントンアビーの続きを見なければいけない。

 

なぜなら、我が愛するデイジーがパットモアさんと喧嘩をしているから。

 

デイジーは有能だから、そろそろキッチンメイドを卒業したいんだってさ。