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私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

マシューが帰って来たらしい

ずっと更新したいと思っていたのだけれど、受験勉強やら仕事やら伝統芸能の舞台の準備やらで、ゆっくりとブログを書く余裕がなかった。

 

そんな前置きはどうでも良いのだけれど、今日は何を書こうかと思っていると、ふと思い出した事があるので、その記事を書いてみたい。

 

社会や犯罪などに関する論文を読んでいた時、ある行為が犯罪だから非難されるのではなく、ある行為が大勢に批判される事によって犯罪になっていくのだ、という内容の記述を目にした事がある。

 

たとえば、昔は電車内でタバコを吸う事も許されていたそうだ。

 

私が大学生の頃までは駅のホームに灰皿が置いてあった。

 

しかし、現在電車内でタバコを吸ったとすれば、間違いなくツイッターフェイスブックなどのSNSに晒しあげられて、ともすると殺人犯よりも酷い非難の的にされるかもしれない。

 

犯罪ではないけれど、犯罪「的」な行為として指弾されるのだ。

 

結局、人の世は情緒によって支配され、動いている。

 

気に入らないという感情がまずあり、その鬱憤の体裁を整えて正当な主張のように見せかけるのが理屈というわけなのだ。

 

結局のところ、人は感情から逃げる事が許されないし、それが出来れば人ではなく機械になるのだろう。

 

感情がなければ感動する事もないし、楽しむ事も出来ない。

 

それは確かにそうだし、よく分かるのだけれど、やはり邪魔なもののように思えてしまう。

 

楽しい事はそれほど多くなくて良いから、怯懦や憤怒からも解放されたいと思ってしまう。

 

少し脱線したけれど、つまり世の中で言われている悪というのは、結局のところ多数派の意見という意味なのだ。

 

大勢が批判していればそれが悪いものに思えるし、少数であれば黙殺して構わないとどこかで思っているのだろう。

 

最近は、と言うよりも生まれてからこの方ずっと人間関係が煩わしくて仕方がない。

 

偉くならないと意見が通らないというのは、確かにそうなのかもしれないし、多数派にならなければ身の安全が保障されない、というのも理解出来ないわけではない。

 

しかし、自分の意見を通すのは善だという命題を果たすため、地位を上げようとする時に周りを押し潰すような真似が許されるのかどうか。

 

誰のために、何のために地位を上げ、己の意見を通そうとしているのかが不明瞭になるとは思わないのだろうか。

 

多数派になれば身の安全が担保されるわけでもない。

 

どこにいたって、何をしていたって安全などとは言い切れないのだから。

 

多数派に所属する事で安全だと錯覚する事が出来たとしても、やはりそれは錯覚でしかない。

 

どの立場だろうが、仲間の数がどの程度であろうが、やるべき事は何も変わらないのだ。

 

変わるのは概念としての部分で、それはたとえば社会、たとえば国家、たとえば世間体やいわゆる「普通」などと呼ばれている。

 

偉くなったら「みんな」の見る目が変わる、とか。

 

味方が大勢いると強くなった「気がする」とか。

 

実際には偉くなった自分を見る「自分の目」が変わっているだけであり、味方が大勢いると自らの欠点を省みる謙虚さを失い薄ら寒い安心感を得て、それを強さと勘違いしているだけなのだ。

 

何も変わっていないにもかかわらず、変わったように感じて行動を間違える、判断を誤る。

 

あの行為は犯罪的だ! と指弾していた人たちが間違った瞬間、周りにいたはずの仲間が雲散霧消するのが世の常であり、その良い例がネット上で散見される。

 

もちろん、ネット上だけでなく身の周りで良く起きる事なのだ。

 

勘違いや膨張したエゴを満たすために、特定の誰かを的に掛ける。

 

それがイジメなどに繋がり、たとえば相手が自殺などしようものなら、誰も悪くない場所まで引き下がろうとするのだ。

 

よくイジメを題材にした小説では、自殺したイジメられっ子の事を思い、イジめた側の人物たちが命の尊さを知っていく、という流れがあるけれど、実際にそんな事が起きるはずがない。

 

都合の悪い事は忘れるように出来ているのが人間であり、イジメで人を死に追いやった過去を隠そうと試みるだろうけれど、正面から向かい合う人間がいるとは思えない。

 

もちろん、2,3週間くらいは反省するのかもしれないけれど、結局のところ「自分の」運が悪かったで済ませてしまうのだろう。

 

そう思うと自分も含めて人間は、多くの不条理を抱え、それをいちいち正当化させて生きている事がよく分かる。

 

幸い、私は多数派に所属する事が少ないので、多数派や「普通」などの足を掬われやすい概念から遠ざかっている時が多い。

 

しかし、少数派に慣れてしまうのも困ったものなのかもしれない。

 

理解された時の反応に困るからだ。

 

理解されない事が当然だからこそ、理解や共感を示してもらうと硬直してしまう。

 

嬉しくもあるのだけれど、いまだに対応が分からなくなる事があるのだ。

 

きっとこれは一生続くのだろう。

 

取りとめもない記事になってしまったけれど、今日はここで終わりにしてダウントン・アビーというイギリスのドラマの続きを観よう。

 

マシューがね、戦争から帰って来たんだって、遂に。